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前編


 とぷんと何かが水に落ちる音がしたので、トマトを捥ぐ手を止めた。姉が流れていくトマトを手探りで追いかけようとしているところだった。


「あ、大丈夫。私が拾うから」


その声に、顔を上げて姉ははにかんだ。姉がいくらまさぐってもその手に触れることのなかったトマトを簡単に拾い上げたフーは、そんな姉の表情を見て重たく沈んだ。


「お姉ちゃん、ごめん。あのね、背負い籠(しょいこ)、忘れてきたみたい。だから、ここで少しの間、待ってて。急いで帰ってくるから」


「気をつけてね」


両の手のひらを上に向けたまま微笑んでいる姉の手の上に冷たいトマトをのせると、フーはそのまま村へと走り出した。背負子を忘れたのは、多分無意識の願望。フーは姉を見ていると胸を締め付けられて、息が出来なくなる。そんな状態からの逃避なのだ。


 フーは緑の匂い沸き立つ畑に目を向けないように徐々にスピードを上げて、息が上がったところで空を見上げた。真っ青な青がある。腕を尽き伸ばしても届かない青。畑の命は精力的に育ち捥ぎどきを待っている。


 綺麗だね、大きく育ったね、という自分の言葉の節に引っかかる。姉は「本当ね」と言う。


 私と姉は見ているものが絶対的に違うはずなのに、姉はフーを否定したことがない。


 フーは息を整えるために膝に両手を当てて、しばらく時間を止めていた。


 姉はフーのせいで目が見えなくなった。


 幼かったフーが厩で馬の背後に回って掃除をしたから、姉はその瞳から光を失った。姉が絶対にだめだと言っていたのに、こっちの方が早いからと勝手に始めたから。


 怯えた馬に蹴られたのは姉だった。姉に突き飛ばされたフーは、頭から血を流してぐったりと倒れる姉を見つめ、わぁわぁ泣くしか出来なかった。


 騒ぎを聞きつけてやってきた領主に助けられた姉だったが、その目からは光が奪われていた。


 原因はよく分からない。打ち所が悪かったという者もいれば、厩の細菌が目に入ったんだろうという者もいた。


 誰もが、命が助かったのは奇跡だと言った。そして、それ以来フーは姉の目の代わりになろうと決めたのだ。


 世話焼きの領主夫妻は孤児の私たちに小屋与えて、耕すための畑もくれた。年貢も要らないという。ただ、役立たずの食い扶持まで面倒は見れないということだ。


 仕方がないし、当たり前のことだ。甘えるわけにはいかない。裕福な領地ではないのだから。それでも、住む場所を与えてくれたのは姉妹にとってありがたいことだった。


 村の人たちも姉妹にとても優しかった。姉妹の育てた野菜と交換に米をくれたり、小麦をくれたりする。男でのない姉妹の育てにくいもの、獲りにくいものを文句も言わずに交換してくれるのだ。


 それでも、それらがフーの胸を疼かせるのだ。


 川縁りをずっと歩き、一時間ほどすれば村のはずれが見えてくる。その村はずれに姉妹の住む小屋がある。小屋というより納屋に近いその木戸を開けると藁と埃の匂いが鼻をついた。馬小屋を思い出させるこの臭いがフーは嫌いだった。それらはお前は咎人だとフーを責め立てているような気さえする。


 誰にも咎められることのなかった咎人は、黄色い靄を吸い込んで背負い籠を探した。


 背負い籠は小屋の机の足下にぽつんと置かれてあった。はぁ、とため息がこぼれ出た。見落とす訳のないところにある背負子。姉が悪いわけではない。悪いのはフーなのだ。それでも、ため息が出てしまう。そんな自分に嫌気がさす。重い足取りで、背負子に手を伸ばしたその時、光が閃いた。一瞬のことだった。何が起きたのか分からなかった。しかし、外が嫌に閑かになった。


 当たり前に聞こえていた風の音、葉擦れの音、日常音。


 閃光がすべての音を吸い取ってしまったかのようだった。


 恐ろしいことが起きる。そう感じるまでに掛かった時間はほんの数秒だった。しかし、振り返った時には、その静けさの終焉にふさわしい破壊音が響いた。


 小屋の木戸はすでにあっけなく蹴り飛ばされて、光沢のあるブーツで床に踏みつけられていた。そして、その上にはフーよりもずっと幼い女の子が立っていた。しかし、その出で立ちはそのそれではない。鬼の類いによく似た眼光を持ち、その色は人にない緑色。そして、見慣れない黒く短いスカートにやはり見慣れない黄縞の毛皮を腰に巻いて彼女はすべてにおいて異彩を放っていた。



 魔女だと思った。



 やはり、魔女は人とは違う。穢らわしくて、恐ろしい者。甲で拭われたばかりの頬には血液が引き延ばされて、さらに赤い舌がその跡になぞられてにまりと嗤う。フーと目が合ったのだ。


 そして、彼女の様子はそれは家の外が一体どんな風になっているのか、人々が悲鳴を上げる間もなく静かになった理由を物語った。息を呑んだ途端に奪われたのだ。


 生きている人間はおそらくフーと同じように息を潜めて、ただ恐怖が過ぎ去ることを祈るしか出来ないのだ。


 そんな景色にフーの嫌いだった人々に甚大なる被害を与えた魔女がにやりと笑った。


 ここにきてフーを殺してしまわないのはきっと楽しんでいるのだ、とフーは思った。魔女なんて生き物は、容姿は同じなれど、人とは全く違う存在なのだから。人を殺しておいて楽しんでいるなんて、バケモノ以外他ならなかった。そして、次は貴女よ、とばかりに全くそぐわない無邪気な瞳を送ってきた少女。それに対し、溢れ出る恐怖を押し籠め、フーは怒りを滾らせ、叫んだ。


 死にたくなんかない。だけど、このまま死んだって構わない。ただ、ちゃんと姉を思って生きてきたという理由が欲しかった。


「私の命くらいいくらでもあげるわっ」


幸い姉はまだ川辺の畑に行ったきり、おそらく、フーの迎えをただ野菜を洗って待っているのだろう。背負い籠を忘れたおっちょこちょいな妹を。背負い籠を取りに帰った妹が戻ってくるのを村より離れた川辺で待っている。


 やっと耕すことを許された畑が遠かったことが今になって幸いしているのだ。そして、目の見えない姉を置いて死ぬわけにはいかない。そう、フーは命をあげたいわけではない。姉を支え続けなければならないのだ。それが叶うのならば、命なんていくらでもあげよう。矛盾の塊だけれど、そんな思いだった。



 しかし、そういうフーの言葉に少女は疑問を抱いた。いままで少女が命を奪ってきた人間の命乞いは、自分のためだけにされてきていた。「何でもする。だから命だけは……」


 死ぬのが嫌なのはその人自身。つまり本来ならフー自身。


 この子は他の人間とは違うのかしら。……。


 少女は小首を傾げて考えた。


****

 

 この世界にはトーラという力を持つ魔女がいる。トーラは人の望みを叶えるために存在し、人々が求めてやまない力を有している。そして、トーラは命を懸けてなお望むものを叶える。


 だから、何でもされても、トーラには響かない。少女もかつて願ったのだ。願い、叶えた。


 少女は確かに凶悪な魔女であった。しかし、トーラを持つ魔女である。


「おまえの命なんて微塵たりともいらない」


「じゃあ、どうしてこんなことするのっ。私は生きていたいの。私はお姉ちゃんの目が見えるようになるまで、ちゃんと生きていたいのよっ。お姉ちゃんが困ったら。お姉ちゃんが生きていけなくなったら。ぜんぶ……私のせいだから」


少女は息を吐き出した。なぜかフーにはその仕草が酷く悲しく思えた。


「なんで? そうね、苦しいからよ。生きたいのならば生きればいい。だけど、ならば、私を救ってちょうだい。この力があれば、貴女のお姉さんの目は見えるようになるかもしれないわ。望んでちょうだい。この力が欲しいと」


「その力を……その力で?」


「えぇ」


考えが浅かったとは思わない。フーの生きるすべての答えがそこにあるような気がしたのだ。


「欲しい」


フーはその言葉にすがっていた。もしかしたら、そこにフーガ求める救いがあるような気さえした。


「お願いします。その力私にください」


ゆっくりと少女が微笑み返し、大きな深呼吸をした。ここに広がるすべてを吸い込んでいるかのように、少女の中にあるすべてを吐き出すようにして、少女の胸が上下する。空気が澱んだ。少女が胸を押さえ苦しみ始める。いや、時が歪み、浄化されていく。


 新しい時の中に、彼女はいない。それでも少女にあった苦悶が消えていく。


 安らかな眠りに就くのだ。


 少女がくたりと崩れ落ち、彼女を黒く染めていく。その黒い影から何やら薄気味悪いものが染み出して床を伝い、フーに向かって流れてくる。それはじわりじわりと、滑らかに。木の幹を樹液がゆっくりと流れ出てくるようなスピードで、止めどなく。


 フーは床に縫い付けられたかのように、動けなかった。


 フーは魔女になるのだ。そう思った。


***


 体を焼くような痛みからわずかに解放されて視線をあげると、崩れ落ちははずの少女は見当たらず、別の魔女がいた。


 先の少女よりもずっと深い緑の瞳をもつ、ヘビのような冷たさを感じさせる魔女だった。


 そして、トーラの持つ特別な力を教えた。人々が望んでやまない力。それは、過去を自在に変える力である。あの少女が言った「目が見えるようになるかもしれない」からくりの内容。しかし、トーラは『トーラ』になった時点で時から外れる。


 フーには選択できた。姉と過ごし続けるか、姉の目を治し、ヒトというものからすぐにでも決別するか。


「トーラが必ずしも人を幸せするなんてことはありませんわ。だけど、貴女がトーラになったからこそ、貴女方が生きているのです。助かった方もたくさんいらっしゃるでしょう」


 そう、あの時の少女が私に興味を持って、トーラを譲ったから私たちは生きていた。フーは彼女の膝にすがるようにして泣きじゃくった。彼女はただそんなフーの頭にそっと手を置き、静かに佇むだけだった。そして、去り際にこう言った。


「いつか貴女に終わりをもたらす者が現れましょう。その者は銀の剣を持つ勇者として栄光を得る。きっと貴女は満足できるはず。それがわたくしからのおくりものです」


それきり、彼女はフーの前に現れたことがない。



明日の19:00頃に後編を投稿して完結します

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