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閉店までの30分

作者:
掲載日:2026/05/24

はあ、もう疲れた。


 壁の時計は22:30を指していた。


「そろそろラストオーダーになりますが、よろしいですか?」


 カウンターの向こうから声をかけられて、僕は慌ててコーヒーをもう一杯頼んだ。あと30分。

 それだけしか、この場所にいられない。


 隣の席では、スーツ姿の男が分厚い書類を閉じるところだった。窓際では、学生らしき二人がスマホを見せ合って笑っている。みんなそれぞれの「最後の30分」を過ごしている。


 なんのためにここにきたんだっけ。

 ああそうだ、論文を書き上げないと。


「お待たせいたしました。アイスコーヒーです。」


 さあ残り30分。ラストスパートだ。





 気合いをいれたはずなのに、打っては消すを繰り返している。

 入店してからもう何杯コーヒーを飲んだんだろう。


 だめだ。集中できない。


 参考文献は開いたまま。書きかけの文章は三行で止まっている。

 こんなの、家でやっても同じなのに。わざわざ閉店間際の喫茶店まで来た理由を、僕はなんとなく分かっていた。


 論文執筆は孤独だ。まるでこの世界に自分だけ置いて行かれたような感覚になる。誰でもいいから誰かの時間の中にいたいのだ。


 とはいえ進まない。今日はもう諦めるか?


 店内のBGMが小さく切り替わる。

 聞いたことのないピアノ曲だった。


 窓の外では、終電を急ぐ人たちが足早に横断歩道を渡っていく。

 みんな誰かの元に帰るのだろう。


 そのとき、入口のベルが小さく鳴った。


 こんな時間に。


 思わず顔を上げると、女性が一人、冷たい夜風と一緒に店へ入ってきた。

 何かをぐっとこらえているのだろうか。口を真一文字に結んでいる。


「まだ、入れますか」


 閉店25分前。

 その人は、どこか時間に置いていかれたみたいな顔をしていた。





 店員は時計をちらりと見てから、小さく頷いた。


「23時閉店ですが、それでもよければ。」


 女性は「すみません、ありがとうございます」とだけ言って、窓際の席に腰を下ろした。


 それだけのことなのに、静かだった店内の空気が少し変わった気がした。


 僕は視線をノートパソコンへ戻す。

 戻した、はずだった。


 けれど気づけば、画面ではなく女性の様子が気になってしまう。


 女性はメニューを開いたまま、しばらく動かなかった。

 何を頼むか迷っているというより、何かを考え込んでいるように見える。


 やがて店員を呼び、消え入りそうな声でこう言った。


「……甘いデザート、ください。」


 曖昧すぎる注文に、店員が少しだけ困った顔をする。

 その瞬間、僕は少しだけ笑いそうになった。


 今日初めて、論文以外のことを考えた気がした。





「では、プリンアラモードはいかがですか。」店員からのおすすめに女性は小さく頷く。


 それだけのやり取りなのに、なぜだか耳に残った。


 僕は再び画面へ向き直る。

 白いカーソルは相変わらず点滅したままだ。


 ――人はなぜ孤独を感じるのか。


 論文のタイトルを見つめる。

 数時間前までは真面目に向き合っていた問いなのに、今は少しだけ滑稽に思えた。


 孤独について書いている自分が自分の孤独に怯え、誰かの気配に救われている。


 カタ、と小さな音がした。


 視線を上げると、女性がスマホを伏せるところだった。

 通知画面が一瞬だけ見える。


『ごめん、もう会えない』


 たったそれだけ。


 けれど彼女がここへ来た理由を、少しだけ理解した気がした。


 閉店まで、残り15分。





 運ばれてきたプリンアラモードを前にしても、女性はすぐには手をつけなかった。


 アイスが少しずつ溶けていく。


 さすがにずっと女性の様子をみているのはまずい。再びノートパソコンに意識を向け、僕は論文を一行だけ書いて、消した。また一行書いて、消した。


 ふと、笑いそうになる。


 この店には、うまくできない人間ばかり集まっている。


 論文が全く進まない僕。

 泣きたいのに泣けない彼女。

 閉店時間を気にしながら働く店員。


 みんな、何かに間に合わなかったみたいだった。


 女性はようやくプリンをひとくち食べると、小さく息を吐いた。


 その表情を見て、僕はなぜだか安心した。


 店員がレジの準備を始める。

 閉店まで、残り10分。





 僕は覚悟を決めて、冷めたコーヒーを飲み干した。


 そして、自分でも驚くほど自然に、こう口にしていた。


「……それ、美味しいですか。」


 女性は一瞬だけ目を丸くした。

 まさか話しかけられると思っていなかったのだろう。


 けれどすぐに、少しだけ困ったように笑う。


「……とっても甘いです。」


 ずいぶん曖昧な感想だった。


 でも、その曖昧さがこの店にはちょうどいい気がした。


 僕は「そうですか」とだけ返して、視線をノートパソコンへ落とす。

 本当は何を聞こうとしたのか分からない。そもそもなぜ声をかけようと思ったんだろうか。ただ気になる、それだけかもしれない。


 どうして泣きそうな顔をしていたのか。

 どうして閉店間際にこの店へ来たのか。


 でも、そんなことを聞けるほど、僕たちは互いを知らない。


 ピアノのBGMだけが静かに流れている。


 本来気まずいこの時間が、不思議と嫌ではなかった。


「……あなたは?」


 不意に、女性が口を開く。


「はい?」


「何してたんですか、さっきから。」


 開いたままの論文。ほとんど進んでいない文章。


 少し迷ってから、正直に答えた。


「孤独について、考えていました。」


 女性はそれを聞いて、小さく吹き出した。


 今日初めて聞く、ちゃんとした笑い声だった。


「…大変ですね。」


 そう言って、女性はまたプリンをひとくち食べた。


 さっきまでほとんど手をつけていなかったのに、今は少しだけ食べる速度が早い。


「お姉さんこそ。」


 僕がそう返すと、女性は困ったように笑った。


 閉店まで、残り6分。





 時間だけが確実に減っていく。


 けれど不思議と、さっきまで感じていた焦りは薄れていた。


 論文は終わっていない。

 明日の予定も変わらない。

 たぶん家に帰れば、また孤独は戻ってくる。


 それでも今だけは、誰かの時間の中にいる気がした。


 店員がBGMを少し落とす。


「まもなく閉店のお時間です。」


 静かな声が、店の中をゆっくり通り過ぎていった。





 女性は最後のひとくちを食べ終えると、満足したように小さく息を吐きこう言った。


「……甘いものは世界を救うね。」


 僕は少しだけ笑う。


「代わりに論文書いてくれますかね。」

「それは無理かも。」


 二人で小さく笑った。


 ほんの数分前まで、他人だったのに。


 女性は会計を済ませると、入口の前で一度だけ振り返った。


「意外と孤独にはなれないんですよ。」


 そう言って、夜の街へ消えていく。


 入口のベルが、小さく鳴った。


 もう閉店時間だ。


 僕はノートパソコンをしまう。


 ――人はなぜ孤独を感じるのか。


 僕の中で答えはもう決まっていた。

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