青春部の一日
春の日差しが少しばかり冷えた空気には心地よく、頬をなでる風も微かに甘い花の香りが混じっている。
今日は文句なしの良い日だ。思わず鼻歌さえ口にしてしまいそうな調子で、私は部室のドアを開けた。
そこにはメイド服姿の男がいた。メイドカフェとかのミニスカではなく、地味な紺色で裾の長い、イギリスで本場の人が着てそうなやつだ。
私は勢いよく扉を閉めた。
とりあえず、深呼吸する。深く、深く、深く、息を吐き、そして同じように、今度は息を吸う。
「よしっ!」
軽く両頬を叩き気合いを入れて、再度ドアを開いた。
そこにはメイド服姿の男がいた。
……現実って非常だよね。
「どうしたんだい、そんなにドアを何度も開け閉めするなんて、目を背けたいことでもあったのかい?」
悩みの現在進行形が何食わぬ顔で言う。
「ええ、部室に来てみたら、なぜか部長がメイド服姿でいるので驚いてしまいましたよ」
私が声を低くし、睨みつけるような笑顔で話しかける。
「ふむ、僕のメイド服姿があまりにも似合っていて、驚きを禁じ得ず、確認のためドアの開閉を行ったと」
少し長めの、私とは違いクセのないストレ―トをかきあげて部長は言った。
……日本語って難しいね。間違っていないけど。どうしてこう、間違っているんだろう。
部長って女顔だし、細身だから本人が言うとおり、似合っているんだよね。ムカつくことに。
「もう、部長ったら、そんな発言ばかりして、しまいにはどつきますよ」
私が運動がてら、シャド―ボクシングのように拳をふるうと、部長は笑みを浮かべた。
「渚くんは、笑顔で怖いことを言うね。その言葉通りに僕は何回殴られたんだろうね」
「さあ、百回を越えたあたりで数えるのは止めましたからね」
「ハハハハハッ、正に百叩きという奴だね」
いやいや、そこ笑うところじゃないし。
「で、部長、そんな格好しているってことは、何か依頼があったんですか?」
本題をふってみる。部長が制服じゃない以上、十中八九、部活がらみに決まっている。
「おっ、わかるかい、渚くん。そうだよ、我ら青春部に頼みごとがあるってさ」
「なんか、また、面倒くさそうなニオイがしますね」
「さあ、終わってみないことにはわからないけど、でも、まあ、それが青春じゃないか」
部長は笑う。春時の風を思わせる、どこか潤みをもったやわらかい笑顔だった。
「さて、それでは依頼人のところへ向かうとしよう」
「はいっ!」
「オジャマするよ」
そう言って、部長は二年C組に入室していった。ということは、依頼主は私の一年先輩
のようだ。
部長にならい教室に入ると、真ん中あたりに人がいた。等間隔に机が並ぶ中、セ―ラ―服の女性は真っ直ぐに立っていた。
少し茶色が入った髪は肩口で切りそろえられていて、猫を思わせる大きめの瞳が印象的な人だった。
「キミが依頼人だね? 僕たちに頼みたいこととはなんだい?」
「ということは、あなた達が青春部?」
無駄に自信ありげな部長と、胡散臭そうにそれを見る依頼人。会話も含めて、わりかしテンプレだなと思う。
青春部、それが私の所属している部活名だ。何とも変な名前だし、活動内容も同じ様に変わっていて漠然としている。
困っている人の青春を助けること。極論を言ってしまえば、青春じゃなきゃ助けないと宣言しているようなものだ。まあぶっちゃけ
ると、青春でも何でもないモノも受けたりする。断ると、後味悪いしね。
ただ、部の名称と活動内容が少々突飛なためイタズラやからかいが多いので、まずはメ―ルをもらい判断してから、直接依頼を聞くようにしている。
なので出会い頭は、さっきの様になるのがいつもの光景だったりする。
「そうだっ! このどこからどう見ても好青年が青春部部長、荒木静也、その人だ! そして、後ろにいるのが僕の忠実なアシスタント、和泉渚くんだ!」
ああ、またやったよ、部長。依頼人が半眼で、脱力したように口を開けているってあまり良い状況じゃないよね。
メイド服着た男に好青年はないし、自分で言うのもね。それに私も部員であってアシスタントじゃないし。まあさすがにここで突っ込むのは空気が読めていないから、突っ込まないけどね。
「――そう、まあ、いいわ。私が青春部にメ―ルを送った、清水優菜よ」
「清水くん、それでは用件に入ろうか。確かキミの依頼は、落とし物を探しほしいだったね?」
捜索の依頼か。だから、部長、あんな格好したんだな。汚れても良い服が必要だと思って。
「ええ、そうよ。実は彼氏にもらった指輪を落としてしまったの、心当たりが二カ所あるから、もう一個の方をあなた方に探してほしいの」
「私達に、どこを探してほしいんですか?」
とりあえず、このままだと空気になるなと思ったので、口を挟んでみた。清水さんはグラウンドの方に人差し指を向けた。
「グラウンドの奥に芝生があるでしょう。あそこに落としたと思うの、もう一つは体育倉庫よ。そこは私が探すから、あなた達は芝生の方をお願いするわ」
窓から見える芝生はかなり広い、二人で捜索しても日が暮れてしまうだろう。体育倉庫の方も物品が多いから、指輪なんて小さな物どこに入り込んでいるかわからないから、時間はかかるだろう。
どういう対応をするのかと部長に視線を向けると、考え込むようにして腕を組みながら、口を開いた。
「清水くん、二つ質問させてもらってもいいかな?」
「ええ、構わないわ」
「ではまず一つだ。指輪はどういう時に落としたんだい?」
「それは体育の授業中よ」
だから、芝生と体育倉庫なわけか。グラウンドで休んだりすると土で汚れるから、わりと芝生で休んだり、物を置いたりするしね。体育倉庫はボ―ルや跳び箱があるから、行く機会は多い。
「じゃあ、最後の二つ目だ。彼氏からのプレゼントである指輪、それはキミにとってどういう物なんだい?」
部長の言葉に、清水さんは一旦目を背け、グラウンドを眺めた。
そこには部活動をする生徒達の姿が見える。清水さんの恋人は、その中にいるんじゃないかと思った。
夏の太陽の輝きを詰め込んだ一滴の雨のように、彼女の瞳はどこまでも澄んで、光っていた。
「――大切なモノよ。とっても、大切で、とても大切なモノなの」
清水さんは微笑んだ。うれしそうに、楽しそうに。それは宝物を自慢する子供のようでもあり、口にすることで自分の気持ちを再確
認したようにも見えた。
きっと言葉は、とびきり甘いカフェオレみたいな甘い余韻をもって、彼女の内に溶けていったんだろう。そんなことを思わせる笑顔だった。
若草の匂いと手に触れるかゆみの様な触感が、イイカゲンに煩わしくなってきた。ちらりと横目で見ると、同じように行動している部長は、飽きもせず真剣な瞳で芝生に手を入れ指輪を検索している。ふざけているけどまじめな人なんだよね。
「……部長、ありましたか?」
「ないね」
「……見つかると思いますか?」
「さあね」
芝生で探し物をしてみたものの、一向に見つかる気配はない。もうかれこれ、一時間は捜索している。グラウンドで部活をしている生徒達はチラチラとこっちを見てくるし。まあそれは、大半がメイド服を部長が着ているせいだろうが。
「あの、何をしているんですか?」
指輪を探すために四つん這い姿だったため、突然降ってきた声に驚き、私と同じジャ―ジ姿でサッカ―ボ―ルを持った人を、見上げることしかできなかった。視界に映る靴はスパイクだ。きっとサッカ―部員なのだろう。
「依頼でね、指輪を探しているんだ」
サッカ―部の人の接近に気づいていたのか、部長は常と替わらない調子で受け答えをする。そういえば、部長がビックリしている所って見たことないな。
「――指輪ですかっ! それはどんな物ですか?」
「部活動とはいえ、個人に関わることだから、そこまで詳しいことは言えないよ」
何をそんなに興奮することがあるのか、声を荒げるサッカ―部員とは裏腹に、部長は立ち上がりしごく冷静に言った。
「その指輪って、ゴツイ、西洋の鎧のパ―ツみたいな銀色のリングじゃないですか?」
「もしかして、キミは心当たりがあるのかい?」
部長は興味深そうに目を輝かせ、サッカ―部員に問うた。
「はい! たぶん、落とした人もわかります。――清水優菜さんじゃないですか?」
サッカ―部員はまくし立てるように言うと、一転、息を飲んで部長の答えを待った。
こういう時、部長の反応は決まっている。
「おおっ! 正解だよ、キミ。何か知っているなら、彼女に伝えてくると良い」
部長はかき乱す。問題の種になりそうなモノが有れば水をまき、育む。
そして、笑う。一波乱あってこその、青春だろうと言うかのように。
「……やっぱり、それじゃあ、俺は話をしてくるので、じゃあ」
苦虫をかみつぶして、飲み込んだような表情を一瞬貼り付けると、彼は背を向け校舎の方に向かって行った。
「――部長、あの人って、清水さんの彼氏なんじゃないですかね?」
「十中八九、そうだろうね。清水さんの居場所を聞かなかったのは、携帯のアドレスを知っているからだろうしね」
部長は今にも笑い出しそうな表情で、右手をアゴに添え静かに言った。
「良いんですか? 面倒なことになるんじゃないですか?」
「青春っていうのは面倒だからこそ、青春なのさ。それに清水くんが頼んだ僕らの役割は、彼に伝えたことで終わってしまったからね」
んっ、それじゃあ、まるで――。
「清水さんは自分が指輪をなくしたことを、恋人に知られたかったってことですか?」
私が疑問の声を上げると、部長は右手の親指を立て正解だと告げた。
「うん、きっとね。指輪も彼女が持っているんじゃないかな。だってさ、清水くん、『探して』とは言ったけど、『見つけて』とは口にしなかったからね。まあ、無意識なんだろうけど、だからこそ、真実だよね」
それにと、部長は人差し指を立て、さらに言葉を続けた。こういう芝居のような動作が部長はよく似合う。普段はアホの子なのに、実は頭よかったりとギャップのバ―ゲンセ―ルみたいな人だよな。買わないけど。
「普通、体育倉庫や芝生に指輪はなくさないでしょう。体育の授業中に、指輪なんかしてたら先生に怒られるよ」
確かにそうだ。しかも、西洋の鎧のような物だったら、何かの拍子でケガをする確率も増えるし尚更だ。
「そうですね、部長。探すなら、まずは更衣室が妥当ですね。――ああ、だから、清水さんに、どこで落としたかを聞いたんですね」
「まあね、ちょっとばかり怪しかったんで、カマをかけさせてもらったよ。それに僕のメイド姿を見て、何も言わないのもおかしな話だね。本当になくしたのなら、こっそり探したいはずだ。こんなに麗しいメイドがいては、目立ってしょうがないしね」
……最後のは、聞かなかったことにしよう。しかし、部長って無意味なことはしないけど、無駄なことは本気でするんだよね。
「ということは、部長、最初から彼女を疑っていたんですか?」
試す目的があったからこそメイド服を着たって言うんだから、そういうことなのだろう。期待通り、先輩はあっさりとうなずいた。
「一応、依頼を受ける人間はね、わかる範囲で簡素に調べているんだけど、どうやら彼女、もうすぐ転校するらしいんだ」
「――そんな人が恋人との思い出の品を探す手伝いを、メ―ルなんかで気長にしているところが疑問だったんですね」
「その通りだよ、渚くん。色々と彼女なりの思惑があるようだね」
部長はそこで区切ると、私に向き合った。
「さて、これで依頼人の望んだ分の仕事は終わったわけだが、どうするとしようかね」
問うような口調だが、そこに疑問はない。部長の中で答えは決まっていて、ただ単に私がどうするのかを確認しているだけなのだ。まあ、私の答えも決まっているけれど。
「部長、私達は青春部ですよ。青春がそこにあるなら、手伝ってこそですよ」
中途半端は一番よくないし、なにより、嘘までつかれ良いように利用されてだけじゃ、ちょっとばかり面白くない。意趣返しじゃないけど、向こうだけじゃなくこっちのタ―ンだってあることを見せなきゃね。
「渚くんは、実に良いことを言うね。僕もそう思うよ」
部長は笑う。楽しそうに、うれしそうに、心躍るように。これから始まるのだと、ここから愉快な出来事を始めるのだと言うように。
「青春は一波乱あってこそ、青春だからね。こんな面白そうなもの放ってはおけないよそれに当人達だけだと、喧嘩別れしそうだしね」
「少なくとも、あの時指輪を大切だって言った清水さんに、嘘はなかったと思いますけど」
「確かにね。でも、伝えたい言葉を口にしたからって、キモチが全て相手に届く訳じゃないだろう。時には間に何かあった方がいい場合もあるんだよ」
「そんなものですかね」
そんなものだよと部長は小さく言い、さて、と一呼吸おくようにして口にした。
「時に渚くん、キミは清水くんが依頼をした理由、わかるかい?」
「部長、私も少女のはしくれ。むしろ乙女が服を着て歩いていると言っても良いくらいの、乙女の化身ですよ! わかるに決まっているじゃないですか!」
「……そうか。時々思うんだが、キミってなんというか残念だよね」
胸を張る私と裏腹に部長は、疲れたよう息を吐くと頭をかいた。失礼だな、誰が残念だ、誰が。というか、部長にだけは言われたくない。
「結局の所、わざと見つかる理由なんて決まっていますよ。本当に構ってほしくなかったら、痕跡なんて残さないんですから」
家出をしたとき置き手紙を残すように、サインを残すことそれ自体がサインだ。ここにいるよ、だから、来て、と呼んでいるようなものだ。
「清水さんは、見つけて欲しいんですよ」
「見つけるって、なにをだい?」
わかっているのかわかっていないのか、部長はポ―カ―フェイスを思わせる、仮面のような笑顔を貼り付け、私の答えを待っている。
深呼吸をする。若草の香りが鼻腔に漂ってくる。それはむせるような青臭さではなく、日の光にまぶされ程良い淡さとなって、春の彩りになっていた。
「そんなの決まっているじゃないですか。女の子はお姫様なんです。だから、本当の自分を見つけて欲しいんですよ」
同じなんだ。いつだって、どこにだってあるのに、簡単に見えやしない。ただ、届くだけ。残滓のような想いの欠片が。静かに、透き通るように心に香っていく。
「女の子はいじっぱりで、素直じゃなくて、本音を隠す生き物なんですよ」
だから、わからない。夜の闇にはくため息のような、質感のない存在感だけが溶けていくから。
「――だから、見つけて欲しいんです。形にも、言葉にもできず、自分にすら取り残されている、素直じゃなくて、いじっぱりで、でも、とびっきりかわいい自分を」
本当はすぐそこにたたずんで、笑いかけてくれるのを待っているっていうのに。
「僕的には言いたいことがあるなら、言えばいいのにと思うけどね」
部長は肩をすくめて、面倒くさそうに言う。確かに、言いたいことはわからでもない。けど、何から何まで口にしなきゃ意味がないんじゃ、つまらない。
「言いたいことを言わないのに、伝わるから良いんですよ。それに、青春ってそういうものでしょう」
「まあね、男同士だったら、河原で殴りあえば全てが通じるしね」
古いマンガ理論だな。今だったら、警察を呼ばれるか、おじいちゃん、おばあちゃんが感激するかのどっちかだろう。
「さて、それじゃあ、清水くんの所に向かうとしようか。それなりに時間も経ったことだし、二人の時間を壊してもヤボとは言われないだろう」
「ところで、部長、清水さんがどこにいるの知っているんですか? 待ち合わせ場所とか、決めていなかった気がするんですが」
自分で指輪を持っていたら見つかるわけがないし、恋人に私たちが見つかることを前提としているなら、集まる必要がないもの、そりゃ、集合場所なんて決めないよね。
しかし、部長は心当たりがあるのか、校舎の方を指さした。
「こういうのはね、たいてい、最初の場所にいるもんなのさ。ホラ、よくいうだろう。犯人は現場に戻るって」
部長は得意満々といった調子だけれど、私は思った。
いや、犯人でもなければ、現場でもないし。まあ、他に当てもないので、二年C組に行くけどね。
黄昏時の廊下はルビ―を砕いてまいたような、どこか硬質な斜光が窓からさしていた。
時間帯のせいか人気はなく、私達の足音だけがBGMのように響いていた。
「何だか、静かですね」
「そうだね、でも、嵐の前の静けさというのもあるからね」
軽薄な笑みを浮かべ、部長はろくでもないことを言う。とっても自然にもめ事が好きなんだよな、部長って。
「――ふざけんなよっ!」
静寂を切り咲くような荒々しい男性の声が、聞こえてきたのは二年C組辺りだった。
「やっぱり、予想通りだね」
「ぶっちゃけ、荒れるだろうと思って来てますからね。予想も何も、有ったもんじゃない気がしますけど」
「ハハハハハッ、それは言わない約束だよ。とりあえず、教室の前まで行って、息を殺して聞いていよう。このまま入っていても、空気をぶちこわすだけだしね」
要は大事な所で出ていって、おいしいとこを持っていこうってことか。でもまあそれが、一番無難かな。
「何で、なくすんだよ!」
男性の怒号が続く。それは本気で怒っていることが声だけでわかり、本当に彼女のことを想っているからなんだということが直に伝わってきた。
「優菜、もうすぐ、転校すんだろう! 俺達離ればなれになるんだぞ!」
ないがしろにされたという理不尽さが空気の壁を越えて手に取るように届いてくる。それはきっと、それだけ真剣に清水さんと向き合っている証拠だと思う。
でもだからこそ、彼の言葉がムカつく。本気で有れば本気であるほど苛ついてくる。それはどこかしこりのような質感を持って、私の中で躍動していた。
「――そんなもんだったのかよ、俺たちって! 俺たちの思い出ってそんなもんなのかよ!」
自分の中にある制御できない感情をそのまま表現することに、彼は何の疑問も抱いていない様だった。こう思っているのだろう。正しいのだと。自分はどうしようもないくらい正しくて、だから、何を口にしても言いのだと。ああ、もうだめだ。我慢できない。
「ふざけんな、ボケっ!」
突然ドアを開けでてきた私達に驚いた視線を向けるが、気にしない。今はそんなことどうでもいい。まずは説教だ。
「あんた、何勝手なこと言ってんのさ! 誰が一番辛いと思っているのよ! 誰が一番やりきれていないと思ってんのよ!」
笑いをかみ殺すような気配が後ろからするけれど、そんなのは無視だ、無視。まずは言葉を伝えなければ。
「清水さんは笑いたかったんだよ」
どうして、気づきもしなかったんだろう。自分だけが傷ついているわけじゃってないってことに。
「辛くて、哀しくて、どうしようもないから、せめて、笑えるような思い出が欲しかったんだよ」
正しさなんてモノが、どうして自分にしかないと思っていたんだろう。なんで、自分だけが被害者だなんて言えるんだろう。清水さんの中にだって、どうしようもない正しさが泣くように、たたずんでいたっていうのに。
「指輪をなくしたから、なんなのよ! なら、どうして、新しいのを買おうとか言えないのよ! なくしたなら、傷つくのがアンタだけのわけないでしょう」
サッカ―部は私の言葉に、涙こそ流さなかったものの、巨匠が描いた絵画のような、確かな哀しみの表情を貼り付けた。
「アンタはさ、勝手に見限ったんだよ。一緒に逃げることもできないくせに」
「……そんなこと、できるわけないだろう」
決して自分の意見が正しいとは思っていないゆえの、弱々しい、しぼりだすような声だった。
「できなくてもいい、でもそれがあれば信じることができるんじゃないかい」
慰めるような、優しい口調で部長は言った。
「僕達は大人と呼ぶには幼く、子供と呼ぶには年月を重ねすぎている。だから、僕達は限界を知っていて、あきらめきれずにあきらめる。けれどね、あきらめる必要なんてないんだよ」
部長は紡ぐ。夢物語で、どうしようもない理想論を。だからこそ、それは砂城のような雨が降れば崩れるような脆さがある。けれど、崩れさった後、背景に虹が輝くようなそんなきらめきも確かに笑っている。
「たとえば、キミと清水君が逃避行するとしよう。それはたぶん、失敗に終わるだろう。けれど、それでも、確かに残るモノはあるんだよ」
終わると言うことは、なくなることではないのだと、部長は言っている。だから、恐れるなと、部長は告げようとしているのだ。
「未来はね、笑ってくれるんだよ。たとえ、失敗したとしても、手を取り一緒に歩んだ事実は消えない。それがあれば、信じられるだろう? キミと共にいる未来って奴を」
「――私、和明のこと大好きだよ」
ささやくような静かな声音で、清水さんが初めて口を開いた。
「離れたくないし、そばにいたい。――だから、約束が欲しかったんだ」
清水さんが吐き出していく気持ちは、どこか透明で繊細なガラス細工のようだった。
「本当はさ、指輪、なくしてなんかいない。――なくせないよ。ただ、欲しかったんだ、和明の心が。でも、ゴメンね、私傷つけちゃったね」
清水さんは笑う。風鈴の音の様なやわらかな、けれどすぐに空気に溶けてしまいそうな儚さを持って。
「――おあいこだろう。俺もおまえを傷つけた。俺もさ、お前のこと好きだ。大好きで、ぶっちゃけ、一緒に逃げたいと思ったこともある。でも、いろんな理由を付けて、最後には『優菜のためだ。だから、止めよう』って言葉をいいわけにしてた」
彼は言い終えると、清水さんを見据えた。強く、しっかりと、もう迷わないと伝えるように。
「俺、優菜のこと迎えに行くよ。ただの口約束で、叶うかどうかわからないけど、でも、絶対叶えてみせる。――だから、待っていてくれ」
「――うん、私待っている!」
黄昏が淡く世界を彩る中、二人は微笑みつつ約束を誓う。きっと叶うことはないのだろう。けれど、叶えばいいと願わずにはいられない、そんな希望を。