【Mr. Musa's house(ムサの家)】
涙が止まらなくて目が覚めた。
頭を撫でていた手の感覚がスーッと引くのを感じて「待って」と、その体に抱き着いて止めた。
目の前には、サオリの笑顔。
“戻ってきてくれた”
思わずその唇に、自分の唇を強く押しつけて「行かないで!」と、しがみつく。
口の中にサオリの舌が入り、私の舌を絡めてくる。
“違う!サオリじゃない”
とっさに離れると、そこにあったのはエマの顔。
「なっ、なんで、ここにいる」
「ゴメ~ン。やっぱり入ってきちゃった。だって寝心地好いんだもん」
「い、いつから」
エマは、俺の問いには答えないで、ニッと笑う。
「なっ、なんだ」
「ナトちゃんって、いつも強がっているけれど、本当は甘えん坊なんだね」
そう言って、俺の頭をヨシヨシして撫でる。
「よせ!」
俺は、その手を払いのけてエマに背を向ける。
「だって、私がベッドに入ると直ぐに、足を絡めて抱き着いてくるんですもの。その気になっちゃうわ♪」
「……」
「おまけに……うふふ♡」
「……」
エマは途中で話をやめて笑った。
夢の中でしたことを、全てエマにやったというのか?
「いっ、いや、わ・わた……お、俺は……」
なんとか弁解しようと思ったけれど、何をしてしまったのか分からないから、何をどう言えばいいのか分からないで、言葉が詰まる。
そんな俺にエマが覆いかぶさってきて、優しくキスをしてきた。
「うっ、な・なにを」
「いいのよ。寝ている時ぐらい素直になりなさい」
恥ずかしさと、動揺で、無抵抗にエマの唇を受け止めてしまう。
夢の続きを見ているような、甘いキス。
全身の力が抜けたように、そのキスを受け止めていた。
シャワーを浴びて服を着替えるとき、装備がないことに気が付いた。
「装備は?」
エマに聞くと、ナイフや拳銃などを詰めたバッグを見せてくれた。
「どうするの?」
「基地へ返す」
任務が打ち切りになったのかと思って聞くと、そうではないと答えた。
「じゃあ、なんで?」
「一介のシリア女性が持ち歩くのは不自然でしょ」
そう言って、催涙ガスの仕掛けられた口紅と、煙幕の出るヘアスプレー、それにスタンガンになる携帯だけ渡された。
「でも、どうして?」
「昨日のセバという男が言った宿に、引っ越すから」
昨日の男というのは、どうみてもザリバンの一味臭い男。
それこそ、危険だから銃は居る。
「折角、敵の懐に飛び込むチャンスが来たのに、銃やナイフが見つかった途端、オジャンになるのは嫌だわ」
なるほど、そういうことか。
昨日からエマが目立つ行動ばかりとっていたのは、そういう趣味ではなく敵に目をつけてもらうためだと、その時ようやくわかった。
「OK、従うわ。でも、どうやって武器を基地に戻すの?」
あとを付けられたら、それこそお終い。
昨日俺たちを送ってくれた連絡員が、二度も迎えに来たのでは怪しまれる。
「大丈夫よ。もう直ぐモーニングサービスが来るから。それからナトちゃんは、今からアマル・ハシュラム。私の従妹よ」
そう言ってパスポートを渡された。
「アマちゃんが好い?それともマルちゃん?」
「アマルで良いよ」
意味が分からない。
この大事な時に、呼び方だの、モーニングサービスだのなんて。
コンコンとドアをノックする音が聞こえ、ボーイが朝食を運んできた。
背の高い黒人男性。
「ブラーム!」
白い服が良く似合う。
たった一日離れただけなのに、懐かしくて抱き着いていた。
「よう。軍曹」
戸惑いながら、そのゴツゴツした手が肩に置かれる。
“いけない、昨日からすっかりエマのペースに、はまって思わず抱き着いてしまった”
「どうしてここにいる?」
体を離して俺が見上げると、ブラームがエマの方を向いて、回答を促す。
「実は、このホテルのオーナーはフランス人で、以前から懇意にしてもらっていて、つい先日ここのセキュリティー担当者が2名辞めて空席が出来たの。それでアフリカ人とスウェーデン人の2人を雇ったって言うわけ」
「スウェーデン人、ニルスもか?」
ブラームがコクリと頷く。
「じゃあ、辞めた2人って言うのは……」
「そう、エージェントよ」
「回収した武器は、セキュリティー担当者のロッカーに仕舞っておく。俺とニルス少尉は交代でどちらかが部屋にいるが、もしも居ないときは暗証番号19450815を押せばいい」
「覚えやすい番号だな」
暗証番号は、世界中を巻き込んだ大戦争が終結した日。
「他にHK416も余分に2丁置いてあるから自由に使ってくれ」
「さあ、さっさと朝食を食べてファジル(早朝の礼拝)に行くよ」
「気を付けろよ」
帰ろうとするブラームに、そう言った。
「ああ、軍曹も……」
朝食を済ませ、外に出ると直ぐにアザーン(礼拝の始まりを告げる放送)が鳴り出した。
急いでモスクに向かい、そして礼拝を終え、セバが居ると言った場所に向かった。
男は居た。
しかも仲間らしき5人の若い男たちと一緒に。
「よう、来たな。で、どうする?」
「泊めてもらうわ、もう少しここに居たいから」
「豪華ホテルじゃないけど、いいのかい」
「いいわ。あんな外国人が経営するホテルなんて、まっぴらよ」
あれだけホテルを堪能しておきながら、どの口が、そう言うのかと思って聞いていた。
「荷物は、それだけかい」
「そうよ」
エマが答えるなり、周りを取り囲んでいた男がエマと俺のバッグを取り上げた。
「何をする!」
咄嗟に取られたバッグを取り戻そうとした俺を、エマが止める。
「ちょっとぉ、何すんのさぁ」
エマがセバに文句を言った。
「すまねえな。宿の主は気の好い奴なんだけど、少し神経質でね。ほら、この辺りは治安が悪いだろ。先日もフランスのスパイってぇ奴が1人、街中で銃を撃ったばかりでね。まさかとは思うが、護身用の銃やナイフを持っていないか調べさせてもらうぜ」
1人の男が俺たちのバッグを調べている間、2人の男が後ろから俺たちの肩を掴み、正面に立った男2人が銃床のないAK47を衣服に隠して構えていた。
少し滑稽に思った。
その体制で銃を撃ったら、確実に仲間を撃ってしまうじゃないか。
所詮、テロ組織の底辺に居る奴なんて、この程度。
「大丈夫、普通の旅行者だ」
バッグを調べていた男が声をかけるとセバが、まるで今気が付いたかのように銃を構えている二人に「何してるんだ、大切な客人に銃など向けやがって」と怒った。
芝居じみている。
肩を抑えていた男の手が離され、俺は肩を払う。
そう、着いたゴミを掃き捨てるように。
それを見たセバが「生娘か?」とエマに囁く。
エマは「シエヘラザードよ、王が求めるなら相手をさせるわよ」と、笑って言った。
“おいおいこの女、作戦名まで言っちゃったよ”
“って、俺は求められても、王の相手などしないぞ!!”
セバについて行くと通りの奥に古びた食堂らしい建物が見えて、開けっ放しの戸をくぐると、そこには白い髭を生やした老人が居た。
「その娘たちか」
頑固そうな顔に、大柄で、ぶっきらぼうな物の言い方は威圧感がある。
「ああ、ムサ。宜しく頼む」
ムサと呼ばれた男がジロリと俺たちを睨む。
隙のない眼差し。
チンピラとは違う。
「用は、それだけか?」
俺たちから目を離し、今度は店内を屯すセバの仲間たちを睨んで言った。
「ああ」
「用が済んだなら、さっさと帰れ。客以外の長居はお断りだ」
「ちっ」
セバの仲間が嫌な舌打ちをした。
「じゃあ、またな。えっと……」
「エマよ。そしてこっちがアマル」
「じゃあエマにアマル、またイシャ―(就寝前の礼拝)の後にでも会おう!」
「いいけど、脅しはなしよ」
エマの言葉に、ムサが鋭い眼光でセバを睨んだ。
「なっ、なんにもしてねーよ」
ムサの視線に怖気づいたセバが慌てて弁解し、逃げるように急ぎ足で帰って行った。
明かりのつけられていない店内は、思った以上に暗く感じる。
窓の外の景色が、やけに明るくてホワイトアウトしてしまいそう。
ぶっきらぼうな物の言い方のわりに、店内は綺麗に掃除されていて清潔感が漂っている。
屹度、この男の作る料理は美味いのだろうと思った。
「シリアから来たのか」
「ええ」
「なぜ、こんなところに来た」
「シリアが酷過ぎて逃げてきました」
「嘘を言うな。逃げるのなら、ここよりも治安の好いエジプトやクウェート、キプロスを選ぶはずだ。そんな理由ではセバは騙せても俺は騙せないぞ」
「では、正直に言います。戦争でレプティス・マグナやガダミスが壊される前に見ておこうと思ってきました。そして出来るなら壊さずに残しておきたいと思っています。……これなら、どうでしょう?」
大胆過ぎると思って驚いた。
素性も知らない、今あったばかりの老人に、そこまで話してしまうとは。
確かに任務はバラクを捉えてザリバンの弱体化を狙うのが目的で、エージェントの救出は、その一部。
もしも、この老人がエマの話した内容を誰かに話せば、勘の好い奴ならすぐ俺たちの正体を見破るだろう。
しかしムサは、エマの言葉をスルーした。
「ふん。知ったことか。もう騒ぎは御免だ。それにセバにあまり調子を合わせんでくれ。あいつは悪い奴じゃないが調子者だから、後先のことが考えられない」
そう言うと、ムサは店の奥に進んで行き、部屋を見せると言った。
ムサについて階段を上がるエマと俺。
部屋の前でムサは言った。
「この通り、普通の民家の一室だ。泊まるなら泊まれ、宿代は要らんが、その代わり夕方に店を手伝うのが条件だ。料理は出来るか?」
顔を睨まれたエマが困ったように、ニヒヒと笑顔を見せる。
「お前は」
次に俺の顔を睨んだので「できる」と答えた。
「では、お前は注文と給仕。そして白いほうは調理と皿洗いでどうだ。条件は他にない。空いた時間は好きにすればいい」
夕方の少しの時間だけ店を手伝うだけで、泊めてもらえるなんて好条件だった。
俺たちは、本当にそれだけで良いのか、なにか裏でもあるのか考えているとムサが「何をしている。泊まるのか、泊まらないのか?」と聞いてきてエマが慌てて「はっ、ハイハイ。泊まります」と答えた。
ホテルとは違い、部屋は普通の家庭にある寝室だった。
ベッドも二つある。
どこかしら生活感があるのに、生活臭さがない。
まるで大切なものを隠しているような、不思議な空間。
どこかで時間を止められているようにも感じる。
「ちぇっ、ベッドが二つに分けてあるじゃない……ねえ、くっつけて一つにしようよ」
「だめ」
「ちぇっ」
敵の真っただ中に入ったかもしれないのに、緊張もしないエマを逞しいと思った。