フローレンスの追憶
戦争・大量破壊兵器・薬物を使った洗脳・自傷行為・売春行為・多少のグロ描写が入ります。
自己責任で回避をお願いします。
罪を。
罪を犯した。
殺した。
人を殺した。
たくさん。
たくさんの人を。
愛する者のために。
顔も知らない、少女のために。
よかれと。
よかれ と、思ってのこと。
罪はあがなう心算であった。彼は自身を裁かれるべき悪人であると知っていた。
そして彼は英雄になった。
*****
ジャン・ジャックは罪人であった。
軍粋主義の国の中で、彼は若くして大量破壊兵器の開発に尽力をつくす科学者であり、研究者であった。最小の効率で最大の人間を殺すすべを考えることに長けていた、天才であった。
軍部が政権を握り、一部の高級将校や士官が横暴をふるい、格差は激しくなり、民は誰もがぎらぎらした眼をしておなかをすかし、映画館にはプロパガンダ、子供たちが軍歌を歌う。そんな世の中を憂う健全な精神ながら、軍部で人殺しの研究をする。矛盾した人間だった。
ある日ぽつりとつぶやいた。
「こんな世の中はおかしい」と。
憲兵はどんな小さな声も逃さない。
翌日ジャン・ジャックは捕らわれた。だが行き先は監獄ではなく、とある研究所。
彼の優秀すぎる頭脳を惜しんだ上層部は、買い殺しを選んだ。彼はその研究所で新たな研究を命ぜられた。
一生そこで、人殺しの研究を。それが彼に与えられた罰だった。
薄暗く冷たい研究室という名の監房で、ただ一人、図面を描く。
何枚も。何枚も。何枚も。何枚も。
従来の二倍の連射速度をほこる大砲。中身に燃料と薬品をつめた地雷。逆棘のついた弾丸。より小さく大量の鉛球のつまった散弾を連射する銃。毒ガスの生成。精神高揚のための麻薬の開発。
とにかくたくさんのへいきを。
考え、作った。
罪をあがないながら、罪を重ねた。
周辺二カ国との戦争を繰り返し続ける国にとって、いつしか彼は、なくてはならない人物になっていた。
国立第五兵器研究所は、実験場だった。
彼の理論を現実にするための、実験場。
そのために集められたスタッフ。数々の披見対象。
その一人だった。
彼女。フローレンスは。
*****
ジャン・ジャックは心を病んでいた。心を凍らせていた。
そうでなければ、健全な精神の良心と、いくらでも残酷な兵器を考えつけるおのれの恐ろしい頭脳に、おしつぶされていたから。
自傷行為が日常茶飯事となり、五度死にかけた。大量の精神安定剤の服用で、躁と鬱のはざまでうつらうつらすることが多くなった。
そんななかで、機械的に、兵器を量産し続ける。それが入所三年目のジャン・ジャックの姿だった。
その日。
ジャン・ジャックは本当に珍しいことに、明瞭な思考を保っていた。
空が白の絵の具を一滴を落としたように晴れていた。鳥が遠くでないていた。
そして聞いた。
高い位置にある、鉄格子のはまった小さな窓の外から、足音が聞こえた。
規則的な、はずむ足音。
ジャン・ジャックの研究室は一階にあった。
以前は四階にあったのだが、飛び降り自殺を図ってから、彼を二階以上に拘置することは禁止されたので。
窓の外には、白っぽい土で固められた、80メートル四方ほどの実験場。おもに地雷実験、射撃実験などに使われる。
近づいてははなれ、一定の時間をおいてまた近づいてくる。
ジャン・ジャックは本当に珍しいことに、明瞭な思考を保っていた。だから興味を持った。
その軽い足音の持ち主に。弾む足取りの持ち主に。ゆえに、声をかけた。近づいてくるタイミングを見計らって。
「君は誰?」
それが彼と彼女の第一接触だった。
「君は誰」
一度目にその人は無視をした。そのまま走り去って行った。
「君は誰」
二度目もその人は無視をした。そのまま走り去って行った。
「君は誰」
三度目にその人は口を開く。「わたしは…」少女の声でささやいた。そのまま走り去って行った。
四度目の問いかけはいらなかった。彼女の方から口をきいた。
「わたしはF-412」
早口でかすれていてよく聞き取れなかったけど、ジャン・ジャックはその暗号のような言葉で、彼女が研究所の披見体であることを知った。
優秀な兵隊のための麻薬の開発。
命令・規律違反の心配のない、余計なことを考えることもない、しかし武器をうまく扱えるだけの知性をもった兵を、より長く、より確実に、『使う』ための。
彼が作ったのは、人間をほんの少し素直にさせ、反射神経や筋線維などの身体能力を格段にあげることのできる薬。
体力的・精神的苦痛を感じさせないための、アドレナリンの異常分泌による極度の興奮状態の維持。
薬を作り、披見体に投与し、経過を考察して。
実験結果からわかったこと。
多大な副作用。心拍通を常に160以上に保っていないと、即死。
そんなものを、先日作った。ジャン・ジャックはあまりに多くの兵器を作りすぎていたが、いままで彼自身が作った作品を正確に把握していた。
彼女の言葉のきれはしから、推測した事実。
彼女は薬を服用し、耐久実験にさらされている。
どのくらいの期間、どれくらいの運動量を、どれだけ耐えられるのか。
飛躍的にあがった運動能力はどれだけの力を発揮するのか。
心拍数を一定に保つため眠りながらも動き続ける。
たいていは、実験場を走っていた。
走り続けることを命ぜられた披見体。
ゆえに彼女は走っていた。晴れの日も曇りの日も雨の日も。
ジャン・ジャックの作った、薬のせいで。
そして彼は多大な罪悪感を、それまで彼が作った武器によって失われた命すべてに、すべての被害者に向ける罪悪感を。
あまたの兵器を作っても、研究室にいただけのジャン・ジャックは、それらが活用されるところなど見たこともなくて。
研究所のスタッフが、巧妙に隠した人体実験の被験者が、実体として目の前にあらわれて。
断罪を。救いを。
彼女に感じた。
*****
「君は、どこから来たの?」
ジャン・ジャックは、あの日の邂逅以来、明瞭な思考を保ち続けようと努力していた。
彼女は、壁から聞こえる男の声を、不審と判断するだけの思考が残っていなかったのか、違和感なくジャックの存在を、話し相手と認めたようで。
ジャックが彼女に話しかけることもあれば、彼女がジャックに質問を投げかけることもあった。
切れ切れの返事。それでも彼は、辛抱強く聞き、無邪気な彼女の答えをよろこんだ。
無邪気な彼女が見た、真実の民の姿。
「街。下町。ネズミと、ゴキブリがいつも、枕元で、あそんでた」
「どうしてこんな……所に?」
何日も、何日もかけて。
「わたしは、病気だった。いつも、動けないから、暗い部屋で、寝てた。おじさんが、ときどき、ごはんを、もってきて、くれた。ぺたぺた、わたしにさわってく、おじさんたち。
でも、こなくなった。おなかが、減って、死にそうだった、とき、政府の人が、”掃除”に、きた。死んでると、思われてた、みたいだけど、わたし生きてた。それから、ここによこされた」
彼女を、知った。
「ジャック。ジャン・ジャック?それが、あなたの、名前?」
「そう。君の名前は?」
「おまえ、これ、あれ、それ、みんな、わたし、名前」
「……」
「ジャック?ジャック?」
「それは名前じゃないよ……」
「そうなの?じゃあ、わたしは、なに?」
「君さえよければ、僕の好きな言葉を、贈りたい」
「なにを?」
「名前を。フローレンス。僕の生まれた地方で、『幾千の花』という言葉」
「はな?」
「いや、かな?」
「ううん、うれしい。うれしい!すごく、はな。花。フローレンス。イクセンの、花」
「喜んでもらえてうれしい。『幾千』っていうのは、たくさんって意味だ。たくさんの花」
ジャックは思い出す。故郷の森。町。田舎ゆえの朴訥さにあふれた人々。戦争の色の薄かった、まだ平和といえたあの場所。
高等学校に飛び級で進学するまでの13年間を過ごした、小さな町。
「森を抜けた丘に花畑があって、毎年よい香りの花を咲かせた。いろんな種類の、きれいな花。みんなの心を潤わせた」
「ウルオウ?」
「満たす、ってこと。君の声は、とてもやさしい」
「やさしい?」
「君があらわれるまで、僕は死んでた。生きながら死んでた。
こんなにはっきり、何かを認識している毎日は久々で。
今の僕は、君の言葉を聞き洩らさないように、とても慎重になっている。まともであろうと努力している。
そして生きる気力を取り戻しつつある。みんな君のおかげなんだ、フローレンス」
「わたしのおかげ?」
感情豊かな弾む声は、「うれしい」とジャックに伝え。
その声に、感情に、ジャックは揺さぶられる。
その人間らしさを失わない声に。
しかし相変わらず、兵器造りの毎日だった。
すぐ横の運動場で、実験で走るフローレンスに癒されながら、一方で人殺しの道具を作り。
フローレンスの実験は、彼女自身が死ぬまでの耐久実験。
人が、体を休めずにどこまで動けるか。ただそれだけのためだけに生かされている彼女。
彼の作った麻薬のために。
死ぬ。
*****
ある薄曇りの日。さわやかな風が吹くころ、ジャン・ジャックはフローレンスに、覚悟をこめて、訊ねた。
「フローレンス、きみはここで、自分が何をしているのか、わかっているのか?」
朗らかな声で、彼女は答えた。小鳥の巣で雛がかえっているのを見つけた時の報告のような、明るい声で。
「わからないよ」
その声に、胸がしめつけられた。
朗らかな声は続く。断続的に。
彼女の置かれた状態を突きつけられる。
「最近、胸が、苦しいの。前は走ってれば、楽になったんだけど。今は、走っててても、胸も頭もずきずき、ちくちく、いたい。なんでかな、足も、腕も、うまく、前よりうまく動かなくなって、来てるの。ジャック。
ねえ、わたし死ぬの?」
「………フローレンス」
「でもねジャン・ジャック。怖くない。
部屋の中にも、死は、そばにあった。すぐとなりで、戦争しているのと、同じくらい、そばにあった。
部屋の中で、病気で、苦しくて、何度も、死にそうになったよ。部屋の中で、ひもじくて、いつも、飢え死に、寸前だった。
ねえ、ジャック。ジャック。世界は、醜いね。汚いね。おそろしいね。」
穏やかな声。ジャックには、じわじわと攻め立てられているようで。
「でもね。ここの生活は、幸せだよ。」
壁に寄りかかり、格子の外の声に耳を澄ませる。
「わたしは、ここに、来るまで、自分の足で、歩けなかった。走れなかった。
今、わたしは、自分の足で、走ってる。走ってる、速く!
下町では、どぶのくさい、においと、ねずみの、くさっていく、においしか、しなかった。
空は、いつも、灰色で、街にも、人にも、色なんて、なかった。
ここは、いいにおい。土の、におい。みどりの、におい。はな、のにおい。空は、青い。鳥のひななんて、はじめて見たよ。
ここでは、おなかいっぱい、食べさせてくれる。くさったスープも、かびだらけ、のパンも、食べなくて、いい。新しいパンと、あったかいスープ。おいしい。わたし、幸せだよ、ジャック」
彼女の声は、真実しか、告げていなくて。
まっすぐで、純粋で、屈託なく。ジャックの心に、入ってきた。
フローレンスは、今や彼の生活に欠かせない変化。
死なせたくない。
しかし死なせてしまうのは彼の研究開発した兵器。
でも。
でも。
でも。
血にまみれたこの手でも彼女を腕にかき抱きたいと。
願ったその日から、ジャン・ジャックは戦い始めた。
*****
その秋。
彼女は死んだ。
血液は沸騰し、脳みそは茹だり、全身の穴という穴から血を噴き出して。
のたうちまわり、奇声をあげ、ジャン・ジャックの名を呼び、血の涙を流しながら、彼女は、最後に。
青空を、見た。
萌える若葉の緑を見た。
舞い上がる白っぽい土埃。
木の枝に見た、リスの親子。鳥のひな。
空を渡るトンビ。
花の、草の、青い匂い。
首をなぜた風の心地よさ。
白い壁の向こうの、男の声。
フローレンス。
男が呼ぶ。
わたしのなまえ。
幾千の花。
ああ、ジャン・ジャック。
わたし、わたし、あなたに…。
あなたの顔を。
そして。
微笑った。
*****
少女が死んだ秋が去り、季節が一廻り、二廻り……五度廻ったころ、ジャン・ジャックは研究所を脱走した。
少しづつ志を共にする者を見つけ、懐柔し、算段をつけ、実に沈着慎重に行動を起こした。
施設を爆破し、火災のどさくさにまぎれて、同志とともに行方をくらませた。
見つからなかった遺体に、政府はしつこく行方を追ったが、数年が経過しても、とうとう彼らはジャン・ジャックの居場所を突き止めることはなかった。
そして、クーデターは起こった。
*****
首謀者の名前はジャン・ジャック。
溢れる知性を駆使し、また彼が開発した武器によって、軍事政権の上層部は速やかに取り押さえられ、断罪された。
長びく諸外国との戦争によって、国としての機能を保てないほどに、国力は逼迫していた。
利潤をむさぼっていた高級将校に不満を持つ軍人・市民はとても多くて、それ故、流された血は最低限にとどめられたといえる。
かつての国の指導者全てを裁いた後、彼は、自ら監獄へ入った。
*****
「それは、旧体制の人間として、あまりに多くの人を殺した罪悪感からですか?」
格子のはまった鉄扉の向こうで、記者が問う。万年筆がカツンカツン扉にあたって、長い廊下の所内に響いた。
それまでのよどみのない口調がウソのように、ジャン・ジャックは応えない。
錆びたパイプベットの薄いマットの上で、ぴたりと口をつぐみ、身じろぎもせず、虚空を見つめる。
何度か同じ質問をした記者に、背後に立った監獄守が肩を叩き、首を振る。
これ以上、彼はしゃべらない、しゃべれないという。
「俺たちをぐいぐい引っ張ってってくれてたこの人はな、薬をやってたのさ。なんだ、自分に自信をつけさせる薬、っつったかな?自分で作った薬をさ。まぁ、それの摂り過ぎで、今じゃ正気と夢を行ったり来たりだ」
「はぁ…にわかには信じられなかったのですが、本当なのですね」
「新政府も、このことは公にはしたくないらしい。そらそうだ。薬中に導かれたクーデターや政府なんて、外聞が悪いからな。だからお前の書く記事には検閲が入ると思う。それは同意書に書いてある通りだ」
「わかってますよ。私だって、あの革命の英雄を書きたいがために、こんな辺境の監獄まで足を運んだんですから。そこのところは了解してますよ。
しかしなんというか、辛いものがありますな。この人が、我々を救ったのだというのに、いまでは廃人同然ですか……」
「もともと神経の細い人だったんだそうだ。よくもまあ、革命なんて大それたこと成し遂げたと思うよ。どうする?もう行くかい?」
「ええ、これ以上聞きようがないというのだから、ここにいても無意味です」
「そうか。コーヒーでも飲んできな。ここは寒いからな。あったまるぞ」
二つの足音が、ジャン・ジャックの監獄から遠のいてゆく。そのことも彼は気がつかなかった。
虚ろな瞳が映すのは、シミの浮き出たコンクリートの壁ではなく……。
*****
かつて、泥だらけになりながら遊んだ友たちが、緑の草原で彼の名を呼ぶ。彼らは戦争に駆り出され、ほとんどが死んだと聞いていたはずなのに。
実家の赤い屋根。両親と兄たちが笑い森を指す。故郷の小さな町は空爆で焼け、あの森も、かつての姿はないはずなのに。
故郷の森。
土の匂い。緑の匂い。腐葉土の甘い匂い。穏やかな小鳥と獣の声。木漏れ日がきらきら踊る……故郷の森。
森を抜けた丘の花畑。
赤青ピンク黄色オレンジ薄紫白……あまたの花の咲き誇る花畑。
その真中で、少女が振り返る。顔も見たことのなかった少女の姿が。ありありと。
『ジャン・ジャック』
うれしいと、体でいうかのようなその声の持ち主に会いたいがために、その体を抱きしめたいと願ったがために、ジャン・ジャックは。
大分年は離れているはずなのに、今の彼らはまるで同年代の少年少女の姿で見つめあい、手を取り合う。花弁が風に舞う丘を、笑い転げながら駆けまわる。そこに不安はない。
少女の名を呼ぶ。少女が名を呼ぶ。その幸せに、目がくらんで、ジャン・ジャックはなぜだかとても。とても。
*****
「どうかしましたか?」
「いえ、なんか、聞こえた気がしたんですけどね」
「そりゃ、空耳ですよ。この監獄には、あの『かつての英雄』のほかの受刑者はいませんからね」
遠く離れた監獄守室でコーヒーをすすっていた記者は、首をかしげる。
確かに、名が聞こえた気がした。
『フローレンス』と。
しかしその違和感は、温かなコーヒーの香りにまぎれて消えていった。
かの監獄で、かつての天才の、英雄の、少女を守りたいと戦った男の頬に、一筋の涙が流れて、粗末な服に染みを作った。
その顔は微笑っていた。
そして。
そして罪人であり英雄であり優秀な科学者であり国を救って多くの人間を殺した男は。
追憶の中で、少女と遊ぶ。
はじめての投稿です。楽しんでいただけたら幸いです。