後編
あの少女は願いを叶えたのだろうか。それとも叶えなかったのだろうか。どうして独りだったのだろうか。
そんなことを考えながらトーラの力を受け継いだフーは、今、たった独りで廃村に立っていた。あの時あの少女に襲われた村よりももっと悲惨な状態にされた村の中、それでも消えて亡くならない自分に絶望を感じ、怒りを潜ませていた。
フーの姉はとっくの昔に亡くなった。長生きとはいえないが、この世界では若くはない死だった。あれ以来、十代前半の容姿で生き続けているフーのその有様を見ていたら、姉がどう思うようになったのか……。想像は悪い方へしか向かなかった。悩めば悩むほど、奇異の目で見られるほど、フーの中には押さえ切れないトーラの力がくすぶりはじめた。
そんなフーに気づいた姉は何度となく、フーに語りかけた。
「私はフーと一緒にいられて幸せよ。だから、好きなように生きていいのよ」
抱きしめられて落ち着く時もあった。姉がいたから抑えられたのかもしれない。それともフーの望んだ『生』だった姉の傍だったがためにフーとして生きていられたのかもしれない。
しかし、人間のフーにとってその力は大きすぎるものだったのだ。溢れて抑えようとすれば、身が引き裂かれる痛みに襲われる。
その痛みは、あぁ、だから、前のトーラはあんなに簡単に人を殺していたんだ、とフーに簡単に思い描かせた。
痛みから逃れるには、それしかないから。
姉以外の人間は、フーの変わらぬ容姿を見る度、気味悪がる。人間では有り得ない姿。姉が死んだその日、フーはその視線の中でとうとうそれを暴走させ始めた。
あの頃は、まだ姉がいたから耐えられたのだろうか。それともあの頃はまだ私の中にある力はこんなにも膨張していなかったのだろうか。あの頃は、……。巡る思考はいつものことだった。そして、記憶はいつしか目の見えない姉の手を引いて、川辺を歩く自分を現した。川辺を歩いて畑に行く、水車の横にあるみどりの田畑。青い風に吹かれながら、姉が収穫したものを洗っている。水の流れる音が耳に優しく、とぷんという音に視線を移す。過去が甦る。
熟れたトマトがフーの足下に流れてきていた。
姉の流してしまったトマトを拾い上げた時、その水の冷たさにはっとして、姉の赤く腫れる手を見つめた。
「お姉ちゃん、ごめんね」
その手を握ったフーに姉はわずかにずれる視線を持つ瞳を悲しそうに細め、フーの手を握り返した。
「フーはずっとわたしの妹だから、ずっとわたしに心配をかける。そんな日々が夢だったの。だけど、迷惑ばっかり。本当にごめんね」
トーラを使えば、その過去は変えられた。だけど、魔女になったそこにフーは存在しない。
「ごめんなさい」
フーは一人で泣いていた。
フーの立つ場所は破壊される。まるで魔女の通った跡を消し去るがごとく、無に帰すのだ。残るのは何もない砂の海。人影一つ残らない。
町を滅ぼし、大量に人を殺傷するフーはその度に深く傷付き、深く悲しんだ。望んでいない事が、フーの周りで起きる。フーの中の弱さが力に拍車をかける。
発作のように力が吹き出て、町がなくなる。その後は苦しさもなくなり、気分がよくなる。フーは自分が悪魔になっていくのを感じた。
そして、思う。勝手に悲しんで、傷ついて、一体誰がこんな状態にしたっていうのよ。私じゃない。そんなことを思いたい。私じゃない。いつしか、自分を庇う言葉でさえ、己を傷つけ始めた。死にたいと思うようになった。
しかし、待てど暮らせど銀の剣を持つ勇者は現れなかった。
世界がその凶悪な魔女を狩ることに夢中になっている最中、フーは久しぶりに仲間というものを持った。
ドンク、マシュウ、ニーナ、そしてドンクの兄でもあるアグナル。
旅仲間というよりも、度重なる偶然と必然の結果だった。彼らは偶然フーに出会ったと思っているが、フーが魔女を追う彼らに出会うのは必然だった。
彼らもまた魔女を追う者達だった。彼らと同じ宿に泊まることが多く、彼らとの他愛のないおしゃべりはフーに心の安らぎを与えた。彼らの武勇伝や家族の話。王様に出会った時の話や、手柄を立てて認められたい話。本当にささやかな時間だった。特に年の近いドンクとはよくその兄アグナルについての愚痴を聞き、笑い合っていた。それは、姉との日々を思い出させ、年若いドンクのことを妹のように思い、姉の気持ちをなぞらえられるとても貴重な時間で、同時に失いたくないものでもあった。そんな安らぎの中でもフーの中の力は抑えられなくなる。その上、彼らの側で暴走させる事は絶対に出来ない。だから、時々フーは彼らの前から姿を消し、また、何事もなかったかのように現われた。その度に彼らは魔女に襲われた場所へと向かい、フーは「ここで待っているわ」と伝えた。
彼らはフーが魔女である事を知らない。
フーが破壊した町だとも知らないで、彼らはその魔女の惨さをフーに語りに帰ってくる。フーは胸の奥を冷たくして彼らを待つことが多くなっていた。それでも傍にいてくれる誰かを求めているのだ。愚かだとフー自身何度も自問した。
しかし、その時間も長くない。フーが魔女であると彼らが知る時がやってくる日は近い。彼らがフーのことを魔女だと疑うが早いか、フーが彼らを消すが早いか。
どちらにしても、もう一緒にいられないという答えを自分の中に無理矢理ひねり出した。
「いってらっしゃい」
そう見送った彼らの背中が遠くなる。その背中に「ありがとう」と囁く。
誰もいない場所へ。それだけが、フーの目的地だった。しかし、人のいない場所を求めて歩いたはずなのに、なぜか人里の傍で夜を越える。山奥に潜んでいたはずなのに、再び人の顔を見たくなる。どこかでまだ何かにすがっていたいのだろう。そんな弱さにあきれてしまう。だけど、いつか解放される、そんな思いを捨てきれない。星の瞬きを数えながら、流れ星に願いを託してみたくなる。しかし、願うとすれば自らの死以外ない。
誰もいない夜道を彷徨えば、人に出会うことも多い。いつ何時あの発作が起きるのか分からない状態で人には会いたくなかった。だから、人の気配に身を隠す。気づけば昔を追い求めていた。いつもどうしてか、川縁りを歩いていた。流れていく川の音に誘われて、ただ生きていたかったあの頃のように姉の手を引いて、まっすぐに明日だけを目指していたかった。明かりのない土手の先を見て、己の未来を見ているような気さえする。そんなことを考えているとふと足を滑らせてしまった。土手を滑り落ちて、二の腕の外側と頬を擦ってしまったようだ。じんじん痛むし、熱を持っている。どうしてこんなところだけ、人間のままなのだろう。化膿して腐ったとしても死なないのならば、痛みも感じない化け物になってしまえばいいのに。冷たい水に手を入れると涙が流れた。川に映る変わらぬ自分をあざ笑う月がその川面に揺れていた。泣き声はいつしか嗚咽に代わり、止められなかった。時間だけが過ぎていく。私をすっかり置き去りにして。
油断していた頭上から聞こえた声に心臓が跳ねた。アグナルが月に照らされて、土手の上から手を伸ばしていた。
「探したぞ」
「どうして、……?」
どうして、手を差し伸べてるの? 手柄をあげるためにはちょうどいい獲物だったはずでしょう? どうして信じてくれたの? どうして?
「……追いかければ、分かるさ」
彼に会えて嬉しかったのは否めない。しかし、それ以上に不安が募った。アグナルは何も知らない。この力の本当の恐ろしさも。そして、最後に不信を抱く。きっとそれがいけなかったのだ。心が揺らぐ。
つかんだ手が温かくて、涙が流れた。
追いかければ……。それは魔女の足跡をという意味だ。アグナルは魔女を追いかけてフーを見つけた。
例えばこれが物語の王子とお姫様だったら……この瞬間に悪い魔法が解けて、幸せな結末になったのかもしれない。
いや、例えばあまたの惨状を起こす前ならば……。痛みを受け止めていれば。
幸せな結末にたどり着けたのかもしれない。
すべてが灰になった土地に佇むフーは遠い過去を準えていた。歩き続けた先にあった村もフーがトーラになった時と同じように死んでしまっていた。しかし、こんなになにもない場所ではなかった。家は数件崩れていた。泣き声も聞こえていた。どこかに息づく気配が残っていた。急いで迎えに行った姉は何かを感じたのか、涙を流しながら微笑んで「無事でよかった」とフーを柔らかく抱きしめた。
アグナルはきっと小さな妹のように思ってくれていたのだろう。
フーはいつまでたっても十四歳のままだから。
謝罪をすることが出来たとしてもその言葉はあまりにも軽すぎる。アグナルは魔女のフーを信じたために死んでしまったのだから。
どうして、逃げたんだい? 君が魔女のはずないじゃないか。だって、君は僕らの仲間じゃないか。辛い時は一緒に乗り越えよう。一緒にいるから。
どうすればいいのか、考えよう。
心配しなくても、みんな君を疑ったりしていない。
一緒にいたいと思った。しかし、信じられない。自分も人間も。信じたいのに、何も信じられない。自信がないのよ。
私は非道な『魔女』なのよ。
フーの迷いは彼を灰にする。信じていると抱きしめられたフーがやったのだ。体の芯の部分から震えるのが分かった。何が溢れていくのかも分からなかった。涙なのか、それとも悲鳴なのか、叫びなのか。そして、その溢れ出たものが川上の町をも呑み込んだ。
滅ぼした町の真ん中に立つ虚しさ、虚無感……、身体を吹き抜けていく風がフーの心と身体をボロボロと風化させていく。フーはもう動く事も出来ないくらい疲れ果てていた。何も見ていなかったフーの視線が一点に集中した。そこにフーの面影はなかった。
やり直したい。すべてを。過去を書き換えて、すべてをもっと、楽しくしたい。どこで間違えたのだろう。トーラを持った時点だろうか。違う、そこを変えれば私たち姉妹は存在しなくなるじゃない。じゃあ、どうすればいいの? どうすれば良かったの?
姉の代わりに馬に蹴飛ばされればよかったのだろうか。あの時魔女に殺されれば良かったのだろうか。
あぁ、そうなのかもしれない。
私があの時、一緒にいたいなんて思ったからだ。姉を差し置いて生きたいとわずかにでも思ったから。姉のために生きたいなんて……偽善でしかなかったんだ。
フーの瞳に映ったそこにはかつては仲間だったドンク、マシュウ、ニーナが立っていた。そして、ドンク以外の二人がフーに飛び掛ってきた。
彼らは自分を殺しに来る。……楽にしてくれる。
そう思った瞬間、相反する気持ちが、フーを不安定にした。死にたいのに、生きたかったという。そんな矛盾した気持ちだった。あの力がフーの体内から溢れ出した。そう、身体の中を寄生虫が歩き回っているかのように、その力はフーの体の中を廻った。
「近寄らないで!」
フーの最後の言葉は二人には届かなかった。そして、トーラの力が二人を焼き払った。灰となり、風に流される。フーの中にはもう、考える力すら残っていなかった。どうして、自分が笑っているのかも、どうして一歩遅れてドンクが走ってきているのかも……。だたドンクの『生』を望んでいることはよく分かった。彼女が死ぬ事は赦されない。
自分勝手にも傷つきたくないという感情が彼女を救おうとするなんて。
フーはドンクに呆れるように微笑みかけていた。
腹部に殴られたような痛みが走った。ドンクの持っていたアグナルの剣がフーを突き抜けていた。傷口からは赤い人間の血がじわじわと服に滲んで剣を伝った。ドンクがこの剣を抜けば赤い血が噴き出す。フーの血はまだ赤い。
人間と同じ。死ぬ事が出来る……。
満足だった。朱に染まったその剣は確かに銀色に輝いていた。そして、フーはドンクに微笑を残して、大地を赤く染めた。
砂が風にさらわれるように、フーのすべては跡形もなく時に埋もれた。
お時間いただきましてありがとうございました。