1:ヴァンパイア・ザ・マスクド
男は運命のように扉を叩いた。
つまり、4連打の余韻が消えるのを待ってからわずかにテンポを落としてもう4連打。
もう4連打必要かと男が拳を固めたところで、変化があった。
扉の前に入室許可と書かれたホログラムが浮かぶ。
なぜ言葉で「入っていい」と言わなかったのかは、男が開いた扉を見ればわかるだろう。
ダブルパッキンの防音扉が2枚重ね。
先ほどの激しいノックも、室内までは響いていなかったに違いない。
「こんな時間に俺を呼び出すなんて、常識をどこに置き忘れた?」
マスク越しで少しくぐもった声でそうこぼしながら、男は帽子とコートをコート掛けに引っ掛ける。
5月の昼日中に真っ黒なロングコートを着ている者に常識を語る資格があるだろうか?
黒いコートとは対照的に、男の肌は白かった。
明らかに東アジア系の顔つきと、細身であっても決して華奢ではない体つきには似合っていない。
どこか病的な肌色に、真紅のサージカルマスクが良く映える。
2019年末に始まったVウィルス禍の頃には誰もがマスクをつけるのが当たり前だった。
流行がほぼ完全に収まったこの2025年でも、少数の人々は未だ日常的にマスクをつけ続けている。
ある者は健康のため、ある者は単にメイクや髭剃りをさぼるため、ある者はファッションとして。
だが、彼がマスクをつける理由はその中にはない。
「平日の午後3時に上司が部下を呼びつけるのは、人間社会じゃ常識的なふるまいだ」
男のボヤキに応えたのは、スーツをまとった初老の男性。
しっかりと糊の利いたワイシャツにセミウィンザーで締められた薄いグレーのネクタイ。
角ばった黒縁眼鏡、グレーがかった髪はキッチリ七三に撫でつけられている。
ガラスケースに入れれば、『ジャパニーズサラリーマン』の札をつけてスミソニアンに展示できるだろう。
「それは部下が人間の時だ。俺と侯爵夫人の逢瀬を邪魔する権利はあんたにゃないはずだぜ、左門」
男はサングラスを外し、左門と呼んだ男性を睨みつける。
その瞳は真紅だ。
サングラスを胸ポケットにしまいながら、男は左門の横でノートPCを開いている女秘書に笑いかけた、のだろう。
赤いサージカルマスクを、裏から二本の牙が押し上げる。
賢明な読者の皆様にはもうお分かりだろう。
男は吸血鬼だ。
マスクはファッションだけではなく、うっかり牙を見られないための物だったのだ。
「あのメスブタを侯爵夫人なんて呼ぶのはあなたぐらいよ」
若い秘書が拗ねたように口をとがらせる。
若干色黒の肌とハッキリした目鼻立ちが、南国の雰囲気を醸し出す。
タイトスカートのスーツに包まれた肉体だけみればそれなりに成熟しているのだが、ティーンじみた態度が色気を打ち消していた。
吸血鬼はまたかと言わんばかりに肩をすくめて、子供にするように言い聞かせた。
「彼女への侮辱は止めてくれ、千草。俺が日本国民をやっていられるのは侯爵夫人のおかげなんだから」
その口調が、ますます千草を拗ねさせる。
一人の女として扱ってほしい相手から子ども扱いされては拗ねるのも当然ではある。
しかし、そんな反応しかできないあたりが子供っぽいと思われる理由なのだが。
「いつものじゃれ合いはそれぐらいにしてくれ。VIPがお待ちだ」
左門が指を鳴らすと、秘書とは逆の側にホログラムが浮かぶ。
浅黒い肌をした女性。
決して若くは無いが、活力を失うほど老いてもいない。
むしろ、老いは彼女に知恵と威厳を与えていた。
『お久しぶりね、英武』
声にいささか疲れが混じったのは、時間のせいだろう。
日本は昼下がりだが一万㎞向こうの彼女にとっては深夜のはずだ。
完璧なアクセントで名前を呼ばれて、男はさすがに居住まいをただして座りなおした。
それでも、彼女の肩書を考えればラフに過ぎる態度ではあったが。
「そうだな、パドマ。いや、今はマダム・プレジデントか。就任祝いも送らなくて済まないね」
『これまで通りパドマでいいわよ。あなたから何か届くと意味深すぎるわ』
男から女へのプレゼントなら、その意味の深さなどたかが知れている。
しかし、日本国保有の吸血鬼から、米国初の女性大統領へのプレゼントとなると、どういう意味があるのかシンクタンクでも議論が百出するだろう。
「違いない。では、あなたの頼みを聞くことでプレゼントの代わりとしようか」
『あら、聞く前からそんなこと言うと後悔するわよ』
「かもね。でも、どうせ俺に拒否権なんて無いんだろう?」
英武の推測は正しい。
形式上はともかく、実質的には。
それを知っているから、パドマは空しい慰めの言葉などは言わず、動画を再生させる。ジョーカー元大統領が撃たれた時の動画だ。
「ああ、これなら何度も見たよ。気の毒だったな」
『誰に言ってる?』
わずかに笑みを含んだ大統領の問いに、英武は撃たれた大統領を抱きとめた男を指さす。
「このSPに。護衛対象をみすみす暗殺されたんじゃ、解雇確定だろう」
『彼が解雇されることはないわ。貴重なエルダー・ヴァンパイアだもの』
「エルダー!? ニオファイトじゃないのか?」
英武は改めて画面を注視する。
2025年現在、「ヴァンパイア、吸血鬼は存在しますか?」という問いに対する一般人の回答はYESだ。
ただし、あくまでVウィルス感染後遺症の一つとして、だが。
実際にはもっと古くから、歴史の闇の中に彼らはいた。
それを知る者たちは、古い方を『エルダー』、ウィルス後遺症を『ニオファイト』と呼び分ける。
『顔を変えてるから分からないかもしれないけど、プルフラスよ』
「ワラキア戦争以降会ってなかったけど、ずいぶんイケメンになっちゃって」
程度の差はあれ数百万はいるニオファイトと比べると、エルダーの数は少ない。
基本的には全員顔見知りだ。
「エルダー・ヴァンパイアを、元大統領の護衛につけるとはずいぶんと、その、豪勢ですな」
左門の言葉を選んだコメントに、パドマは苦笑した。
もちろん彼女は、左門が何を言おうとして言葉を飲み込んだのか理解している。
『プルフラス本人からの強い希望だったから仕方なく、ね。もちろん、専属と言うわけでもなかったのだけれど』
ニオファイトはせいぜい人間に毛が生えた程度。
人間よりちょっと体が丈夫で力が強く、日光や十字架やニンニクがちょっぴり苦手で、血液嗜好がある。
だが、エルダー・ヴァンパイアは核兵器よりも厄介だというのが国際戦略的な評価である。
それを退任した大統領の護衛に使うというのは明らかにコストと釣り合わない。
「で、これがどうしたんだい? ジョーカーが殺されたのは、あんたにとっちゃ願ったりかなったりだろう?」
『とジョーカー派は思ってるわね』
もううんざり、とパドマが肩をすくめる。
ネット上の陰謀論サイトでは、彼女がこの暗殺の糸を引いたことになっているのだ。
「そうでもない、と?」
『2024年の共和党候補に選ばれなかった時点で、彼の政治的価値は終わってる。今更私が、スキャンダルのリスクを冒して彼を殺す理由なんてないの』
熱狂的ファンたちがどう思おうと、現実は素っ気ない。
いや、ファンたちですら今回は議事堂を占拠すべきだとは思わなかったのだから、やはり熱は冷めているのだ。
「じゃあ、犯人を捕まえたい?」
『それはFBIにやらせてあげなきゃ』
「じゃあ何なの、ですか」
ギリギリで敬語を思い出した千草に視線をやった後、パドマは長く沈黙した。
マグカップからコーヒーを一口すすってから、パドマはようやく口を開く。
『プルフラスは今、米国の管理下に無いわ』
カフェインの助力が無ければ言えなかった、そう言い訳するに足る内容だ。
『米国管理下の吸血鬼が何人か心臓に杭を打たれて滅ぼされているのが確認されたのが一昨日、
その中にプルフラスが居なくて、彼の行方が分からなくなっていることが分かったのが昨日』
「彼の居場所が分かったのが?」
『3時間前よ。どこだと思う?』
「見当もつかんね。自由の女神のスカートの陰にでも隠れてたのかい?」
英武の下手なジョークに、それでもパドマはクスリと笑った。
彼女がこれから告げる事実に比べれば、はるかにユーモアにあふれていたからだ。
『ノースコリアよ』
たっぷり3呼吸は場が凍り付いた。
パドマはもう一口コーヒーをすする。
「酷いジョークだ。ラジー賞ものだよ。プルフラスってのはワラキア戦争の壮行会で、ロシア代表も中国代表もいるのに『星条旗よ永遠なれ』をアカペラでやった奴だぜ」
『ジョークだと嬉しいわね。私も情報長官を叱りつけるだけで済むし』
笑えないジョークを応酬する二人を置いて、左門は冷静につぶやく。
「人権が安い国の方が吸血鬼を飼うコストは安い。ノースコリアの方にはプルフラスを抱え込む動機はある。吸血鬼不拡散条約も、彼らは気にせんだろうしな」
ニオファイトも吸血衝動があるが、輸血パックで我慢できる。
だが、エルダーは定期的に生き血を直接人間から吸わねばならない。
そして、吸われる人間には死亡と感染のリスクが伴う。
要するに、国家が吸血鬼を飼い続けると、定期的に人間の生贄が必要だ。
人命が高くなった欧州では保有吸血鬼数の削減も検討する国も出てきている。
逆に、人命さえ供給できるなら吸血鬼の兵器としての運用は核より簡単だ。
「核の次は吸血鬼って理屈は分かるけど……あいつの愛国心はどうなったんだ?」
「ジョーカー元大統領への個人崇拝にすり替えられたんだろう。どちらにしろ、ノースコリアがこれ以上カードを得るのは日本としても容認できない」
『理解が早くて助かるわ。米国大統領として、日本国保有吸血鬼・赤戸英武によるプルフラスの排除を提案します』
対等の同盟国として提案の形をとってはいるが、拒否できるような内容ではない。
最初に英武が見抜いた通りだ。
「バルバトスとフラウロスは?」
英武の問いに、パドマは答えないことで答える。
本来なら沖縄駐在の米国保有吸血鬼がこの件の担当だったはずだ。
同盟国とはいえ、裏切り者の始末を他国任せにする意味など無い。
この作戦に参加しないということは、バルバトスとフラウロスはおそらく本国に呼び戻されている。
つまり呼び戻さなければならない事情がある。
そこまで想像を巡らせて、英武は顔をしかめた。
「そんなにか!」
呼び戻さねば本国の防衛網を維持できないほどの数のヴァンパイアがプルフラスによって滅ぼされた。
そんなことは、決してパドマは認めないだろう。
『侵入の助けとして中国の国家主席に話はつけておいたわ。必要書類は、今日中にそちらに届くはず。プルフラスの個人データもね』
罪滅ぼしの意をこめてか、バックアップだけは十分なことを認めて、左門は決断する。
「提案を受け入れます。高くつきますよ」
『そこは、あなた方の上と話をさせてもらうわ。じゃあね、英武。あなたの侯爵夫人にもよろしく』
パドマのホログラムが消える。
事態を解決できる人物に預け、彼女はようやく休むことができる。
預けられた方の吸血鬼は、大きく息をついて天井を仰いだ。
紫外線を含まない人工の光は、彼の白すぎる肌にも優しい。
「やれやれ、良い事が1つしかない会談だったな」
「1つ?」
問う千草に、英武はマスクの下でニヤリと笑って見せた。
「彼女を侯爵夫人と呼ぶのは、俺だけじゃない」