176 マクスウェルの悪魔
今日、長い一日が始まった。
俺、レンジこと稲葉蓮二は、一人都心部へと出向く。VRMMORPG【ディープガルド】の開発チーフと直接会うためだ。
今まで、その開発チーフのDr.ブレイン。もとい、ジェームス・ブレインはあらゆる面談を断っている。それどころか、【ディープガルド】内で起きている事件の全てを『想定内』の一言で切り捨て続けていた。あくまでも白を切るつもりなのだろう。
でも、俺には一つ切り札があった。それはビューシアこと大国愛の存在だ。
Dr.ブレインがアイを娘として引き取っている事は、恐らく開発グループの間でしか知られていない。だからこそ、俺はその事をあえて手紙に記した。
『拝啓、ジェームス・ブレイン様。私、稲葉蓮二は貴方様の子、大国愛さんの友人です。是非、彼女と直接会いたく、このお手紙をお送りしました』
結果としては効果抜群。この手紙には開発グループの沈黙を破るほどの威力があった。
ゲームプレイヤーとしては初めて、俺は開発部と同じ土俵に登れたと言っていいだろう。だからこそ、俺はこのビル街へと呼ばれたのだ。ご丁寧に、【エルドガルド】との決戦と同じ日を指定されてな……
とある高層ビルの一室。俺は接客室でブレインさんを待っていた。準備が整い次第、直接面談が始まるのだろう。ここまでは俺の想定内だ。
しかし、想定外が一つあった。俺以外にもう一人、ブレインさんとの面談を望む者がいたのだ。
眼鏡をかけたインテリタイプの男。歳はオレと同じぐらいで、俺よりも黒のスーツが似合っている。完全に、この高層ビル街に溶け込んでいた。
ソファーに座りつつ、俺はそんな彼をチラチラと見る。ここに居るという事は、【ディープガルド】の事件を知っているという事だよな? 俺以外にも開発部に物言いする奴がいたって事か?
そんな事を考えていると、俺より先に男の方が動く。彼はこちらに向かって歩き、俺の座るソファーを指さす。
「隣、座っていいでしょうか?」
「あ……はい」
思わず敬語になる。何だこいつ。何でこうも馴れ馴れしいんだ……
眉毛が太く、清楚で頭の良さそうな男。彼は不敵に笑い、全てを知っているかのように会話を始める。
「貴方、レンジさんですよね。僕は武田冬樹と申します。よろしくお願いします」
「俺……僕は稲葉蓮二です。こちらこそよろしくお願いします」
こいつ、何で俺の名前を知っているんだよ。ここまで辿り着いたって事は、それなりに情報を手に入れているって事か。どうにも怪しくて仕方がないぞ。
男は持っていたバックからメモ帳を取り出すと、そこに書かれている情報を読み上げていく。本当に典型的なインテリタイプなんだな。
「最強のプレイヤーキラー、ビューシアさんとの接触のためにここまで来ましたね。僕はゲームクリエイターを目指していまして、VRMMOに関しての教養も磨いています。Dr.ブレインさんは僕の尊敬する人物。貴方の目的に便乗し、是非とも彼と面談したくここまで来ました」
「は……はぁ……」
なんだこいつ、滅茶苦茶やりにくい。というよりも、ビューシアと俺の関係をどこで調べたっていうんだ。
警戒しないに越したことはないな。もっとも、ここはゲームじゃなくて現実。相手も突然襲い掛かってくるようなこともないだろう。
そう考えている時だった。突然、冬樹は額に手を当て、その口を醜くゆがめる。
「くくく……はーはっはっはっ!」
おいおい、今度は爆笑しだしたぞ。典型的な悪役笑い、まさか新たな敵か……!?
だからここは現実なんだって、スパナもロボットもあるはずがない。いきなり襲いかかってきたら、やっぱり拳で対処するしかないのか? いや、それ以前に何でこいつは爆笑しているんだ。
頭の中が真っ白になり、最善の策が出てこない。俺がなにも出来ずにただ座っていると、冬樹が先に行動に移っていく。
彼はかけていた眼鏡を外し、俺にその顔を見せた。
「いやー、悪い悪い。俺だよ俺、ほら分からないのか?」
太い眉毛にキリリとした表情。服装は完全にビジネスマンだが、どこか暑苦しい雰囲気を感じる。
まさか、お前は……
「お前、ハクシャか!?」
「やったと気付いてくれたんだな。なんで同い年に敬語なんだよ。くくく……」
【エンタープライズ】、ヴィルパーティーの格闘家ハクシャ。こいつとは何度も共闘していて、同じパーティーとしてダンジョンを攻略した事もある。まさか、こいつと現実世界で会うとは思ってもみなかった。
ハクシャはけじめを付けるため、当分ログインしないと言っていたらしい。そうか……ゲームクリエイターを目指す者として、【ディープガルド】製作者と面談することがけじめだったんだな。
こいつがさっき話した事は嘘じゃない。今目の前に見えているハクシャが、本当のハクシャだったんだ。
「お前から先にやったんだろ! まったく、びっくりさせるなよ……」
「だから悪かったって、眼鏡一つで気づかないお前も悪いんだぞ」
いや、眼鏡だけじゃないだろ。ゲームでは結構筋肉質だと思ったんだけど、現実だとそうでもない。
典型的なインテリタイプの奴だ。格闘家とかより、科学者の方が向いている。きっと、高校も俺なんかよりレベルの高いところに入っているんだろう。
でも、そんな自身にハクシャは不満を持っているらしい。前にリュイが言っていた。『能力がある事と、その人が幸せかは別問題』だと……
「言いたい事は分かる。俺がゲームとキャラが違うって事だろ? まあ、理想と現実って違うからさ。せめてゲームの世界では違う自分を作りたいって事だよ」
「ルージュもそうだった。深くは踏み入らないよ」
ハクシャにはハクシャの意思や悩みがあるんだ。それを尊重し、違う立場のこいつが何を思っているかを読み解いていく。それこそが人間関係を成功させる秘訣。
エルドと敵対して分かったことだ。もう俺はくだらない嫉妬心で人を罵るような真似はしない。バカにはバカなりの生き方があるからな。
「稲葉さま、武田さま、お待たせしました。【ディープガルド】開発チーフ、ジェームス・ブレインさまがお待ちです」
そうこうしていると、事務のお姉さんが部屋の扉を開ける。いよいよ、その時が来てしまったようだ。
これからの戦いにゲームの力は関係ない。全ては現実での駆け引きによって決まるだろう。
VRMMOの未来なんて、俺に語る資格はない。目的は一つ、アイを取り戻すことだ。
「協力するぜレンジ。ゲームクリエイターを目指す者として、それがどういう事なのか見極めたい。お前と目的は違うが、意志は本物のつもりだぜ」
「ありがとうハクシャ。お前がいるなら心強いよ」
孤独な戦いになると思ったけど、仲間が一人増えた。ハクシャにゲーム制作の教養があるなら、話もスムーズに進むかもしれない。
彼は左掌に右の拳を合わせ、その指を鳴らす。ゲーム気分でやっているのか、全く今の風貌に合っていなかった。
「さって、鬼が出るか蛇が出るか。行くぜ、レンジ!」
「ああ」
どんな奴が現れようと、絶対に目的は達成する。もう少しで、現実のアイに会うことが出来るんだからな。
ルルノーさんは彼女の正体を知れば後悔すると言っていた。だけど、あいつが人間である以上は絶望なんてない。
この選択は俺にとっての最善。後悔なんてするはずがなかった。
音が漏れないような個室で、一人の男が待っていた。
その男は鬼でも蛇でもない。青色の瞳をした西洋人で、スーツに身を包んだ優男。身なりはしっかりしており、その外見は典型的なビジネスマンだった。
あまりにも普通すぎて拍子抜けする。彼は間違いなく人間だ。
「稲葉さん、武田さん、よろしくお願いします。私はジェームス・ブレイン、一部からはDr.ブレインと呼ばれています」
「稲葉蓮二です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「武田冬樹です。よろしくお願いします」
接客用のソファーに座りながら、俺たちは会話を始める。
最初に切り出したのは、【ディープガルド】製作者であるブレインさん。彼はオーバーな身振り手振りで、俺たちに疑問を求める。気さくで話しやすい印象だ。
「君たちは僕に色々聞きに来たんでしょう? さあ、是非聞いてください。遠慮せずにどんどん!」
そう言うなら遠慮なくいかせてもらう。まずは小手調べだ。アイのことを聞く前に、目の前の男が敵かどうかを確認する。
アイはビューシアだった時、ルルノーさんはある存在に導かれて転生を行ったと言っていた。それがブレインさんだった場合、すべての黒幕と言っていいだろう。
「単刀直入に聞きます。今、【ディープガルド】は【ダブルブレイン】によって混乱状態です。あいつらを導いたのは貴方ですか……?」
「ノーと答えておきます。僕は起こっている事件を黙認しているだけですよ」
どうも、嘘ではないみたいだな。この人は白だ。
だけど、やっぱり納得できない。何でこの人たちはNPCを見殺しにしているんだ。何で分かっていて【ダブルブレイン】を止めない。
あいつらを思い通りにさせれば、この人だって危険なんだ。真っ先に殺されるかもしれない。
「何でですか……NPCは貴方たち運営が作ったんでしょう? それを壊されて、余計な手間が増えるのは貴方たち自身。運営はゲームの不具合を正すのが仕事ではないのですか?」
「一理あります。ですが、それはビジネス上の利便。今はビジネスではなく、研究の進展を目的に動いていますので、その理論は適応されません」
この人も、ルルノーさんと同じ研究者か。チーフという事は上司って事だろうな。まだまだ若いけど、相当のエリートだと分かる。
ブレインさんたちは、NPCの生産と消去によってゲームを運営している。気分は悪いけど、法律では彼らを止めることはできない。
「研究って……命を作る研究ですか……」
「命だけではありません。世界を作る研究です」
世界か……確かに、この人たちは【ディープガルド】という世界を作った。きっと、想像を絶するほどの努力と困難があったんだろうな。
そして、何より優秀な能力を持っているんだろう。俺のような凡人には理解できないプログラミングを行ったんだから。
そんな天才とも言える男は、俺に向かってあることを聞く。
「マクスウェルの悪魔をご存知でしょうか?」
「……いえ、知りません」
何だよその悪魔。【ディープガルド】のラスボスか?
俺が疑問に思っていると、隣に座っているハクシャが解説を始める。
「AとB、二つの部屋がある。その間は一枚の壁によって分けられ、分子一つが通れるほど小さな扉で繋がっている。もし、その扉を高速で開け閉めできる悪魔が存在するなら。温度が高く速い分子と、温度が低く遅い分子を扉の開け閉めで二つの部屋に分けることが出来る」
あー、科学的なあれか。俺があまり理解していない状態のまま、ハクシャは説明を続ける。
「この行程を続ければ、温度が高いAの部屋と温度が低いBの部屋が完成する。分子ほど小さい悪魔は殆どエネルギーを使わない。だけど、部屋の温度差を利用すれば、ピストン運動によって発電が可能。無から有を生み出す永久機関が完成する。理論上な」
世界は等価交換で回ってる。0から1を作る事なんて科学的に不可能だ。
でも、確かに今の理論を使えば、何もない所から無限のエネルギーを作り出せるよな。頭の悪い俺にはよく分からないけど、頭の良い奴にとってこれは難題だったのかもしれない。
だけど、実際はそうならないらしい。ブレインさんがこの説明に付け加える。
「ですが、この理論は否定されることになります。悪魔には分子の速さを見極め、それを記憶し、不必要な記憶を消去することを求められた。それはまさに人間。私たちの脳と同じように、悪魔の活動には膨大なエネルギーを必要としたのです」
俺たちは何かを考える時、脳を動かしてエネルギーを消耗している。次の記憶を脳に入れるためには、不必要な記憶を消去する必要もあるだろう。当然、それにもエネルギーを使っていた。
記憶の消去にエネルギー……プレイヤーの操作にはエネルギーが必要だった。そのエネルギーはNPCの魂から引き出している。そうだ、これって……
「気づきましたね。そう、マクスウェルの悪魔こそがゲーム世界のNPC。永久機関は実現不可能でしたが、人工的な知能という情報はエネルギーとなりえる。現実世界の人間を操作することも、先ほど言った温度差による発電も、情報によって実現可能なんですよ! 素晴らしいと思いませんか!?」
それを言いたいがために、こんな難しい理論を持ち出したのかよ。ダメだな……この人とは全く話にならない。この人はNPCの命を新しいエネルギーとしか思っていない。
別に否定をする気はないけど、俺はどうしても感情論に動いてしまうからな。分かり合うより先に、自分の目的を優先した方が良さそうだ。
俺がここに来たのは現実世界を正すためじゃない。アイと接触し、【ディープガルド】に安息をもたらすためだからな。