四杯目
「なぜだ。なぜ、フードを被って完全に顔も髪の毛も隠したオレがこうも注目されているんだ」
「………………」
「それにさっきから放心したように孝が喋らない」
「………………」
「わざとらしくこうして独り言を呟いているというのに、全くの無反応とかいくない」
ただいま電車の中。席に座っているわけだが、意味不明なほど車両の中の全男の目線を独り占め。嬉しくない。
そして頼りになりそうな孝は虚空を見上げ放心中。わりと危険な気がするのは気のせいじゃない。
「おい、おい孝。起きろ。オレの身が危ない」
「…………ああ」
「今もこうしている内にじりじりと男共が迫っているんだがどうしたらいい?」
「…………ああ」
「ええい。次の駅だからな。降りるぞ」
「…………ああ」
孝が本気で役立たずすぎワロタ。さっきから、俺って奴はと頻りに呟いては頭を抱えている。
…………そろそろ本気で気持ち悪い。粘つくような視線というか、体中を這い回るような視線というか……とにかく吐き気をもよおすレベルであることは間違いない。っていうかキモい。こっちみんな中年。たぶん、フードの効果で踏ん切りがついていないようだ。もしも顔モロしていたら……考えるだに恐ろしい。
~~~次は~豊橋~豊橋~です。お降りの際は忘れ物のないようお気をつけ下さい。次は~豊橋~です。
「ついた。降りるぞ孝」
「あ、ああ。って、なんだこの視線の量!?」
「ようやく正気に返ったかバカ一号。お前はこれに耐えたオレを褒めるべき」
「すごいな千里」
「ふへへ」
さて、降りるか、と二人して立ち上がると視線の量が倍加した気がした。いや、それは気のせいだとしても、明らかにこいつらオレを降ろす気ない。扉の前に肉の壁とか、ふざけんなし。
「孝」
「俺が先に抜ける。後ろを付いてこい」
「……突然いつもの調子を取り戻したな」
「それについては俺の仮説がある。今は抜けるぞ」
「あ、ああ」
孝を壁にするようにして強引に抜けようとすると、案の定オレの体を少しでも触ろうと手が伸びてくる。それも一つや二つじゃない。数えるのもバカらしくなるほど、たくさん。
ちょっ、触るな。触れるな。ひえっ! いま尻揉まれたぁっ! やめぇ! くそっ! 早く、早く孝この場を抜けて! ちょ、も、やだ! オレは男だって! くそっ! くそぅ!
ようやく孝が電車を出れたとき、たった十数秒がありえないほど長く感じた。ああ、やっとオレも抜けられ──!
手! 掴まれ──
「──孝ぃ!」
必死に掴まれていない方の手を孝に伸ばした。
「っはぁ! 大丈夫か!」
孝はその手をすぐに掴んで、強引にオレを降ろした。扉が閉まる。扉の向こうからまだ気持ち悪い視線は消えていない。気持ち悪い。胸くそ悪い。ああ、手が汚い。
くそっ、くっそ……
「……すこし……すまん……」
どうしてか、身体の震えが止まらなかった。
孝は千里の手を掴んだまま、フード越しに彼女の頭を撫でた。
「……もういい。落ち着いた」
千里はそう言うと、たっと孝からも距離を置いた。
っというか、オレにとっては孝も十分警戒対象。泣きかけたが、なけなしの男のプライドで耐えたった。おいやめろ。なま暖かい目でオレを見るなし。
「それよかさっき仮説がどうたらとか言ってたよな。聞きたい」
「……じゃあ、とりあえずそこのベンチに座ろう」
「りょーかい」
それなりに新しい、プラスチック製のベンチに人一人分のスペースを開けて千里と孝は座った。プラットホームは左右のどちらからも電車が来るようになっていて、豊橋駅はそれがいくつも連なっていて広い。空間的にも。今は朝とも昼ともつかない時間帯のため人はあまり多くなかった。
「さて、さっさ話せ。いくらなんでもさっきの異常だと思われ」
「ああ~その前に、だな。なんというか……その」
「歯切れ悪いのは嫌われるぞ」
「あぁ~朝のことな。本気ですまなかった」
「わけわからん。説明求む」
「かなりへ、変態的なことしたろ? それを謝る。本当にすまなかった」
そう言って孝は頭を下げた。困惑するのは千里である。
「……朝のお前はらしくなかった。今のお前は平常運転だ。これとさっきのこと、関連性は?」
「……相変わらず察しのよいことで。ああ、仮説が本当なら、全くその通りだよ」
「狭い空間。広い空間。その違い?」
「もっと言えば男性のみっぽいな」
「要するに?」
「千里は凄まじいフェロモンを常時出していて男性を狂わせる。二度と男と二人っきりになるな」
「なにそれ怖い」
まじそれ怖い。冗談抜きだ。オレが男を引き寄せるフェロモンを常に出しているだって? 魔性の女ってか。後天的とかあり得ない。
……まて。
「ならなんで今の孝に効いていないんだ? こんなに近くにいるのに」
つまりそれはこの回答が誤答というとても素晴らしい未来。
「それはお前のマンションを出て外にいる最中に一度正気に戻ったから。しばらく現実と戦っている内に、気が付いたらあんな状況に」
「だとしても、お前に効かないのはおかしい」
オレはそれを認めるわけにはいかないのだよ……!
千里の表情は険しい。孝も難しいことを考えているように……いや、どちらかというと子供にどうやって現実を教えてあげようかと悩む親のような顔をしていた。
「たぶんだが……それは俺が千里のことを一応は男と見ているからだと思う。今も、お前からやけに甘い匂いが漂ってきているけど、千里は男だって思えば耐えられないものじゃない」
「嘘だと言ってよバーニィ」
「ところがどっこい夢じゃありま「千本桜」……なに?」
「言いたかっただけ」
「……以外と余裕あるな」
「いあいあこれでも内心びくびくどきどき」
下手したらあのまま男たちの慰みものになっていた可能性にわりと本気で身体が震える。うっは、家で言ったことが本当になりかけるとか、なにそれワロエナイ。
「一応聞くが……この甘ったるい匂い、千里の方でどうにかならないか?」
「フェロモンとかどうしたらいいし」
「こう、なにかを閉める感じで……」
「ほうほう……、ケツ穴を閉める感じで……」
こう、キュッと。
「そうは言っていな……い……? 匂いがなくなった?」
「マジか。ケツ穴ヤバいな」
問題浮上と共に解決したとか。ラッキーというか。ふぅ、身体の力が抜けるぜぃ。
「あ、甘ったるい匂いが」
「うへぇ」
キュッと。
「なくなった」
「……オレに常にケツ穴を閉めろと」
「男に襲われたくなければ。ってか仮にも女の子がケツ穴言うなよ」
「おけ。選択肢がないという事実に全オレが泣いた」
誰が好き好んで男に襲われにゃならんのか。
千里は辟易とした顔で立ち上がると、気の毒そうに孝はその隣を歩いた。
がんばってフェロモンを押さえてるおかげで、端から見ればスレンダーな子がダボダボなパーカーを着ている程度まで落ち込んだ。ある程度不気味だが、顔と髪の毛を晒せば千里の努力はまるで意味がないものになるので、なにが何でもフードは取らない。銀髪なんて視線を集めないはずがない。
孝は必死に力んでる千里を想像して、真っ赤になって、頬を掻きながらたははと笑った。
腐っても、見たことのないほど美少女である。いくら孝が千里を男と見なそうとしても、視覚情報がそれを阻害するのだ。フードを被らずフェロモンを押さえこまないで、孝と二人きりも実は危ないのである。まだその事実に千里は気が付いていない。ある種、孝には全幅の信頼を置いているが故に。
結局、千里が自分は男だと思っている限り、警戒心など雀の涙に等しいのである。
「で、そのランジェリーショップとやらはどこにあるんだ?」
「駅ビルの中にあること期待」
「知らないできたのかよ!」
「むしろオレが知ってたら変態だと思われ」
「そうだけどさぁ!」
女に変わっても動揺を隠しきる千里がすごいのか。
親友が変わっても平素な自分を演じる孝がすごいのか。
「あ、昼飯はインドカリーでよろ」
「お前はそう言う奴だよなぁ!」
なんにせよ千里が千里である限り、二人の関係は変わることはないのである。
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目の前に広がるのはピンクのお店。もとい下着。
「何だかんだ言ってランジェリーショップに着けたオレはサイキョー」
「インドカリー屋のカレーを恍惚の顔で食い続けてたお前がなにをおっしゃってるんだろうね? その間恥を忍びに忍んで女性店員に聞いた俺がいるんだけど。あれはもう少しで不審者扱いやった」
「インドカリーの店でカレーを食わないとか」
小馬鹿にしたようにフードの奥で笑う。
「そういうこっちゃねえよ! ってか、お前途中でフェロモンだだ漏れだったけど、あまりの食いっぷりに男性客、店員めっさ引いてたぞ! フード取ってたのにさぁ!」
「やはりカレーが最強か」
「カレーを爆食いする銀髪美少女とか、男たちの幻想を守ってあげて」
「カレーに罪はない!」
どーん。仁王立ちで阿呆なことを抜かす千里に、孝はため息をついた。
「……よくその食生活で身体を壊さないよな」
「カレーこそ至高。カレーこそ至宝。カレーに勝る食物は無いものと思え。つまりカレーを食っている限り私に病気は存在しない」
「お前のキスはカレー味だな」
「歯磨きは携帯している」
「そういう所はしっかりしてるよな!」
「ふへへ」
褒められて悪い気分はしない。
んむ、そろそろショップの店員が危ないものを見る目でこちらを見始めた。目的を果たそうか。
「んじゃ行ってくる。孝はどうする?」
「いや、俺はスタバで待ってるわ。いってら」
「りょーかい。また後で」
「おう。この階は男がいなさそうだからゆっくりしてこい」
そう言うと、孝はそそくさとエスカレーターに向かっていった。孝の言うとおり、ここには女性専用ショップしかなさそうだ。服も靴も全部レディース。孝がここに残るというのも、辛いものがある。
千里が気がついていないだけで、孝にはずっと敵意の視線が向けられていた。千里は声からして女性を判断されたようだ。
エスカレーターに乗って上っていく孝を見送ると、息を吐いて未知の領域へと足を踏み入れた。
「うへぇ……オレにとっては正しく魔窟」
ピンクのお店に入っただけで気に当てられそうだ。
目の前に広がるは幾千の下着。さぁ、下着の貯蔵は十全か。十全だ。多すぎる。右見てブラジャー、左見てパンチー、正面には笑顔の店員。ふむ。
「よし帰ろう」
「お客様。どんな下着をお探しでしょうか?」
店員が顔すら見えない怪しさ満点の千里に話しかける。
「ベストタイミングすぎて狙ったとしか思えない件。ってか種類とかわからん」
「失礼ですがサイズのほどは?」
「なるほど。その発想はなかった」
「よろしければこちらでお計りになれますが」
「脱げと申すか」
「ご必要とあれば」
「ぬぅ……」
この店員めげない。すでに萎えた、もとい帰りたくて仕方がなくなった千里は、あれやこれやと画策するがすべて店員に真面目に返されあえなく撃沈した。
はぁ、と嘆息すると諦めたのかフードに手をかけた。
絹のような銀糸がこぼれ落ちる。
「…………っ」
思わず、店員は息を呑んだ。かれこれ数年も店員をやってきても、これほどの美人を見たことがなかった。アイドルなんて目じゃないほどの、挑むことすら愚かと思い知らせる格の違いが目の前に。
そしてそんな人間が己のサイズすら知らずに男物のパーカーとジーンズを着て、男物の無愛想なスニーカーを履いている。この子は自分の造形を理解していないのか。純粋にもったいないと思った。そこに嫉妬や羨望はまじえない。ただこのお人形を着飾りたいと。
「じゃあ、サイズを「プランS! プランSを発令しろ! これは訓練ではない! 繰り返す! プランSだ! これは訓練などではないぞ!」、ば……?」
さっきまで笑顔だった店員が一瞬呆然したと思ったら突然鋭い声を上げて近くの若い娘になにかを命令した。なにが起きたのかわからなかった。ブラジャーだとか、パンチーだとかそんなチャチなもんじゃ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。
「それではそういうことで」
「お客様?」
ゴゴゴゴゴ……
どうしてあなたから効果音が聞こえるんでせう。
どうして各ショップから店員が走ってくるのでせう。
どうして全員血走った目でオレを見るのでせう。
「……どうしてオレを取り囲んだし」
「お客様は大変素晴らしい素材をお持ちです。ですが、残念ながらそれをまったく生かしていない。それに心を痛めた私どもが代わりにプロドゥースさせて頂こう、ということでございます」
じりっ。
こくこくと頷きながら店員が包囲網を閉じていく。
額に玉の汗が浮かぶ。
「ありがた迷惑でございます」
「いえいえ、ご遠慮なさらずに」
これ以上近づいてくんなし。ってか、そろそろ、逃げる場所が……逃げること脱兎の如し!
ふはははは、どんな結束だろうと穴はあるのだよ!
千里は円形の唯一人が少なかった場所へと走り出した。
「甘いっ!」
「「「「「はっ!!」」」」」
「バ、バカな! 伏兵とかあり得ぬぅぅぅ!」
開いていた穴はあえて逃げ道を一本化する罠だったのだ。後ろに見えないよう控えていた店員が千里の前に現れた。そして、千里がたたらを踏んだ瞬間に五人掛かりで掴みかかった。
「確保ぉーーーー!!」
「絶対に客に対する態度じゃないだろおおおぉぉぉーー……」
捕まった千里は店の奥に。ずるずると引きずられていった。
さながらドナドナの如く悲哀な表情は、より店員を興奮させるだけだった。舌なめずりをするもの、唾を飲み込むもの、息が荒いもの、みなの思いは一つに。どう料理するか(着飾ろうか)のみだった。
「ひぇっ! 胸揉むなし! メジャー? 冷たっ! 揉むな! 触るな、やめてよして脱がさないで恥ずかしいからってかさっきから揉んでる奴ぅ! ひやぁっ! んっく……ま、待ってちょくせちゅも、やぁ! 息が荒い! くすぐったい! 髪の毛に顔埋めて嗅ぐなぁ……オレだって人並みに恥ずかしいってぇ……! え、ふ、服……? オレは下着を買いに来ただけ……わかったわかりました着るから許してぇ! だ、だけどスカートは断固として着ないかんな! お、脅しには屈しな、いぞ! うへぇ……わかったこれなら……なんで客なのに……へ? それはやだぁぁぁあああ!! …………! ………………」