【Enlistment test Marathon(入隊テスト、マラソン)】
ハンスと呼ばれた男は、黙って俺の前を歩いて建物の外へ出た。
身長は高いが、軍人としては意外に細身。
金髪の髪は少し短めだけど、傭兵と言うよりもカレッジスクールの運動部に良く居るようなタイプ。
ラフに制服を着ていて手強そうに見えるが、兵士独特の野蛮そうな影はないから、事務職員なのかもしれない。
そして、しばらく歩くとトラックのある広いグラウンドに着いた。
「7周走れ、ただし時間は12分以内」
「一周の距離は?」
「400メートル。時間内に走れなかったら、ここで帰ってもらう」
人より早く、そして長く走るのは得意だが、タイムを計った事など無かったので、この2800メートルを12分以内で走ることがどのようなことなのか分からない。
屹度、学校などに行っていればどのくらいのペースで走ればいいのかペースが分かるだろうけれど、学校になど行った事も無い俺には、そんなことは分からない。
「服を脱いでいいか?」
「邪魔な分だけなら」
そう言ってハンスは背を向けた。
入隊テストで運動能力を調べられるのは分かっていたし、更衣室も無いだろうと思っていたので、服の下に水着を着ていた。
水着にしたのは、万が一水泳があると不味いから。
体操用の服を何着も買う程、贅沢は出来なかった。
服を脱ぐ女性に背中を向けるなど、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、意外と紳士だ。
芝生の上に革ジャンとセーター、それにカーゴパンツを脱いで置く。
「準備はいいぞ」
後ろを向いていたハンスが向き直り、スポーツ用の水着を着た俺の姿に一瞬驚いた顔をして「他に着替えは持ってきていないのか」と聞いてきた。
俺が「ない」と答えると「そうか」と言って、ポケットからストップウォッチを取り出した。
俺がトラックの中に入って行くと「Ready? 」と声を掛けられた。
今まで使っていたフランス語から、英語に変わっている。
恐らくこれも試験の一環だろう。
この程度の英語も知らないようでは、話しにもならないということだ。
「Go!」
合図とともに飛び出す。
どの位の時間で何メートル走れるのか測ったことのない俺にとって、ペースなどと言う悠長なものはない。
ただ出来るだけ早く走るだけだ。
競技場のような整備されたトラックを走るのは初めてだが、瓦礫の散らばる道に比べると随分と走りやすい。
ただ、同じ所をグルグルと周るのは距離感が掴みにくかった。
それでも3周くらい走ると、それも慣れた。
あとは時間との闘い。
自分が、どのくらいのペースで走っているのか掴めない限り、限界で走るしかない。
おそらくチャンスは、この一度きり。
なんとなく騒がしいと思っていたら、いつの間にかギャラリーがいた。
スポーツ用とは言え、水着姿の女が走る姿は、男どもにとっては格好の見世物だろう。
5周目に入ったくらいから、あまり物事を考える余裕がなくなって来て、それ以降は自分が今何周目なのかさえ分からなくなる。
オーバーペースによる酸欠症状。
まあ12分が経った時点で、何らかのアクションは向こうで起こすだろうから、俺はそれまでブッ倒れないように走るだけだ。
スタート地点にハンスが立っているのが見えた。
合格なのか不合格なのかは分からないが、これで走るのを止められる事だけは確かなようだ。
俺は、悔いの残らないように最後の力を振り絞って全力疾走でゴールラインを駆け抜けた。
ゴールと共に全身に力が入らなくなり、倒れそうになるのをハンスが支えてくれた。
細身の割にはバネのような硬い筋肉があり、俺はその腕に確りと抱きしめられ、ハンスが持っていたバスタオルに身を包まれる。
その光景を囃し立てるように、ギャラリーが口笛を鳴らすが、構っちゃいられない。
「結果は?」
「お前は時間内に9周走った。合格だ」
「じゃあ、これで傭兵になれるのか?」
「まだだ」
ハンスが冷たく、そう言った。
ほんの少し休憩を取らせてもらったあと、俺は体育館に連れて行かれた。
グラウンドに集まったギャラリーたちも、ゾロゾロと着いて来る。
「これを着ろ!」
投げられたのは、厚手のダスターで作られた上着に、綿のパンツ。
上着にはボタンもなく袖が短く、同じようにパンツの裾も短い。
サイズを間違えているが、着るしか仕方がない。
パンツの方は付いていた紐で縛るタイプだということは直ぐに分かったが、上着は羽織るだけなのかと思っていたら、このセットを纏めていた平たいロープを巻くのだと教えられbow knot(ボウ・ノット※蝶々結び)に結ぶと、ギャラリーたちが大声で笑った。
俺が笑う奴らを睨み付けている間に、ハンスがロープを結んでくれ、それを見たギャラリーたちがまた冷やかしの口笛を鳴らす。
「すまない」
「構わん」
服を着終わった俺にハンスは、いつもは俺が対戦相手を選ぶのだが、今日は特別に選ばせてやると言った。
「三人選べ」
俺はギャラリーの中から、一番大きなモヒカンの男と、少しも笑わなかった黒人、それとハンスを指名した。
「お前でも、いいか」
さっき走り終えたとき、倒れ込む俺を抱きかかえてくれたその腕が事務職員の物ではない事は分かっていた。
どんな奴なのか分からないが、ここを追い出される前に一度戦ってみたいと思った。
「いいさ。自由に選ばせてやると言ったのは俺だからな」
何故かハンスの口角が少しだけ上がった気がした。
「いいか、こいつはジェイソン、ボッシュ、フランシスの三人を僅か30秒足らずでダウンさせてきたヤツだ。女だと思って甘く見ずに掛かれ」
ハンスがそう言うと、ギャラリー達がヒューと、冷ややかな口笛を鳴らし囃し立てた。