【France, September 2020(フランス、2020年9月)】
イラクの赤十字キャンプを出てから1年。
ようやく、中世の宮殿が華やかに街を彩るフランスの首都パリに辿り着いた。
お洒落なカフェが並び街行く人たちが着飾って歩く通りを、焦げた革ジャンに汚れたカーゴパンツ履いて歩く俺は、昼のこの街には浮いている。
道行く人たちが、怪訝そうに俺を見ているのが分かる。
汚れた服はもちろんのこと、当分シャワーも浴びていないから当然だろう。
華やかな通りを抜け、暗い路地裏に入ると、同じようにボロの革ジャンや汚れたパーカーを身にまとい、薬の注射針をぶら下げた奴らが何人も居て、そのうちの何人かが声を掛けてくる。
屹度、仲間だとでも思っているのだろう。
だが俺はお前たちの仲間じゃない。
お前たちのように、未来を棒に振るための今を生きている訳じゃない。
俺には、しなければならないことがある。
だから、ここに来た。
ヤク中毒の奴らを無視して歩き続けると、急に後ろから肩を掴まれた。
「よう、ベービー。俺たちと一緒に遊ばないか?」
俺の肩に手を掛けてきた奴は、身長2メートルはあろうかという金髪の大男。
しかも横幅もある。
その後ろにも少しだけ背の低い、似たような体格の男が二人。
スキンヘッドと黒髪の男。
あとの二人も身長は180センチ以上あり、体系はどれも筋肉質だ。
どうせ夜の街に雇われている用心棒の類だろう。
俺は、掛けられた手を払いのけ、無視したまま先を急いだ。
「待てよ。連れねーなぁ~」
三人組の男の一人、スキンヘッドの奴が前を塞いで、歪に口角を上げて笑いかける。
だが、その目は決して笑ってなどいない。
獲物を狙うオオカミの目。
「どけ」
男の肩を押し、無理に前に進むと、男が革ジャンの襟を掴んできた。
「さわるな」
そう言って、襟を掴んだ男の手を捻じり上げると、素っ頓狂な声を上げて襟から手を離した。
もっとも、手を離したのはこの男の不注意でも自由意志でもない。俺は以前教わった日本に伝わる古武術を使ったので、放さざるを得なかったというのが正しい。
当然、武術だから痛みも伴う。
スキンヘッドの男は、俺に手を掛けたほうの親指の関節は脱臼しているはず。
少しやり過ぎた。
「オイ! 待てよ!」
金髪の大男が俺に声を掛けてきた。
振り向くと、手にナイフを持っている。
他の二人も。
面倒な連中だ。
「なにがしたい」
俺は男に聞いた。
「オメーのケツに、用がある」
そう言ってニヤッと笑う。
汚い笑顔。
「あいにくだな、俺のケツは汚いものを好まない。排水管にでも突っ込んで処理しろ」
「なめんなよ、このアマ!」
親指を脱臼させてやったスキンヘッドの男が、いきなりナイフを持った手で飛び掛かってきた。
俺はスウェイバックして、その腕をかわし、伸びた手を掴み逆関節に投げ飛ばすと、まるで投げたボールのように道端に転がり、そのままゴミ箱の中まで飛んで入った。
「ヤロー!」
黒髪の男が真直ぐに襲ってきた。
今度は小刻みにナイフを横に振る。
腰が引けていて、おかしな格好だ。
「ビビッて、いるのか?」
俺が言った言葉に反応して、男が踏み込んできた。
そのタイミングで、横から来た手を掴み下に捻じると、男は俺に目の前で大きく弧を描くように仰向けに倒れた。
俺は倒れた男の股間を踏み台にして、残った金髪の大男の前に立って聞く。
「さあ、どうする?」と。
男が俺の腹を目掛けてナイフを突いてきたので、今度はその手を順手に回し、背中を向かせた後、逆手に捻じり上げる。
背丈が違い過ぎるので、捻じり上げると言うよりも、突き上げると言う方が正しい。
男が痛さで仰け反ってバランスを崩したところを、お構いなしに突き上げたまま前に走り、その顔面ごと壁に叩きつけると“ゴキッ”と肩関節の抜ける音がして「ア“ーッ」と体に似合わない甲高い悲鳴を上げた。
背後から向かってくる気配を感じて振り向くと、さっき倒した黒髪の男がナイフを両手に持ち突進して来ていた。
俺は直ぐに黒髪の男に向かって素早く一歩踏み出すと、その足をそのまま前に滑らせるように身を沈め、もう一方の足を絡めて挟んでやった。
俺のカニ挟みを喰らった黒髪の男は、前のめりにバランスを崩し、目の前にいる金髪の大男に向かって倒れ込み、持っていたナイフをその尻に刺してしまう。
再び大男が上げる“ギャー”という断末魔の叫び声を背中に、俺は路地を進み目的の場所を探した。
スラム街を通り抜けると、ようやく目的の場所に辿り着いた。
門の両サイドには軽機関銃を持った番兵が二人と、中央に腰に拳銃をもった下士官が一人。
その奥にある守衛室兼受付らしき建物の前にも同じ装備をした三人組と、その奥のヤグラの上には重機関銃が睨んでいた。
イスラエル軍の紹介状を下士官に見せると、直ぐに受付に回され、そして護衛付きで別の棟にある事務所に連れて行かれた。
そう、俺はフランス外人部隊の入隊試験を受けに来たのだ。
国籍を持たない俺がここへ来るのは容易なことではなかったが、中東の反政府組織に忍び込み偽のパスポートと紹介状を作らせて、おまけに金も分捕ってここまで来た。
もちろん偽のパスポートに記載してあるのは偽の情報。
テロ組織と違い、身内の無い孤児の立場が、好都合とは限らない。
万が一、戦死をしたときの連絡先や、退職金などの払い先も必要となるだろうから、俺は日本にあるサオリの住所を拝借した。
「ナトーさん。今、事務員は募集していないんですがねぇ」
スーツを着た、頭の禿げた面接官がニヤニヤ笑って言う。
胸に付けている写真付きのICカードにはexecutive director Teshubeと書いてあるから、この男が事務長のテシューブと言う事が分かる。
部屋には、この禿げた事務長のテシューブと、その隣に偉そうなバッジを幾つもぶら下げた武官らしき人間、それにスーツを着た秘書らしき男に、ラフに軍服を着た若い男とヘルメットを被った守衛が二人。
ラフに軍服を着た男以外は、大して強そうに感じないが、この男だけは手強そうな気がする。
「俺は、傭兵として応募してきた。紹介状にもそう書いてあるはずだ」
椅子に深く腰掛けたまま、ぶっきらぼうにそう答えると、テシューブは隣に居る武官らしき人間と顔を見合わせいやらしく笑った。
「偽の紹介状を渡されましても、信用する訳にはいきません。それにしても、よくその華奢な体でスラム街を無事通ってここまで辿り着いた物ですね。まあ運が良かったのでしょう。残念ですが、もう一度その運が続くことを祈ります」
紹介状がスーッと手元に返され、退席を求められた。
ここで暴れてみせて、俺の実力を見せつけてやろうかと思ったが、それは止めておこう。
彼等を倒すのは容易い事だろうが、そうしたところで、何もならない。
せいぜい豚箱に送り込まれるのが落ちだろう。
俺が席を立とうとしたところで、電話が鳴り秘書らしき男が取って何か話したあと、テシューブに受話器を預けた。
顔色が青い。
なにか面倒なことでも起きたのだろう。
嫌な予感がした。
どうせ退席を支持されていたので、ここは素直に従った方が身のためだと思い、席を立ち出口へと向かう。
「チョッと待ちたまえ」
テシューブに呼び止められた。
もう一度、椅子に座り直すが、テシューブはまだ電話で話しながら俺の顔を窺っている。
そして電話の相手に怪我の状態はどうとか、どんな風だったとか話をしている。
さっきスラム街で起こした事件がバレたに違いない。
“ついてねえ”
スラム街で絡まれ、面接で落とされ、次は豚箱行か……。
テシューブが受話器を置き、今までの馬鹿にしたような態度から一転し、強張った表情に変わり俺に質問してきた。
ここに来る前に三人組の男に絡まれなかったかと。
ここから逃げ出すのは容易いが、その先には銃を持った警備兵がいる。
いくら俺でも、素手で銃には敵わないから、正直にそうだと答えた。
その答えを聞いたテシューブが、隣の武官らしき人間に「ジェイソンは右腕を脱臼、ボッシュは手首を怪我、そしてフランソワは肩を脱臼した上に、ボッシュにケツを刺されたとさ。しかも時間にして30秒足らずで」と、まるで他人事のように話した。
それを聞いた武官が「ほう」と言って身を乗り出して俺の顔を好奇の眼差しで覗く。
テシューブがラフに軍服を着た男の名前を呼ぶ。
「ハンス、連れて行け」と。