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足跡をたどって

掲載日:2013/03/04




 家の前には細く長い川が広がっている。向かいとの間を少し歩いたところにある、小さな赤い橋で結ばれたそこ。橋を渡ってまっすぐ行くと、いつもの通学路や電車のホームに辿りつく。川には大きな柳の木一本(この間ふと、いつの間にかなくなっていることに気づいた)、周りには銀杏の木が植えられていて、今のような季節に赤い橋から下を覗き込むと、たびたび川の水に黄色い葉が運ばれて行くのだった。僕は黒いランドセルを背負いながらその葉が見えなくなるまで赤い橋から身を乗り出していて、やがてそれがどこへ向かっていくのか気になり出した。


 もういこうよ、がっこうはじまるよ。痺れを切らしたのか、宗助が僕の薄い七分のティーシャツを引っ張る。さっきから、彼は銀杏の行方よりも僕らを次々に抜いていく同じランドセルの仲間を気にしている。それでも僕は動かなかった。どうしても、銀杏の行方が気になってしまったから。


 ある日僕がそのことを打ち明けると、彼は首を傾げた後に、じゃあたどってみよう、と言った。それは僕がいくら銀杏の行方を考えても思いつかなかった、彼のアイディアだった。一軒家だった僕の庭が整備された今では、忘れられたように立てかけられている脚立をふたり掛かりで持ち出して(もちろんふたりだけの秘密だから誰にも気づかれてはいけなかった)、川の下に行くために使った。僕よりも遥かにアクティブだった彼が先に下りて、僕を手伝った。そして僕らは流れてくる銀杏の行方を辿った。ごつごつと足の裏を刺激する小石や大きめの足、滑りそうになる苔、穏やか僕と彼の間を上手く通って抜けて行く水が、十一月の気候には寒すぎた。結局服や靴、体もろとも川の水や泥で汚くして、あまつさえ脚立さえ帰りは上手く登れなくなって、両親が出動するはめになったのは言うまでもない。



 そのとき僕らは銀杏の足跡を辿っていた。



 歩いて学校に行くために使っていた赤い橋は、電車に乗るためのものになった。そうなって二年目の秋。家を出て川を見ると、水はだらしなく緩やかに流れている。僕が小学生のときには新築扱いだったここも、だいぶさびれてきた。何本も植えられた銀杏の中で、ひたすら荘厳さを出していた柳の木は、いつの間にかなくなってしまっている(昔は夜に柳の横を通るのが怖かった)。


 僕は去年と同じマフラーを巻き直して歩いていた。赤い橋が見えるまでの川沿いを。



 ――悟紀。



 クラスの連中もみな僕を名字で呼ぶ。今や身近に僕をそう呼ぶ声の主はひとりしかいない。後ろを振り向く前に頭を軽く叩かれた。振り向いた。一瞬、朝日の眩しさに顔をしかめるような素振りを見せるのも忘れたくらいだった。彼はこんなに秋も深くなって冬の入り口が見えている頃だというのに、マフラーや手袋を身につけていない。



「悟紀、聞いてる? おはよう」


「なんだよ、おまえ」



 咄嗟に出てきたのはそんな言葉だけで、後には何も続かなかった。マフラーに顎ごと口元まで顔を埋めて、そっぽを向いた。なぜそうしたのか、それは、これが僕の日常だったからだ。



「えー、何か怒ってる?」


「うるさい、チャラ男」


「嫌だなあ人聞き悪いんだから。ねー、おはようは?」


「……はよ」



 人懐っこいへらへらとした笑みを浮かべている彼。中学生活も後半にさしかかった頃、急に背が伸び出した彼はたちまち女の子にもて始めた(膝が痛いとか情けない表情で相談されたときには一発殴ってやった)。それからいつもへらへらと笑っているせいですっかり女々しいと思われていた彼が、身長ひとつ違えただけで、優しい天然タラシと称されるようになった。本人に自覚はない。


 歩く速度が、次第に落ちて行った。



「なーに、悟紀。遅刻するよ?」


「別に」


「俺が上りだから、ホームで別れちゃうのが辛いんでしょう」



 彼はそう言ってひとり自己解決をしてしまう。そういうわけではないけれど、面倒くさいから黙った。それでも彼はそんな俺の白々しい態度を気にすることがない。周りにちやほやされ続けた彼は、小学生のときよりも遥かに自由奔放に育ち上がってしまった。



「寒いね」



 首元に風を入れないために巻いていたマフラーを取ると、冷たい空気が頬に張り付くようにじんわりとそこが寒気を帯びた。それを彼に押しつけるように渡した。手を離して、重力に従って落ちて行くマフラーを彼が受け止める。



「使えば」


「いいの?」


「別に、寒くないし」


「嘘吐け。耳真っ赤。ほっぺたもかっぺちゃんみたいになってるよ」けらけらと笑って、彼がマフラーを巻いた。「橋まで貸して。そうしたら、もう大丈夫だから」



 随分歩いたのだと思う。少なくとも、僕らの足では。庭にあったボロボロの脚立では届きそうもないところにまで、地上が高くなってしまった。時折知らない人が不思議そうに、あるいは心配そうにこちらを覗きこむ。僕らはそんなおとなの目から顔をそむけて、なるべく見つからないように歩き続けた。やがて水が腰まで浸かって、おなかに来て、肩まで来ようとする。さっき転びそうになったことで顔についただろう顔を拭ったら、手についていた水からかすかに潮の味がした。



 どこにつづいているのかな。


 その答えはもうすぐ近くだった。


 うみだ。


 ずっと先駆けて歩いていた彼が、やがて水の中を泳ぐのをやめた。その頃にはもう、体が冷たくて芯から冷えてしまっていた。


 さとき、みて。あ、ほんとうだ。


 そこにはきらきらと赤く光る海があった。水平線は酷く眩しかった。もう夕方だったのかもしれない。だけど、そこに漠然とした赤があったことしか今は覚えていない。僕と彼はしばらく呆けるようにそれを見続けた。



 はっぱはどこにいくのかな。僕が静かに呟いた。うみにいくのかな。彼も呟いた。



 宗助は優しかった。だから僕らは、一緒にいることが「きちがい」とどんなに周りにいようとも、何度もお互いの意思を確認し合ってい続けた。登下校もした、お互い部活のない日は家でごろごろと漫画や雑誌を読んだ。時にはオールでテレビゲームもした(彼のゲーマー加減は底辺だった)。そんな日々が幼い頃の延長戦のように、細い糸だけで支え合って十年以上経った。



「あーあ、電車行っちゃった。悟紀、あれに乗るはずだったでしょう」


「別に」



 電車が駅から離れて行く音が、けたたましい。その喧騒の中で、彼があ、と思い出したように呟いた。



「そうだ、悟紀にこれを持って来たんだ」



 彼がたいして中身の入っていなさそうなバッグを開いて漁る。お目当てのものはすぐに見つかったらしく、それを大事そうに取り出す。



「じゃーん。非売品、中里宗助の写真集」



 一眼レフは彼が高校に受かったことで親に散々頭下げて買ってもらったものだった。受かったのにこいつは頭を下げまくっていて、見かねた僕と両親もなぜか説得に入った。彼は写真が好きだった。俺の愛は写真に捧げるんだ。彼女がいないときはいつもそう言って一眼レフに頬ずりする(いなくても頬ずりはしている)。



「なんだよそれ。重いしいらない」


「え、非売品だよ、それなのに無料だよ、お得だよ」


「おまえが有名になってからにしろよ」


「うーん、それが出来たら苦労しないんだけどね」



 彼が苦笑して、僕の首にそれをかける。ずっしりと重たかった。いつもこんなものを持ち歩いているのだろうか。



「うん、似合うけど悟紀には少し大きかったね」


「悪かったな小さくて」


「悟紀は平均だよ。俺が大きいの」



 彼が俺の身長を手で測るように、頭を押しつぶしてきた。その手には確かな重みがある。赤い橋が目の前に見えた。彼が足を止めた。僕も足を止める。こだまのように。彼が首に巻いていたマフラーを外して、蛇がとぐろを巻くみたいに僕にそれをやる。



「温かい?」


「別に。おまえ、学校行かないの?」


「うん、実はこれを渡しに来ただけだから」



 それを言われて、ああ、と理解した。そういうことなのか。


 さらさら、落ち葉が川の水に押し流されていく。グーにした右手を握りしめた。指先はひんやりと冷たくなっていた。見上げるとやはり彼は笑みを余したように突っ立っていた。俯いた。



「そうだよな」



 おまえ、もう、いないもんな。



 ――悟紀。



 僕の名前を呼ぶ。静かに、でも鳴った踏切の音ごときには掻き消されないくらいはっきりと。僕はその音を忘れないように無理矢理に、視覚に、嗅覚に、あるいは触角に置き換える。確かな響きを持ったその音を。



「僕、僕は宗助に言わなきゃいけないことがたくさんある」



「悟紀」彼がふわりと笑う。同級生の僕が追いつかないような、大人びていて落ち着いた表情。「やっと俺の名前呼んだね」



 それ以上、僕は何も言えなくなった。宗助のせいだ、宗助のせいだ、宗助のせいだ。そう、繰り返して。僕は言いたいことを言ってやるつもりだった。それが出来なかったのは宗助のせいだ。僕は言わなきゃいけなかったことがあった、だけど宗助がそれを邪魔した。宗助のせいだ。そうやって、僕は体重の半分以上を彼に預けるように、甘ったれる。


「ほら」彼が僕の肩を掴んで百八十度くるりと回転させる。赤い橋の方にぎゅうぎゅうと押された。刹那、渓流の音がした。足元には踏まれた銀杏が情けなく何枚も群がっている。「行きな、遅刻しちゃうから」


 もうとっくに遅刻だとは言わなかった。それは彼にも分かっていることだったから。肩から滑るように、落ちるように手が離れて行った。



「いってらっしゃい」



 その声が、最後だった。


 突如さっきまで感じていた温度が、急激に下がったように何もなくなった。慌てて振り向いた。背中にあったはずの体温が、もうどこにもない。宙を舞った手が、虚空を描くように宙を彷徨って、そのまま落ちた。彼の輪郭も見つけられない。影も、匂いも、何もかも。



「宗助」



 赤い橋から真下の流れを眺めた。


 そうだ。おまえもう、いないんだよ。


 いくつもの黄色い銀杏が、ぱらぱらと穏やかな流れを漂うようにして行ってしまう。踏切の音がした。また電車が行ってしまったらしい。重みの引かないカメラを持ち上げた。どこに目を近づけるのかも分からずに、川に向けてシャッターを切った。同時に、ぽたぽたと溢れたものがカメラを濡らし、川に小さな雨を降らせた。




 足 跡 を 辿 っ て


(メモリ不足寸前の非売品写真集は、ほとんど僕と銀杏の写真で埋め尽くされていた)

(プロになるって言ったじゃん)

(本当におまえ、すごい頭緩い馬鹿だ)




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― 新着の感想 ―
[一言] 多分同い年だと思います。百円と申します。 柔らかく懐かしい雰囲気と、ちょっとだけ切ない読後感がすきです。文章もすごく丁寧で読みやすかったです。銀杏の葉の行方を辿る、という思い出もすごく綺麗で…
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