坂東武者次郎心中如何ばかりか
坂東武者次郎心中如何ばかりか その1
寿永三年の春。
見上げれば空は限りなく蒼く陽は高く二人を照らして居た。
其の時直実は思った。
「ああ、人のいのちの何と儚さよ。」
後ろは屏風のような断崖。
対する海は長閑に遥か沖合い迄続く。
耳には只寄せては返す波涛の轟き。
相対するのは倅と同じ年頃と見ゆる、
名も知れぬ平氏の若武者独り。
どうやら沖合いに固唾を飲んで待ち受ける、
御座舟に乗り遅れたらしい。
若者はじっとこちらを見据えると、
その眼差しには恐怖の色は見えなかった。
坂東武者次郎心中如何ばかりか その2
「其所のお若い方。宜しいのでござろうか。」
「刃に生死を頼むは、
武家の習い。
些かも怖じず。悔ゆる事は無い。」
其所迄云われては、
直実も遺憾ともし難い。
「はっはっはっは。
其れは中々勇ましい事。
お若いが平家方でも名のあるお方と見ゆる。
名を名乗られよ。」
そう云いながら、
直実は自分が何を考えて居るのか、
思い起こす気にはなれなかった。
どう見ても平家の若武者は源氏の荒武者の勝てるとは思えなかった。
未だ若い。是から花も実もある若桜であった。
百戦錬磨の直実だが、いつもと違って惨い気がした。
此の時が早く過ぎて欲しかった。
坂東武者次郎 その3
直実は時が早く過ぎて欲しかった。
「儂は老武者ゆえ、
平氏の若い衆を取り逃がすやも知れん。」
直実は聞こえる様に独り言を云った。
「ほほほ。戦場の兵に何の遠慮がござろう。
さあ、何なりとお相手仕ろう。」
直実は悪夢かと覚えた。
「……。」
其の時、若者は思い出したらしく。
「一つ願いがある。」
「何なりと。」
すると若者はやおら懐中より、大切そうに笛を出すと。
直実には判らねど、妙なる調べで一曲を吹き始めた。
何と云う心洗わる調べか…。
さすがの坂東武者も、暫く余韻を味わった。
暫く人無き浜にも、
源氏の荒くれ共が、
二騎三騎と集まり出した。
最早直実にも猶予は無かった。
坂東武者次郎 その四
瀬戸の蒼海の果てに独り佇んで居ると、
穏やかな空が一転掻き曇り、
ひょうひょうと生臭い風が吹いて来た。
夕闇の如き海上が沸き立ち、
おどろおどろしき人の声が轟いて来た。
坂東の荒武者として鳴らした直実も、
些か心胆寒からざる思いがして来た。
あの声は何の、
誰の声か。その時直実の脳裏にはっと閃いたのは、
瀬戸の浜辺に哀れに朽ち果てた若者であった。
その若者の奏でる悲し気な笛の音が、
いつ迄も耳の底に残っていた。
直実は不覚にも溢れ出る涙を堪える事は出来なかった。
独り泣いて居ると、
「直実殿、直実殿。」
と身を揺り動かす者が居て、
直実は眼を醒ました。
「嗚呼…。」
思わず物思いに耽る直実であった。
ここは京の都の外れにある、
黒谷の上人のお側であった。
坂東武者次郎 その五
暗たんたる直実の心をいつも照らしてくれるのは、
上人の語る御仏の話しであった。
今日も弟子ら数名が、
火桶を囲んで世間話しに夢中になって居た。
その一人は過去に野盗の一味であった。
「はっはっは。直実どの、
お武家は良い。そして人を殺めるにも、
主命によるのなら、
み仏の前でも言い訳が立つ。
儂等盗賊の類いは、
何と更に罪深いものやら。」
すると隣室に控えて居る師が、
そっと現れて慰めてくれるのであった。
坂東武者次郎 その六
「直実殿。」
ある時上人が直実を呼んで語るには、
「直実殿。人と生まれて悩みの無き者はござろうか。」
「はい。…」
師の慈悲深い眼差しは、
勇猛果敢だった直実の固い心を和ませてくれる。
「昔、釈迦尊者が弟子の問いに応えられた。」
「はい。」
「知って犯す罪と、知らずに犯す罪と、
どちらが重かろうと…。」
はっと目を上げ、
師の云わんとする事を聞きとどけようとする景色であった。
「そなたはどう、お考えかな。」
ふと面を伏せ考え込む直実であった。
「ははっ。どうされた、侍としては思慮深い直実殿…」
「手前には…良う判り兼ねます。」
「当然知って犯す罪業の方が重いかと…。」
「ふむ。…では聞こう釈迦尊者の受け売りじゃが。」
「…」
「ひと組の焼けた火箸が有ったとする。」
「はい。」
「知って握ると、知らずに握ると、
どちらが重い火傷を負うか。」
「…」
「人は皆多くの罪業を犯しつつ、生きている。」
「はい。」
「皆、その罪の重さを知らずに生き居る。」
「勿論、出家も武士も、民衆もじゃ。」
「では…皆救われないのですね。」
「…いや。そうでも無い。」
「…。」
「己の生命の奥の、
真の姿を知った者のみが、
罪業を払拭しうる。」
「…。」
「知る事じゃ。ははっ」