閉店までの30分
はあ、もう疲れた。
壁の時計は22:30を指していた。
「そろそろラストオーダーになりますが、よろしいですか?」
カウンターの向こうから声をかけられて、僕は慌ててコーヒーをもう一杯頼んだ。あと30分。
それだけしか、この場所にいられない。
隣の席では、スーツ姿の男が分厚い書類を閉じるところだった。窓際では、学生らしき二人がスマホを見せ合って笑っている。みんなそれぞれの「最後の30分」を過ごしている。
なんのためにここにきたんだっけ。
ああそうだ、論文を書き上げないと。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーです。」
さあ残り30分。ラストスパートだ。
気合いをいれたはずなのに、打っては消すを繰り返している。
入店してからもう何杯コーヒーを飲んだんだろう。
だめだ。集中できない。
参考文献は開いたまま。書きかけの文章は三行で止まっている。
こんなの、家でやっても同じなのに。わざわざ閉店間際の喫茶店まで来た理由を、僕はなんとなく分かっていた。
論文執筆は孤独だ。まるでこの世界に自分だけ置いて行かれたような感覚になる。誰でもいいから誰かの時間の中にいたいのだ。
とはいえ進まない。今日はもう諦めるか?
店内のBGMが小さく切り替わる。
聞いたことのないピアノ曲だった。
窓の外では、終電を急ぐ人たちが足早に横断歩道を渡っていく。
みんな誰かの元に帰るのだろう。
そのとき、入口のベルが小さく鳴った。
こんな時間に。
思わず顔を上げると、女性が一人、冷たい夜風と一緒に店へ入ってきた。
何かをぐっとこらえているのだろうか。口を真一文字に結んでいる。
「まだ、入れますか」
閉店25分前。
その人は、どこか時間に置いていかれたみたいな顔をしていた。
店員は時計をちらりと見てから、小さく頷いた。
「23時閉店ですが、それでもよければ。」
女性は「すみません、ありがとうございます」とだけ言って、窓際の席に腰を下ろした。
それだけのことなのに、静かだった店内の空気が少し変わった気がした。
僕は視線をノートパソコンへ戻す。
戻した、はずだった。
けれど気づけば、画面ではなく女性の様子が気になってしまう。
女性はメニューを開いたまま、しばらく動かなかった。
何を頼むか迷っているというより、何かを考え込んでいるように見える。
やがて店員を呼び、消え入りそうな声でこう言った。
「……甘いデザート、ください。」
曖昧すぎる注文に、店員が少しだけ困った顔をする。
その瞬間、僕は少しだけ笑いそうになった。
今日初めて、論文以外のことを考えた気がした。
「では、プリンアラモードはいかがですか。」店員からのおすすめに女性は小さく頷く。
それだけのやり取りなのに、なぜだか耳に残った。
僕は再び画面へ向き直る。
白いカーソルは相変わらず点滅したままだ。
――人はなぜ孤独を感じるのか。
論文のタイトルを見つめる。
数時間前までは真面目に向き合っていた問いなのに、今は少しだけ滑稽に思えた。
孤独について書いている自分が自分の孤独に怯え、誰かの気配に救われている。
カタ、と小さな音がした。
視線を上げると、女性がスマホを伏せるところだった。
通知画面が一瞬だけ見える。
『ごめん、もう会えない』
たったそれだけ。
けれど彼女がここへ来た理由を、少しだけ理解した気がした。
閉店まで、残り15分。
運ばれてきたプリンアラモードを前にしても、女性はすぐには手をつけなかった。
アイスが少しずつ溶けていく。
さすがにずっと女性の様子をみているのはまずい。再びノートパソコンに意識を向け、僕は論文を一行だけ書いて、消した。また一行書いて、消した。
ふと、笑いそうになる。
この店には、うまくできない人間ばかり集まっている。
論文が全く進まない僕。
泣きたいのに泣けない彼女。
閉店時間を気にしながら働く店員。
みんな、何かに間に合わなかったみたいだった。
女性はようやくプリンをひとくち食べると、小さく息を吐いた。
その表情を見て、僕はなぜだか安心した。
店員がレジの準備を始める。
閉店まで、残り10分。
僕は覚悟を決めて、冷めたコーヒーを飲み干した。
そして、自分でも驚くほど自然に、こう口にしていた。
「……それ、美味しいですか。」
女性は一瞬だけ目を丸くした。
まさか話しかけられると思っていなかったのだろう。
けれどすぐに、少しだけ困ったように笑う。
「……とっても甘いです。」
ずいぶん曖昧な感想だった。
でも、その曖昧さがこの店にはちょうどいい気がした。
僕は「そうですか」とだけ返して、視線をノートパソコンへ落とす。
本当は何を聞こうとしたのか分からない。そもそもなぜ声をかけようと思ったんだろうか。ただ気になる、それだけかもしれない。
どうして泣きそうな顔をしていたのか。
どうして閉店間際にこの店へ来たのか。
でも、そんなことを聞けるほど、僕たちは互いを知らない。
ピアノのBGMだけが静かに流れている。
本来気まずいこの時間が、不思議と嫌ではなかった。
「……あなたは?」
不意に、女性が口を開く。
「はい?」
「何してたんですか、さっきから。」
開いたままの論文。ほとんど進んでいない文章。
少し迷ってから、正直に答えた。
「孤独について、考えていました。」
女性はそれを聞いて、小さく吹き出した。
今日初めて聞く、ちゃんとした笑い声だった。
「…大変ですね。」
そう言って、女性はまたプリンをひとくち食べた。
さっきまでほとんど手をつけていなかったのに、今は少しだけ食べる速度が早い。
「お姉さんこそ。」
僕がそう返すと、女性は困ったように笑った。
閉店まで、残り6分。
時間だけが確実に減っていく。
けれど不思議と、さっきまで感じていた焦りは薄れていた。
論文は終わっていない。
明日の予定も変わらない。
たぶん家に帰れば、また孤独は戻ってくる。
それでも今だけは、誰かの時間の中にいる気がした。
店員がBGMを少し落とす。
「まもなく閉店のお時間です。」
静かな声が、店の中をゆっくり通り過ぎていった。
女性は最後のひとくちを食べ終えると、満足したように小さく息を吐きこう言った。
「……甘いものは世界を救うね。」
僕は少しだけ笑う。
「代わりに論文書いてくれますかね。」
「それは無理かも。」
二人で小さく笑った。
ほんの数分前まで、他人だったのに。
女性は会計を済ませると、入口の前で一度だけ振り返った。
「意外と孤独にはなれないんですよ。」
そう言って、夜の街へ消えていく。
入口のベルが、小さく鳴った。
もう閉店時間だ。
僕はノートパソコンをしまう。
――人はなぜ孤独を感じるのか。
僕の中で答えはもう決まっていた。




