【Rotten Red snapper(腐った鯛)】
エマに連れて行かれたのは、華やかなブティックが並ぶ綺麗な通りから外れ、ドブの臭いと道端にゴミが散らかったままの裏通りにある酒場。
看板らしきものは1階に吊るしてあるが、店はどうやら地下にあるようだ。
2人で、まだ明りの灯っていない、薄暗い階段を下りて行く。
「まだ開いていないんじゃないか?」
時間は午後3時、酒場が営業を始めるには早すぎるし、昼にランチや喫茶を取るには怪し過ぎる店構え。
エマがドアノブに手を掛けて押すと、ギイーっとドアの軋む音とカランカランと言うカウベルの音が不釣り合いに鳴った。
予想通り店内も薄暗い。
だけど閉まっている訳でもない。
安い煙草の臭いの奥、バーカウンターの向こう側で酒の瓶に半分以上隠れてはいるが、店主らしき黒のパンチパーマの頭が見える。
「まだ開いてねえよ、帰りな」
店主が振り向きもしないで思いがけず来店した客を、不愛想かつ不機嫌そうな声で追い返そうと断りを入れるが、そんな声などお構いなしにエマが返事を返す。
「ベル、来ているんでしょ」
その途端、店主が今までとは打って変わり、俊敏な動きで起き上がり「エマ! 久し振りじゃねーか」と、まるで旧知の友を出迎えるような明るい甲高い声で叫んだ。
「ミューレ、久し振り。いいかげん客によって態度を変えるのを止めないと、商売にならないわよ」
「なに言ってんだよ。店を構える以上、客を選ぶのも店主の務めってものを知らねえな……ところで、隣の地味っ子ちゃんは?」
ミューレと呼ばれた店主がエマの後ろに立っていた俺に気付き、頭の天辺から爪先までジロジロと執拗な目つきで見る。
「あっ、この子“ナトー”って言うの。ナトちゃんって呼んであげて。そして、こちらはミューレ」
そこまで言ったエマが、何かに気が付いたのが分かった。
「さあ、おふたりさん。ここでIQテストよ」
「「IQテスト」」
「そう。初対面の相手の素性を当てっこするの!さあ、ミューレはナトちゃんの正体を見破れるかな?」
「う~ん……」
そう言って、さっきした鋭い目つきで、もう一度俺のことを見る。
左手が鼻の下に伸ばした髭を触る。
「見た感じ司書さんと言いてえところだが、俺のこの目で睨まれても動じない所を見ると只者じゃねえ。しかも俺の目の動きを逆に観察までしてやがる……CIAか?」
「はい。次はナトちゃんの番よ」
「元刑事」
「元? なんで今、刑事じゃないの?」
「片方の肺を遣られているから、辞めた」
「はい、ナトちゃんの勝ぃ~」
エマが俺の手を取って、高々と上げた。
「ちぇっ、CIAじゃねえのかよ」
「惜しい! 心情的にはミューレも勝利なんだけど、この子はフランス外人部隊の特殊部隊LéMATの隊員よ」
「おぉ!スーザン以来1世紀ぶりにフランス外人部隊が採用したって言う女性兵士ってのは、あんただったのか。それにしても兵士にはみえねえ……」
エマが目で俺に合図した。
その合図が何を意図するのか直ぐに分かり、俺は眼鏡とウィックを取ってみせた。
「おぉ! 変装までしていてとは見破れなかったぜ、地味っ子ちゃんがスーパーモデルに変身だぜ。それ、リズにしてもらったのか?」
「そう。最初はね」
「じゃあ今は?」
「この子が、自分でしている」
「そりゃあスゲー」
褒められているのは分かるが、ただ被って眼鏡を掛けているだけだと伝えると、ミューレは違うと言った。
変装と言うのは、ただ髪形や化粧・衣装を変えただけでは直ぐに見破れると。
肝心なのは、変装する人間になり切る事。
それと、ウィックの被り方ひとつにも、コツがある事を言った。
「ここまで出来て、CIAじゃないとは、その方が驚きだぜ」
「でしょ。ところでベルは?」
話が久し振りにベルに戻ると、ミューレは少し嫌な顔をして親指で後ろを指した。
指の向こうにはVIP席なのか、カーテンに閉ざされた個室があり、微かに明りが灯っていて人の居る気配がする。
カーテンの向こうに居る男の名は、ピエ-ル・ベルモンド。
RAIDで一番の狙撃手と言われた金メダリスト。
だけど、今は昼間から呑んだくれている、ただの酔っ払い。
「また昼間から呑んでいるのね」
「ようエマ、久しぶりだな。リビアでは御活躍だったようだな」
「よしてよ」
ミューレが差し入れだと言って、出来立てのマルゲリータを運んできた。
ピザの香ばしいチーズの臭いとトマトとバジルのスッキリした香りが狭いVIPルームに広がる。
エマがベルの隣に座り、用件を話し出したのをその隣に座って、おとなしく聞いていた。
「駄目だ、駄目だ! 言っておくが俺は殺し屋でもないし、暗殺者でもない。狙撃銃を持っちゃいるが、ただの警察官だ」
「でもRAID(フランス国家警察特殊部隊)だよね」
「RAIDは死刑執行人じゃない!」
「サミットの警備にはRAIDも総動員されるはずよ。もうすでに狙撃班は現地に下見に入っているわ。なのに何故あなたはここに居るの? そしてあなたの班も」
「そ、そりゃあパリで何かあったときのために残っているのに決まっているだろう」
「そのパリに何かあるかも知れないのよ」
「……」
「ねえ、お願いだから協力して」
「駄目だ」
「どうして?」
「パリに何かあったとしても、俺が出て行くのは、その“何か”があった後だ」
「罪もない人が大勢巻き込まれるかも知れないのよ。それでもダメ?」
「駄目だね。帰ってくれ」
ずっと2人の話を聞いていたが、ここで口を挟んでしまった。
「エマ、帰ろう。こいつは役に立たない」
そう言って席を立つ俺をベルは恐ろしい形相で睨み付けた。
「黙っていろ!たかが戦争屋の分際で何が分かる?1世紀ぶりの女性隊員だか何だか知らねえが、お前に何が分かる」
ベルが酒瓶を投げようとした手をエマが止める。
「分かるさ、狙撃手はスコープを使う。その中にあるのは生きた人間の表情。しかし狙撃手が引き金を引いた途端、その表情から命が抜ける。死ぬ間際、稀に目が合ったと思うこともあるだろう。だが、それはただの錯覚に過ぎない。離れた場所からスコープ越しの狙撃手の目など見えるはずもないのだから。錯覚は全て自分自身の心の怯えだ。狙撃手の中には、それに耐えられなくなって酒や麻薬に手を出して潰れて行くものも多い。そして、それが今のお前だ」
「っち。知ったような口を利きやがって、この戦争屋が」
“パシン!”
店内に平手打ちの音が響く。
エマがベルを打ったのだ。
「馬鹿にしないで頂戴。こう見えても、この子は外人部隊のNo1狙撃手よ! 今迄黙っていたけれど、ナトちゃんの言ったことは正しいと私も思う」
「No1狙撃手……? ハンス・シュナイザーより上なのか?」
「この前はな……」
「面白い。 元オリンピック代表メダリストの俺と勝負して勝てば、無条件でこの話呑んでやろう。だが、もしお前が負けたら、その体を俺に食わせろ」
「――いいだろう」
「ちょっとナトちゃん、あのハンスだって過去に1度も勝ったことがないのよ」
エマが心配して俺の体を支えるように抱く。
「いいの? 大切な彼のために取っておくんじゃなかったの?」
「関係ない」
「……わかったわ」
なにかを決心したように、エマがベルと向き合っている俺の前に割って入り、ベルに言った。
「この子の代わりに、私がアンタの生贄になるわ」
“エマ!”
しかしベルは驚く顔ひとつも見せずに言葉を返す。
「もう、お前は喰い飽きた」と。
そのあと直ぐに店を出た。
勝負の日取りは、後日エマが決める。
店のVIPルームには、出来立てのピザを顔に投げられて溶けたチーズとトマトソースまみれになったベルが、何故かニヤニヤしながらそれを手ですくって舐めていた。
パリ警察 ミューレ警部補
事件の捜査中に片肺を失う重傷を負っている。




