語り階段
マサシ、
呼び止める声に振り向くと誰もいない。
気のせいか……。
匡は向き直り、再び階段を下りようと足を持ち上げた。
「斎藤!」
呼び声に顔を上げると、階下で幼馴染二人が手を振っている。
「ん、あ、ちょっと。……先帰ってて」
そこで動きを止めて、匡は軽いランドセルを背負いなおした。
「は? なんでなんで?」
「宿題のプリント、落としたの思い出した。職員室行ってくる」
「そんなの、僕達の写せば――」
「いいよマナブ、帰ってようぜ」
「……マモル?」
「そゆことで。じゃーな!」
物分りの良い方の友人が、鈍い友人の肩を押し留めてくれた。
これ幸いと匡は身を翻し、階段を駆け上がっていった。軽快な足音だけが残され、それもやがて消えてゆく。
取り残された学は、ポカンと踊り場の白い壁を見上げるだけだった。
彼の肩を押さえていた守は、神妙な顔つきで同じ方向を見つめていた。
六年生へと学年が上がっても、あいかわらず守は議長委員に選任され、彼の帰りを待つのが学と匡の日常だった。
今日もまた、委員会が終って夕暮れ空の下。
とぼとぼ歩くのは、学と守の二人だけだった。
「最近、斎藤の様子、おかしいよね」
確信をもって、学は口にした。
本音を言えば、それに気づきながら話題にしない、守だって変だ。
「そうかな?」
「そうだよ。マモルは何も思わないの?」
このところ、二人だけで帰ることが増えている。
最初の頃は、守が委員会から戻るまでの間は一緒に待っていたのに。最近では昼休みすら、どこかへ出払ってしまうのだ。
付き合いが悪い、なんていうものではない。
「今は……、あいつにとっても大事な時期なんだよ」
「マモル、なにか知ってるの?」
「……」
「マモル」
語気を強めて名を呼ばれ、守は肩をすくめた。
こうなった学は、泣き出したって融通を利かせない。
教えるのは簡単だ。
しかし、話を聞いた学が、どういう反応をするか……その予想さえ容易いから、守は話題にしてこなかった。
「……マナブ、"語り階段"を覚えてるか?」
*
*
L字型の校舎、山を背にする北側は、昼でもひんやりとした空気が留まっている。
二階の、グラウンドへ面する位置に図書室。向かいには資料室。その先の突き当たりに、理科実験室がある。
いずれも、普段は生徒が滅多に近寄らない区域だ。だから、空気が淀んでいる。
資料室の廊下には、歴代校長の写真がおあつらえむきに飾ってある。怖い空気、満点だ。
六年生の教室のある西校舎三階から階段を下りて、視聴覚室の前を通り北校舎へ続く角に辿りつく。
陽の当たらない薄暗い廊下を見据えて、匡は目を細めた。
心臓が、きゅっとなる。
*
*
「"語り階段"って……、北校舎の? 斎藤が話してた?」
思いもよらなかった切り口に、学はキョトンとして返した。
守が暗い表情で頷く。
「三年生になったばっかりの、丁度、今頃の季節だよな。三人で、探険にいっただろ」
幼稚園、保育園、出身はバラバラだった三人だけど、一年生の頃から行動はずっと一緒だった。
悪ふざけもたくさんやった。どれ一つ、忘れたことなんてない。学は守の言葉にコクコク頷く。そして思い出す。
「昼休みに仕掛けをして、放課後に"会い"に行く、ってアレだよね」
「そう。あの時は『方法』しか知らなかったけど……。もともとは何か、マナブは知ってる?」
「知らない。結局、あの時は何も聞こえなくって、斎藤の言うこともアテになんないやって……。それだけだったろ?」
「それだけじゃないんだ。……なかったんだよ。聞くか? いやだったら無理には言わないよ」
「話せよ。斎藤に関係することなんだろ? 僕にだって権利はある」
強気の言葉ではあるが、怖い気持ちも確かにある。それでも生唾を飲み込んで、決意を固めてから、学は守の目を見つめた。
守が、小さく頷いた。
*
*
お父さんに会いたい。
始まりは、ちいさな願いだった。
彼の両親は幼い頃に離婚していて、父親の顔も記憶には残っていない。
母が出かけている間に持ち物をひっくり返して、父がその小学校の教諭をしていたことを突き止めた。
電車とバスを乗り継いで、一時間三十分。
見知らぬ土地だったけれど、どこか懐かしい匂いがした。
――知ってる、
僕、ここを、知ってる。
もしかしたら、家族がまだ幸せだった頃に訪れた場所かもしれない。
彼は逸る心臓の音が導くままに、走り出した。
目的の小学校は、バス停から徒歩五分。すぐに見つかった。
雄大な山を背にしたコの字型の校舎は、彼の通う学校とは全く様式の違う建物であったが、やはり、見覚えがあった。
誰に聞かずとも、生徒玄関へ回り込む。
もちこんだ上履きに履き替え、彼は校舎へ入り込んだ。
黄昏時で、生徒たちの多くは下校している。
西日が差し込む廊下を、彼は足音を気にしながらゆっくりと歩いていた。
視聴覚室と札の下がった教室の前を通り過ぎ、大きな柱のある角のロビーに行き当たった。
そこには写生会で賞を獲った生徒たちの絵が飾ってある。
そして――彼は足を止めた。
明るいロビーの更に向こうに、薄暗い廊下が続いている。
そちらから漂う冷たい空気に、彼の心臓がきゅっと縮んだ。
「お父さん…… 会いにきたんだよ、お父さん」
なぜだろう。
その向こうに、お父さんが居るような気がしたのだ。
今までだって、よくわからない予感に従ってここまで来たのだ。
そうであるなら……
少年は唇を噛み締めて、先へ進んだ。
廊下が薄暗い理由は、窓が無いからだ。校舎の立地を思い出し、合点がいく。
ここは丁度、山を背にしている部分で、両側に教室を誂えているのだ。
左手に資料室、右手に図書室。そして突き辺りが理科実験室。
いずれも、生徒が頻繁に出入りするような場所ではないのだろう。だから空気も澱む。
理解すれば恐怖も和らぐ。
少年は、高鳴る鼓動を静めようと、小さく息を吐き出した。
「お父さん」
そうして、もう一度。
勇気を奮う呪文のように、呼びかける。
か細い声は、埃っぽい空気を揺らすだけだった。
あぁ
急に哀しくなって、寂しくなって。それから、ずっと手に握り締めていた父の写真のことを思い出す。
「また…… 逢えるよね。また、来るからね」
くしゃくしゃになってしまったそれを慌てて広げて、おまじない、と資料室前の廊下に連なる肖像画の後ろに隠した。
写真の裏には、自分の名前を書いておいた。そうすれば、お父さんは自分が来たことに気づいてくれるだろう。
逢いたいと思う、自分の気持ちを知ってくれるはずだ。
北校舎の廊下を半ばまで進んでから、少年は明るい西校舎へと戻った。
そして――
再び、理由の無い胸騒ぎに駆られたのだ。
名を呼ばれた気がした。
振り向いたけれど誰もいない。居るはずがない。
「……お父、さん?」
返事は無いが、しかし少年の胸に確信が宿った。
あわてて反転し、北校舎の廊下を駆ける。
「お父さん、お父さん、僕だよ。逢いにきたんだ。逢いたかったんだよ、お父さん……」
暗い廊下の先に人影はない。
だけど、お父さんはいるんだ。少年はそう感じていた。
理科実験室には外側から鍵が掛かっている。
冷たい戸から指を離し、少年は周囲を見渡す。
――大きく、なったな
ふ、と。
お父さんの声が聞こえた。
資料室と理科室の間から伸びる、階段からだ……。
少年は体勢を崩しながら階段を下りた。
果たして、お父さんはそこにいた。
白い踊り場の壁から、子供の頭を撫でるように突き出た白い指先。
それは確かに、六年前に消息を絶った、少年の父親のものであった。
*
*
「それから、行方の知れない家族の声を聞きたいときには、資料室の写真の裏に、会いたい人の写真を入れて――その裏には自分の名前を書いて。黄昏時に、北校舎の階段を下りると、その人の声が聞けるっていう噂が流れたんだよ」
「……ま、まもる、それ、今の時間に話すことじゃないよね?」
守の腕に、指が食い込むほどがっしりとしがみついて、学は震えていた。
「それと、斎藤と、何が関係あるの?」
「わからないか? 斎藤の、お父さんだよ」
「……お父さんって。だって、元気じゃない。……あ、れ?」
斎藤の、今の本当の名前は佐藤匡だ。その一つ前は田中だった。
二年生へ上がる時に両親が離婚し、三年生の春先に母親が再婚した。
名字は転々と変わったが、彼自身は何も変わらないのだと――学も守も、あえて彼を旧姓の「斎藤」で呼ぶことにしていたのだ。
状況が変化していっても斎藤のお調子者ぶりは変わらなかったし、新しいお父さんも優しい人だった。
平穏な日常に、何もかもが流されていたのだ。
「"斎藤"の方のお父さん……、長くないらしいんだ。病気で、意識不明がずっと続いてるんだって」
「……そんな」
「"斎藤"の家は格式が高いんだって。だから、斎藤のお母さんはお姑さんに虐められて……。不憫に思ったお父さんが、別れよう、って話を持ち出したって聞いたよ。だから、お父さんが病気になっても、斎藤のお母さんも斎藤も、お見舞いすらさせてもらえないって」
「それで……"語り階段"を?」
あいつらしい考えだと思う。
「意識がここにないのなら、心だけでも呼び寄せられないかって……。でも、危険だから、おれ達は巻き込みたくないって。一人でやるってきかなくて」
「危険? なんで」
三年前に試した時は何も起きなかったし、なにか反作用があるということも聞いた覚えがない。
「さっきの話の続き……。その子は、翌日、壁から付き出た腕に抱きしめられる形で発見されたんだよ。――そういうことさ」
「なっ、」
学の顔から血の気が引いた。
「なんで!? なんで、それを知ってて、止めないんだよ!! 斎藤だって、何考えて……っ」
「わかってやれよ」
「わかるかよ! 僕、学校に戻る!」
「マナブ!!」
怖くて涙をボロボロ零しながら、それでも学は学校へと身を翻した。
黄昏時は終ろうとしていて、紫から青みがかった光が、西校舎から差し込んでいる。
*
*
「お父さん オレだよ。」
光の中を、埃が舞う。舞う埃に風を与えながら、匡はゆっくりと歩を進めた。
「今日は、母さん、寝坊してた。珍しいんだぜ。最近、仕事が忙しいみたいだ」
返事はない。しかし、この先に存在する誰か、を、匡は感じ取っていた。
実父の危篤を聞かされて二週間経つ。それから毎日、こうして、語りに訪れていた。
いくら人の訪れない場所とはいえ、定期的に掃除当番が来たっておかしく無かろうに。
それもまた、めぐり合わせなのだろうか。調子よく、そう捉えていた。
「明日は、兄ちゃんが東京から帰ってくるよ。就職活動は、こっちでするんだって。せっかく専門学校に行かせたのに、こんな辺鄙な町に戻ってくるなんて……物好きだ、って母さんは笑ってた」
理科実験室の鍵が閉められていることを確認して、それから踵を返して階段へと。
七年前の校舎改築の際も、この北校舎だけは手を加えられることが無かった。
山を背にしていることから風雪による劣化が少なく、四、五十年の昔から変わらぬ造りでここに在る。
「姉ちゃんは……最近は帰ってこないな。学校の寮に、慣れてきたのかな。ときどき、メールが来るくらい」
階段に腰を下ろし、踊り場の壁を見下ろす。
変わらぬ造りといえど明らかに塗りなおされた壁の色が、噂の真相を濁していた。
もしかして、と望みを持たせる。
声を聞きたいと思うわけじゃない。
声を、せめて届けたかった。
母を思うゆえに離縁をしたということが本当であるならば、子である自分たちのことも、きっと愛してくれていた。
そんな父に、今の自分たちの声を伝えたかった。
「……お父さん」
か細い声が、埃っぽい空気を揺らした。
短く別れを告げ、立ち上がる。
その拍子に、バランスを崩した。
階段から、落ちそうになる――
「マサシ!!!」
名を呼んだのは、涙混じりの聞き慣れた声。
伸ばされた、白い手も、また。
「わっ、バカ、まなぶっ」
匡が目を見開く。
「馬鹿!」
重なるように、もう一つの声。守だ。
二人掛かりで抱きとめられて、守の背が踊り場の壁にぶつかったところで衝撃は収まった。
「馬鹿!」
もういちど、守が溜め息と一緒に言葉を吐き出す。
「どっちも馬鹿だ! マサシ、どーしてあそこで転べるんだよ。マナブ、お前がどーしてマサシを支えられるって」
温厚な守の説教は、胸に響く。
ふたりとも、背をちいさくして「ごめんなさい」と誤った。
「……マサシ、気は、済んだか?」
「うん。……ありがとな、マモル」
それから間を置いて問うと、匡は少し寂しそうに微笑んだ。
「ていうか、……"マサシ"って」
「うん? おれもマサシも下の名前呼びなのに、お前だけ苗字ってのも今更だよなーって。嫌か?」
「いやいやいや! うれしいですよ。喜んで!」
普段は匡の、そんな調子に乗った喋りに苦い表情をする守だが、今日は優しく頷き返すだけだった。
「さ 帰ろうぜ。大分、日が暮れてきた」
「うん!」
服の埃を払った学は、右に匡、左に守の手を握って歩き出した。
「って、おいおいナンデスカこれは。親子ですかオレ達」
「いーじゃない、たまには!」
「震えてるよマナブくん。怖かったの? ねぇ」
「マサシ。マナブを苛めない」
「苛めてません。可愛がってるんですー」
いつものやり取りに戻り、匡の顔にも明るさが戻った。
――マサシ、
暖かな声が、去ろうとする背に掛けられた。
匡が振り返ることは無かったが、それでもその目には大粒の涙が溜まっていた。