ハズレ万馬券
仕事を終えた翔子が帰宅すると、母親の美智子が風呂の掃除をしていた。
「あら、おかえり。もうすぐ沸かすから」
「……ただいま」
特にすることもなかった翔子は、そのまま自分の部屋に向かった。バックを机の上に置き、コートを脱ぎ捨て、ベッドに横になる。しばらくぼうっとしてから起き上がり、バックの中から本を取り出し読み始める。古本屋で買った漱石の本だ。所々、紙が焼けて少し赤く変色している。煮え切らない態度を取り続ける主人公に辟易しながらページをめくっていると、間から小さな紙が出てきた。その紙は薄っぺらく、レシートか何かのように見えた。やぶかないよう慎重に抜き取る。すると、部屋越しから美智子の声が聞こえてきた。
「もうすぐ沸くから、用意しときなさいよ」
「はあい」翔子は生返事をした。
紙にはたくさんの数字が羅列されていた。大きく書かれたのや四角で囲われたものもある。野球のスコアに見えなくもない。少しの間これが何なのか分からなかったが、数字以外の情報『京都、レース、頭といった文字』から馬券だと思った。
本と同様、昔のモノらしく左上の端に1986年と書かれてあった。「23年前……わたしが生まれる一年前……か」そう呟き、今度は裏を返す。
そこには「ミチコ」という言葉が手書きの字で書かれてあった。また声が部屋に響く。「しょうこー、沸いたから入りなさーい」
ミチコ、みちこ……美智子。翔子は母親の名前と同じことに気づいて立ち上がり、部屋を出た。
美智子は台所で料理の支度をしていた。
「お母さん、ちょっといい。この馬券のことなんだけど……くしゅっ」
「ちょっと、さっさと入んなさい。風邪引くよ。ガス代もったいないじゃない……え、なに?」
娘が見せた紙切れを見て作業を止める。それから変な紙を持ってうろついている自分の娘の姿に、哀れみの目を向けた。
「そんな顔しないでよ。とりあえず裏見て、裏。くしゅっ……ほら、ここにミチコって書いてあるじゃん。で、母さんの名前と同じだから、何か知ってるのかなって、聞いてみたんだけど……」
「知らないわよ。だからさっさと入りなさいって何度も言ってるじゃない。まあ、でも父さんなら何か知ってるかもしれないわね。これ、馬券でしょ? 昔、競馬好きだったようだし、後で聞いてみたら?」
「はあい」翔子はまた生返事をした。どうやら美智子の指示を聞く気はないらしい。風呂には行かずそのまま父親のところへ向かった。
父親は寝室の掃除をしていた。「どうした?」自分の部屋に娘が来るのはめずらしいのか、きょとんしている。
「あ、いや。ええと、これを見て」翔子は馬券を見せた。
「馬券……だな。しかも随分昔の……」
「……」
「……」
「そうじゃなくて、裏」慌ててひっくり返す。「ここに書かれてるミチコって母さんの名前と同じなんだけど、何か知ってない?」
父親は馬券を手にとって顔を近づける。「んん?」徐々に顔をしかめる。それから、何かを察したのか、笑ってるんだか引きつってるんだかよく分からない不思議な表情へと変わっていった。
「どう?」翔子は恐る恐る聞いた。
「あー、こりゃ俺の字だな」髪を掻く。「こんなものがどうして今もあるんだ?」
「古本屋で買ってきた本の中にはさまっていたの。それでこれは……」
「そうだな、どこから話そうか」父親は少しの間考え込んだ。
「母さんと知り合う前まで戻るんだが、当時の俺は競馬が好きで、馬券を買っては仲間と楽しんでいた。もちろん趣味の範囲程度でやっていたんだけど……。で、幾つか話は省略するけど、母さんを初めて見たときに一目ぼれして、あの人は誰なんだろうって思っていたら、一緒にいた友達が『みちこさん』と呼んでいたのを聞いて、とっさにメモを取ろうとしたんだ。でも、ちょうどその時はメモ帳を持ってなくて、何かいいものはないか、とポケットの中を探したら、ハズレ馬券があって、その裏に名前を書いたんだよ。で、それを暇つぶしのために持っていた文庫本に挟んだんだ。おい、くしゃみなんかして大丈夫か。まあ、その後、読み終わった本を処分する際に一緒に古本屋に売ったんだが……こんなことってあるのかなあ?」
「ど、どうだろう?」逆に聞き返された翔子は、恥ずかしさをごまかすために適当に相槌を打った。それから、そそくさと部屋を後にした。
風呂の中で昔の二人を想像してみる。若い母と父。照れながら好きな人の名前を書く。どんな感情が押し寄せてきたんだろう。そんなことを思い巡らせているうちに頭がぼうっとしてきた。
次の日、翔子は風邪を引いて会社を休んだ。
美智子はベットで寝込む娘に呆れて「だらしないねえ」と言った。
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