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ふんふんふんふん・・・
女子寮から職場の工場に向かっている。この頃の私は毎朝この鼻歌を口ずさんでしまっていました。今日も一日頑張ろうといつも考えていたのです。やる気を奮い起こさなければ、今よりももっと取り残されてしまう気がしていました。
佐藤さんが教えてくれる機械の知識は分かり易くて楽しい。そして、幅が広くて興味が持てることばかりです。どんどんとたくさんのことを教えてくれる佐藤さんはとても優しい。
でも、厳しい教育もされています。私がミスをすると必ずその分析をしなければならないのです。単純なミスでも、そこにはあらゆる原因がある。それを考えさせられます。すべての原因を知っていれば、そのミスが無くなる。簡単に言えばそう言うことなのです。
だから私はミスを恐れて要らぬことまで考えてしまう。だからなのでしょう。私は詰まらないミスを繰り返すようになってしまったのです。
「どうしたの? 体の調子でも悪いのかな」
「はい、大丈夫です」
佐藤さんを心配させてしまっている。それは私には不本意で仕方がない。こんな筈ではない。こんなのは私ではないのに、どうにもならないのです。
「ちゃんと眠れてる?」
「十二時までには眠るようにしています」
小さく佐藤さんは頷いている。
「それじゃあ、また原因の分析をしてね」
嫌で仕方ない。ミスの原因は、この分析を続けているからなの。そう言ってしまいたかった。
「はい」
結局、そう答えるしかないのです。だって佐藤さんは私の教育担当者なのだから。
ふんふんふんふん・・・
業務を定時に終えて、急いで女子寮に帰った。今日はこれから私の歓迎会をしてもらえるのです。滅入った気分を変えなければ駄目でしょう。私は自分を叱りながら宴会に出掛ける準備を急ぎました。
正門の守衛室前に居酒屋さんのマイクロバスが停まっている。少し早く来過ぎたのかな。まだ職場の人たちは誰も来ていなかった。ドアが開いているので覗いてみると、運転手さんが「どうぞ」と言ってくれました。
営業スマイルだと思うけれど、私は運転手さんの笑顔に引き寄せられてマイクロバスに乗り込んでしまった。
「あっ!」
佐藤さんがいる。少しだけ目が合って驚いていました。乗っているのは一人だけでした。でも、何をしているのなんては思わない。それよりももう乗って良いのだって安心しました。佐藤さんはいつも困っている私を導いてくれる。良き指導者に恵まれて私は幸せ者です。
佐藤さんの横に座る。いつも作業服とは違う私服を着た佐藤さんは雰囲気が随分と違ってた。何故かちょっと恥ずかしくなって居心地が悪い。
「何だかワクワクしますね」
さっき目が合ったきり、佐藤さんは景色ばかり眺めている。きっとお疲れなのでしょう。こんな私の面倒をみてくれているのだから当たり前かな。
時間通りに皆さんが集まって来た。そして、マイクロバスに乗り込んで来ると、私に一人ずつ声を掛けてくれた。皆さん楽しい人ばかりです。女性が誰もいない職場だからと初めは心配していたけれど、今はいろいろな人たちと出会えて良かったと思っています。皆さんから大事にされているんだって実感していたのです。
マイクロバスが出発して暫く経った。窓から見える空はまだ明るい。それでも少しずつ青色が濃くなって、太陽は地平線へと近付いていた。
「夕暮れですね」
ずっと景色を眺めたままの佐藤さんに言ったのに返事をしてくれない。
「何だか怒ってますか?」
「ん? 何も」
こちらを向かずに答えている。こんなのはいつもの佐藤さんじゃない。
「だって、何も仰ってくれないし、ずっと向こうを向いたままじゃないですか」
「僕って、仕事以外ではこんな男だよ」
冷たい言葉を放ってくる。何が気に入らないのかなぁ。
「でも、顔が怒ってます」
「怒ってない!」
「やっぱり怒ってます」
強く言われるのはやっぱり怒っているってことです。私がちゃんと仕事を出来ないからだと思う。佐藤さんの足を引っ張るばかりで、何一つお役に立てていない。きっとそれが駄目なんだわ。
言葉を交わさないままで居酒屋に到着しました。佐藤さんは相変わらず外を眺めたままなので、私は先にマイクロバスから降りることにした。
店頭の大きな提灯に居酒屋さんの屋号が墨で大胆に書かれている。郊外の静かな場所でとても目立つお店でした。そして、申し分もなく綺麗な外観に魅かれる。女子会でも入り易そうな清潔感があった。
「きららちゃん!」
お店を観察していると、皆さんが呼んでくれました。そこは部長と課長もいるグルーブなので行かないでいるわけにはいかない。若手の皆さんは別のグループを作っていて、宴会のテーブルは二分していました。
ありゃあ・・・
乾杯が始まるまでにお酌をして回らないといけないのですが、ご年配の社員の話に掴まって放してもらえなくなりました。年を取ると話が長いってよく聞きます。同じ内容を何度も繰り返されているうちに、私のコップにまで満たされてしまう始末でした。
部長の挨拶が始まって、部としての昨年度の実績や今年度の目標を熱く語られた。皆さんが神妙な面持ちで聞き入っている。成程、私も頑張って早く一人前の仕事が出来るようにならないといけない。いつまでも佐藤さんに迷惑を掛けてばかりいては駄目なんだと改めて思うのでした。
「乾杯!」
漸く宴が始まりました。私はすぐに乾杯で干された皆さんのコップにお酌をしようと立ち上がりました。先ずは役職の順番で部長からと心得ています。
「武鎧さん。仕事のほうはどう?」
部長に注いだばかりのビールはすぐに干されて、私は二度目のお酌をしました。
「はい。佐藤さんはとても良くしてくださいます」
「あいつは熱心だからな。それで何を教わっている?」
「はい。モノづくりをするには、使う機械と道具を熟知しなさいと言われまして、そちらを勉強しています」
私は日報にその詳細を記入している。佐藤さんにもその内容を確認していただいて、教育されたことの漏れや間違いを正してもらっている。それに気付いたことを何でも書いておけば、佐藤さんはそれに対して答えてくれました。だから、私にとってその日報は宝物なのです。
あれ、読んでもらえていない? そんなことを訊くのって、私の教育に関心がないのかな。嫌な感じがした。でも、顔には出さない。
隣で笑いながら話を聞いている課長のコップが空いたので、こちらにもビールを注ぎました。
「いゃあ、武鎧さんは良くやっていますよ。佐藤君の話をしっかりと聞いて真面目にやってくれています。将来有望な女子社員になりますよ」
歯の浮くようなお世辞。私はこんな台詞を初めて聞いた。何故、こんなことが言い切れるのでしょうか。課長なんて一度も私の作業を見に来たこともないのに。
同じテーブルの皆さんにもお酌をしていると、私もお酌をしてもらうことになるのは同然の成り行きでした。
「きららちゃんは、ビールと日本酒のどっちにする?」
お父さんと同じ世代の皆さんに囲まれて、私の拒否権はないみたい。
「では、日本酒を―――」
すぐさま硝子製の盃を渡されて、とろりとした白濁のお酒が注がれました。
「いただきます」
濁り酒は初めでです。皆さんが注目する中で、ゆっくりと酒器を傾けました。すると柔らかい舌触りと共に甘味が口いっぱいに広がります。私はその美味しさのあまり一気に飲み干してしまうのでした。
「おおーーーっ」
皆さんが歓声を上げます。
・・・・しまった。お酒好きの女の子だってばれたみたい。
「おっ、美味しいですねぇ。こんなお酒は初めてです」
言い訳のつもりで言った言葉も口籠ってしまう。
「なかなかいける口だな。では、もう一献」
お酒が強いと思われているわ。でも、もう一杯注いでくれるというお誘いは、今の私に断れる筈がない。まるで悪魔の美酒でした。
「ありがとうございます。私もお注ぎしますね」
まるで娘と一緒に飲んでいるようだと言われて悪い気はしない。知らぬ間に酒量が増していく私が、皆さんの前にいました。
席を立って、他の人たちにもお酌をして回る義務を忘れてはいません。でも、義務と言ってしまうのは言い過ぎです。私の気持ちの問題なのですから。
上司がいないテーブルには私と年齢の近い皆さんがいてくれています。私は烏龍茶のグラスを片手で持って、ビール瓶を抱きかかえてそこに向かいました。
気楽に歓迎されて一安心です。上司とかお父さんとかがいない席は、私も冗談を言い合えて楽しい。お酌をしても、私には飲酒を強要してこない気配りがありました。特に松本さんは、私がお酌をするとどんどんと飲み干して、すぐにビール瓶を空にしてしまいます。
「そんなに急いで飲むと体に悪いですよ」
そう嗜めても聞き入れてくれません。旨い旨いと言って、まだお酌を要求するでした。
「武鎧さんは飲まないの? それなら、これを食べる?」
たった今テーブルに届けられたばかりのお皿を私の前に置いてくれました。
「アボカドの生ハム巻きですか」
上司たちがいるテーブルとはお料理の内容が違うみたい。あちらのテーブルはお酒が主体で、お料理はもつ煮とか串焼きとかが多かった。
「いただきます」
遠慮しても仕方ないので、そこは笑顔で食べることにしました。
「うーん、パプリカとチーズも入っていて美味しいです。松本さんも如何ですか」
一つ箸に摘まんで差し出すと、松本さんは迷いもせずにそれに噛り付きました。
「美味しいですか?」
頷きながら、私にもっと食べろと身振りですすめてきます。私も美味しいものは大好きなので、もう一つだけ頂くことにしました。
チーズのチュイルでーす、とまたお料理がきた。チーズを薄く焼いたものみたい。こんがりきつね色のチーズはとても美味しそうです。こちらのテーブルに来て正解でした。もうオジサマたちのお料理では満足できません。
食べていいの?
松本さんに目で訊くと、快諾してくれました。いい人だね、松本さん。
「いただきます」
塩味と、バリバリの触感が楽しい。これに合うお酒はワインでしょうか。
「それにはこれだねぇ」
松本さんがそっとグラスを渡してくれた。何とワインではないですか。出来る人です、松本さん。
「いいんですか」
少し遠慮しながら頂くことにしました。ちょっと控えめにしていないと、松本さんは何故か迫って来そうな気がしたからです。
少し酔いを醒まさないと――― 私はさりげなく、多分さりげなくしたつもりで、席を外します。宴会の部屋が出ると、廊下の向こうに土間がある。そこから中庭を散策できるようになっていました。
「鯉がいる」
小さな池がライトアップされていて、周りの植木が光の中に浮かび上がっている。気持ち良いそよ風がうなじを吹き抜けると、私はほっとして溜息を吐いた。
「良かった」
皆さん、いい人ばかりで安心です。職場では全然話し掛けてくれないのは、私が研修中だから遠慮してくれているのだと分かった。遠くから見守ってくれている。そんなお父さんのように優しさを感じた。
「よし!」
髪をアップにすると酔った体温を更に逃がしてくれる。うなじの後れ毛をくすぐる風は土間へと流れている。そこからは皆さんの笑い声が聞こえていました。
宴会の部屋に戻ると、賑やかに皆さんが食事をしながらお酒を楽しんでいた。私が暫く席を外していたことも気付かれてはいないみたいでした。
「えーっと、酔ってるのかな」
ずっと永野さんと密談をしていた佐藤さんに、やっと近付けました。それなのに佐藤さんの第一声は変だった。まだバスの中で怒っていたままなのかなぁ。
佐藤さんはグラスの氷を指で摘まんで口に抛り込むと、ガリガリと歯で噛み砕いた。
「永野さんと交代です」
虚ろな表情で、私は顔を見詰められました。何か違うものを見ているのかな。佐藤さんの表情が面白い。例えば、そこにあってはいけないものとか。決して見えてはならないものとか。
でも、それは一瞬のことでした。佐藤さんはすぐにいつもの佐藤さんらしい表情になった。
「永野さんに一理があったんですね」
私は佐藤さんが永野さんと話していた内容の続きを言いました。
あれ? もしかして聞こえていないの。私を見ているけれど、目が合っていない。どうやら、佐藤さんは私の髪を見ているようでした。
あ、あぁーっ。私、いつもと髪形を変えたから、もしかして分からないとか。
「新婚さんの話をしていたんですか。どんなだったんです、永野さんの結婚式って?」
何を訊いても答えてくれない。きっと私だと分からないんだわ。
こうなったら分からせてあげよう。佐藤さんにお猪口を無理に持たせて注いであげた。こんなことをする女の子は私しかいないですよ。
「乾杯です、佐藤さん」
「あぁ、乾杯っ」
あっ、やっと分かってくれたみたい。安心したわ。でもね―――
「うっ、日本酒だ」
何て簡単に引っ掛かってくれるのかしら。日本酒は飲まないみたいな佐藤さんに、ちょっと悪戯してやろうって思ったら、本当に飲んでしまうんだものね。
「永野は?」
「あっち」
「いつ、ここに現れた?」
「今」
「何で日本酒?」
「私が好きだから」
佐藤さんだから私はこんなことが出来る。この会社で一番親しい人だから触れ合えるのが楽しくて安堵できるのです。
「この大酒飲み」
「ひっどぉーい! 罰だ。もっと飲め」
時折酷いことも言われてしまう。でも、それは私も同じだから、おあいこなのかな。
「きららちゃんも飲めよ」
「飲んでますよぉ。美味しいお酒ですね」
私は酔っているせいもあって、佐藤さんとぴったりと並んで座っていても恥ずかしいとは思わなかった。それよりもむしろ、今はこうして寄り添っていたい気がしていたのです。
「僕はきららちゃんで良かったよ」
えっ! もしかしたら―――
私は慌てて佐藤さんの顔を覗き込んだ。やっぱり佐藤さんも私と同じことを思ってくれているって直感した。だって、それしか考えられない。こうして寄り添っている安心感が何よりの証拠なのです。
「実は私も良かったですよ。佐藤さんでなかったら、私は考え直していたかもしれません」
大学で勉強してきたこととはまるで違っている。菩提重工では化学を役に立てると思っていたのに、まったく知らない機械を扱うことになったのです。それを楽しいものだと教えてくれた佐藤さんと出会わなければ、とっくに退職していたかもしれません。今、厳しく教育して頂いているのも、機械を知らない私の為にしてもらっていると承知しています。
「飲みましょう、佐藤さん。お祝いですね」
佐藤さんはたくさんのお話をしてくれました。私にとても期待してくれていて、この男社会の業界を変革して欲しいって、こんな私には大き過ぎることを仰るのです。
でも、そういうのも悪くないと思う。私も女性だからって、初めから駄目だなんて思われたくない。寧ろモノづくりは女性こそが向いていると世の中に思わせたい。
佐藤さんはそれを手伝ってくれると約束してくれました。今の社会には私のような女性がどんどんと現れています。機械系女子、所謂メカジョの地位を確立しよう。
だから、宜しくお願いしますね、佐藤さん。