せめてあの聖者の日には。
雪が降っていた。
白は純粋の色だとかの戯言を吐いて、それを聖色にしている神官達を、この日限りは殴り飛ばしたくなる。
お前らは雪を暖かい窓越しにしか見ていないからそんな事が言えるのだ、と。
雪。それは、貴族、皇族、神官達を除いた全ての生命体が恐れる物だ。
南の方の領地では、雪は降っても無いが如しなのだそうだが、生憎此処は違う。
どちらかと言うと、北方だ。
雲の化身のこの白は決して重そうには見えないのだけれど、積もったそれには確かにずっしりとした重量感がある。時たま、足を垂直に上げては下ろし黒い足跡を作りながら、女は待っていた。
誰を、と言われると困る。というのも、その誰かがこなければ、彼女の待ち人は簡単に変わってしまうからだった。例えば今、彼女を横目でちらちらと見ながら通り過ぎていったあの青年などに。
彼女は、生まれながらにして端麗なる容姿を持っていた。白い肌と、やや細めの大きな瞳。輝くような金髪は染めていたが、それでも髪は痛むことなく艶やかだった。
そしてその白い肌に、負けないほど白い深雪が乗せられていく。天から降る雪は、目線で追えばすっと地に溶け込むか、あるいは積もった雪の仲間入りをする。それから道行く人々の足跡を残して黒く滲み、やがて彼女の周りにしか、白の雪は残らなくなってしまっていた。
まだかしらね、と彼女は小さく呟く。その後で、はっと気づいて天を仰いだ。
来るとは決まっていないのだ。決して、約束をしたわけではない。
一回だけ約束をした。それはもう何時の頃だったかも忘れてしまったけれど。
毎年、毎年、此処に立って降り散る雪を見つめていれば、あの男がやってくる。そして、たまたま通りかかったかの様に挨拶をし、どこか行かないかと誘われるのだ。
奢ってくれるなら喜んで。
もちろん、と彼が笑ってから、毎年毎年、女は此処で待っていた。
別に、彼が来ると言った訳じゃない。明日クリスマスだから、待ってて、なんて。言われた事もない。約束をしたのは一度だけ。その約束も、あまり具体的な物とは呼べなかった。
最初に会った雪の日は、また会えたらいいですね、と言われ、そうですね、と軽く受け流した。女は男の扱いに慣れているつもりだったし、実際彼でない男の扱いにはプロであるとも言っていいほどだった。その時、彼女は男が「普通の人間」であると思っていた。
そう思う要素のうちの一つに、彼が女を誘うときに言った言葉がある。
「クリスマスにまで女性にお金を払わせたら、神に殺されますからね」
彼女はこの冗談に軽く笑って答えたが、内心では冷たい言葉が溢れていた。
――神なんて漠然とした物を信じられるなら、きっと貴方は幸せなんでしょう?
彼女はこの時点で彼に少し嫌悪感を覚えたのだが、この時の男の微笑みを見ていると断る気はしなかった。なぜかその笑みは、とても懐かしいような――共感を覚えるような笑みだったのだ。それだけが気に入り、彼女は彼と酒屋へ行った。
珍しく平民のする様な服を着て、デートをすっぽかされたかの様になんとなく立っていて。だから平民の中でも少し親切で女好きの男が、自分に声をかけてきたのだと思った。それほどに、男は平民の格好を好んでよくしていた。別段その夜に何かあったという訳でも無かったし、たまには普通の男と遊ぶのも楽でいいと思った。そして、この男とはもう会う事もないだろうと思った。それでいいと、考えるまでも無く理解していた。
しかし次の日、男は女の前に現れた。
正確には、彼女に会おうとして来てくれた訳ではない。
仕事として、彼女の前に現れたのだ。そして男が彼女を見た瞬間に破顔して言った言葉。
「何だ、仲間だったのか」
その夜、彼は女の店の娼婦を皆残らず慰めて歩いた。皆残らず。
彼女、娼婦であるエルトウィアもまた。彼に慰みを貰ったのだ。
エルトウィアと男は、社会の裏に住む人間であった。
そして、その夜のこと。久しぶりに――というか始めて、金を貰うのではなく払う事をしたと思った。これに金を払うのはそれこそ馬鹿馬鹿しいと思ったが、他の女達のためでもある。彼女に理解出来ないのだが、そうでもしないとこの仕事をやっていけない娼婦達もいるのだ。とりあえずエルトウィアも含めた全員契約をしてあるので『あるもんは貰え、そして使え』の精神を行使した。単純だが、これがエルトウィアの中の鉄則だ。
「ね、貴方。なんでこの間あんな――平民の住む場所にいたの? あんまり心地よくはないでしょうに」
「それは君もだろう?」
言って男は小さく笑う。それからエルトウィアを再び優しくぽんと押した。されるがままに彼女は寝台に横になる。とはいっても彼女自身は座っていたから、膝から下はふかふかのマットレスに当たってはいなかった。
「仕事。受けるだけって、楽?」
「その分仕事量多いわよ」
大変だね、そう言ってから何故か唇を合わせた。
どうせ生きるのにさえ意味もないのだ、かまわない。
その後名乗りあった。男の名は、アルドワンドと言うらしい。意味は、昔の言葉で『薔薇の裁判』。
「裁判?」
「らしいよ、調べたところによるとね」
「親がつけて?」
「多分ね。名付け親がいるかもしれないけど」
へえ、と簡単に受け答えしたあと、アルドワンドは笑う。
「区切りは『アルドワ・ンド』だからそれで考えるとおかしいけど、アルって呼んでくれたらいいから」
「そうね。アルドワンド――……長いわ」
でしょ、と彼が再三笑ってから、彼は少しだけ――本当に少しだけ――真顔に戻って言った。
「来年のクリスマス、暇?」
はは、とエルトウィアは笑った。
「随分先の話ね。紫竜様が笑うわよ」
「紫竜様?」
アルは顔をしかめて彼女を見た。
まさか、知らないわけは無いと思う。紫竜は虹の龍の要、色々と司っているが、主に時を知るという。昔はこの竜にお願いし、未来を教えてもらう習慣があった。だから、あんまり先の話を聞くと、紫竜が笑う、と例える。慣用句の様なものだ。
「貴方、神は居るっていう考えの人間でしょ?」
「そんな輩と一緒にしないで欲しいけど。前に神がどうのこうのって言ったのは、君が一般人だとふまえてのくだらない冗談」
「ああ、そう」
別にあれが嘘か真かなんて、大した差はない。ただ、そんな事が言えるというだけで。
次の朝、彼は懐を重くして出ていった。あんなに金をもらえるのなら、あと三ヶ月は来ないだろう。そして金がなくなっても、ここにまた来たりはしないだろうし。
これで、終わりかと思った。そして、クリスマスイブまで、あの言葉は忘れていた。
――来年のクリスマス、暇?
あれは、約束にも入らない。けれど、そう取ろうと思えば取れる。別に、希望にかけた、なんてそんな。奇麗事なんかじゃ決して無くて。
ただ、暇だった。そして、あの笑みと、このゲームを。
少し気に入っただけのことだ。
そして、その夜。
――彼は来た。
ただし、数人、周りに女を連れていた。通りすがりか、と思い、大きな羞恥心に隠れようとした。だが、彼は探していたかのように遠くからでもエルトウィアを見つけた。後ろ歩きをしながら男を見つめていた女を横に無造作にどけ、こちらへ向かって走ってくる。
体力はあまりないようだ。息切れをしたようで、俯いて少しの間ただ立っている。その間に、彼の周りに居た女達はアルに追いついたようだ。
少しの後、彼は走った熱で赤くなった顔をあげて言った。
「何処か行かないか」
周りの女達はその言葉に不振をいだいているようだった。
こういうシチュエーションは結構好きだ。
「奢ってくれるなら、よろこんで」
「もちろん。クリスマスに女性にお金を払わせたりしたら――……」
したらどうなるの、とエルトウィアは聞き返した。
男は、彼女の気に入っている、あの少しさめたような、けれど自信に満ちた笑みを浮かべる。
「空虚の神に殺される」
エルトウィアは笑った。
「そうね、ええ。その通りだわ」
あれから、何年経ったろうか。三年、四年。それぐらいの年月だ。
そして今、彼女はここで待っている。いつもとは違う、平民の格好で。今日だけは、普通の女の子になって。デートをすっぽかされた、ただの普通の。悲しい女の子の様になって。
顔を上げ、追憶をやめた。
彼が来るはずの角をじっと見つめる。すると――数秒後だったのか、数分後だったのか。それは彼女には分からない。だが、その角から、待ち人は現れた。沢山の女達をひきつれて、あたかも偶然通りかかったかのように。そしてエルトウィアを見つけ、少し眼を見開いてから走り出す。
女達はびっくりして、彼を急いで追い始める。そして、それが追いついた頃に。
彼はその顔をあげ、微笑んでから言うだろう。
「何処か行かないか」
――ほら、来た。
別に、どちらかが約束したわけでもなかった。別に、どちらかが強い瞳で見つめたわけでもなかった。ただ、二人の間にある脆過ぎる絆を。あの聖者の誕生日にだけ、確かめてみようと思うだけだ。
「奢ってくれるなら、よろこんで」
まったく同じ言葉を繰り返すことで、それをただ曖昧に、意味もなく彼らは確かめる。
「もちろん。クリスマスに女性にお金を払わせたりしたら――……今眼の前に居る、僕が知っている最強の神に殺されるよ」
ただ毎年違うのは、彼のその『神』についての答えだけで、本当に意味はない。彼女の、神を僅かでも信じる彼に対する嫌悪の心は変わらない。
けれども二つの影はその日だけ、溢れんばかりの天の祝福を受ける。
彼と彼女が立ち去ったあと、彼女の立っていた場所を中心に描かれる円には、たった二つの足跡が残った。
しかしそれさえも、雪は降り積もり、人は道を歩き、やがて黒い滲みの中に、それは消され埋れてしまった。