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昭和の時代でもあればラーメンやおでんの屋台が道端で営業していそうな町中の夜間。今は人通りは皆無であった。
無人島で飢えに耐えながら歩いているような後ろ姿。長島正道は俯きながら歩いている。
前方に魅惑の果実が。
若者集まる渋谷や原宿でもないこの殺風景な町内で長身、紺のデニムジャケットに短めの黒いタイトスカートを着ている若い女性というのは眼と心を潤してくれるオアシスであった。
長島とその女が交差する。
これで二人は二度と会うことはなかった……とはならなかった。
本当に飢えてしまっていたのか? 長島は背後から女に襲いかかろうとする。
が、女性は見事に鉄拳を繰り出して長島の鼻にお見舞いさせた。手の甲が鼻に直撃して長島は跪く。
「う、うっ」
激痛で麻痺したようにそこから動けない長島。
「警察沙汰にするつもりはない女でラッキーだったね。まぁ、私が個人的な裁量で制裁を下すんだけど」
駄目押しで回し蹴りを腹に加えた。見事なまでに吹き飛ぶ長島。
女の方は格闘技の心得があるように身のこなしが華麗であった。
男と女というハンデがあってもまるで相手になっていなかった。
「これに懲りてもう欲は抑えて道端の女性に手出しはしないことだね。あと女だからって皆んな弱いわけではないこともこれを機にお忘れずに」
長島は地面に落ちたショルダーバッグを拾いなんとか立ちあがろうとする。そこから向かった先は……。
「もしかしてそこがあんたの家?」
裏路地に入ってショルダーバッグのポケットから何かを取り出そうとしていた。
直進すれば闇に紛れた玄関がある。
「馬鹿じゃないの。自分家の目の前で犯罪を犯そうとするなんて」
呆れた女は姿勢良く去っていく。
血が一滴落ちた。長島の鼻からであった。
くらった二発はどれも重く、急所を突いていたのか未だまともに体は動かない。
長島はバッグから物を取り出すことを一旦、諦めたようだ。再び崩れてうつ伏せになる。
鍵を開ける音。玄関のドアがそっと開いた。
「正道さん……どうしたの?」
そのかけ声に応答はなかった。家の中から出て来た眼鏡をかけた女性はひどく震えている。
しばらくの間。
女性は倒れている長島に対して助けるようなこともせず何かを伺っているように見えた。
思い出したかのように中へ入り、今度はリュックを背負い外へ出てきた。
ようやく女性はそこから一歩を踏み出した——長島はうめき声をあげる。
女性はビクッとしながらまた静止するが、その声を振り切るうようにその女性もまたそこから立ち去る。
残されたのは手負いの長島だけであった。
隣の車道では数十分に一度くらいの頻度で車が通る。
障害物は何も無かったが藪の中を抜けるように岩田椿姫は駆けていた。
城壁のようなコンクリートブロックの壁に手を当てて息を整える。これ以上は走れなさそうであった。
「あなた、もしかしてあのクソおやじの家から出てきた人?」
横の階段から下りてきた先ほどの女。その階段の上は公園であった。
「私の名前は瀬谷奏。その、どうして倒れている……家族でいいのかな? を放ってまでしてここまで来たの」
瀬谷は岩田を公園のベンチに誘い話を聞く。
「正道さんに怪我を負わせたのは瀬谷さんなんですか? あっ、私は岩田椿姫と申します」
「つばきちゃんね。ごめんね。でも仕方がないことだと思って。あの男、私に襲いかかって来たから返り討ちにしたまでなの。私こう見えてめちゃくちゃ強いの」
「そうなんですね。……私と正道さんは義理の父親という関係性なんです。母の再婚相手です。婚姻届は出してないんですが。でも母を今年、乳がんで亡くしました……」
「そうなんだ。……あの、嫌なことを聞くけどつばきちゃん。あの男に何かされていない?
人として、ただ路上ですれ違っただけの女性に襲いかかるような男と一緒に暮らしているつばきちゃんを心配しないわけにはいかないよ。ましてや、つばきちゃんとあいつは血は繋がっていないわけだし」
岩田はその問いで決壊したように大泣きする。
「よしよし。辛かったんだね。もしやと思って気にかけていたのが正解だったよ。あんな男に娘でもいたら危ないんじゃないかって」
「母が生きていた頃はありませんでした、つい最近なんです。まだ直接、手を出されたわけじゃないんですけどバレないと思っているのか堂々と就寝中に私の部屋を覗いたり、この前は入浴中に外から覗かれて……」
「最低だね。それで逃げたんだね」
「とりあえず財布と銀行のキャッシュカード、何着かの衣類だけは持ち出してここまで来ました」
「私の家に泊まりなよ。当然、行くあてもないんでしょ」
「いいんですか」
「もちろん」
岩田は天から舞い降りてきたような救世主の登場に、まだ夢現つでまともなお礼もできずに瀬谷の自宅前へ到着する。
「なんで私にそんな優しくしてくれるのですか。今日、初めて会ったばかりなのに」
「それも含めて私のこと話すよ。とりあえず中に入ろう」
庭付きのオシャレな一軒家。錆びた、古臭い家が建ち並ぶ狭い裏路地にある岩田の自宅とは雲泥の差である。
「一人暮らしですか?」
「そう。だから気を遣う必要はないよ」
リビングへ通されると瀬谷はティファールのボタンを押して湯を沸かす。
「紅茶とコーヒーどっちがいい?」
「では紅茶で。あの、一人暮らしなのにこんな二階建ての広いお家に住んでいるのですか?』
「仕事場も兼ねているから。主に生活しているのは二階かな。プライベートで一階を使うのはお風呂に入るのとご飯を食べる時くらい」
どんな仕事をしているのかは想像するしかないが同じ女性で、歳も同じくらいでも自立している上に高水準の生活をしている。
自分とここまで差があることには劣等感も沸々とわいきたのか貧乏揺すりをする岩田。
瀬谷はジャケットを脱ぐと下は白のタンクトップであった。
カールのかかったロングヘア、スタイル抜群、男性が理想とするような美人であることが改めて露わになる。
「新宿の歌舞伎町とかに行くともっと短いスカート穿いた人とかいるよね」
「そう、ですね」
「自分で言うのもなんだけど、きっとつばきちゃんも少なからずそういう視線で見ていると思うけど別にこんなに肌を露出させなくても、色気ない服装でも私、木みたいにぼーっと突っ立っているだけで男が寄ってくるの。マスクをしていても。美女に群がる男って光に集まる習性がある虫みたいだよね」
「でしょうね。そこにこんな格好されたら大抵の男性は興奮しますよね」
「つばきちゃんも眼鏡外してしっかりメイクすれば同じようになると思うけどな」
「いえ、私はそんな」
「もっと自信持って。あっ話が逸れちゃったね。そんなわけで私、男に困ったことないの。大体の男は初対面でイチコロにできる。そうなってくると、選び放題でわけでありまして……付き合うとしたらどんな人が良いかなって考えると、私より強い人がいいかなって思ったの」
私より強い人——
そのハードルは思った以上に高いであろうと岩田は直感的に思った。
「瀬谷さんはどんな武術を、どのくらい訓練しているのですか?」
「もう、そういうことじゃなくて。格闘が強ければ良いってことじゃないんだけど、男って好みの女性には俺が守ってやる、俺がいないと駄目だなとか支配欲が強い、どこか上から目線じゃん。
それがどうも気に入らなくて。私、あなたがいなくても自分の身は自分で守れますけど、みたいな態度を取っても屈しない人が良いかなって。経済的にも強くなったのはそのため。女は玉の輿で一発逆転があるとかどうしても男に頼ってしまう側面から脱却したかったの」
「なんか自ら厳しい道を選んでいますね。その美貌さえあれば会社の社長だって射止められそうなのに」
「そんなセレブになっても結局、虚しさしか残らない。自分の力で手に入れたものじゃないし。それよりも自分磨きに徹して、そんな私に共鳴してくれる人が良いのかな」
「まだ現れていないのですか」
「そんな人を待っていたらいつまで経っても付き合えないかもってそろそろ思っている」
「ふふっ」
完璧主義者の悩みを聞いて吹き出す岩田。空気が緩む。
「理想な人はなかなか現れないけど、女性ってだけで弱い立場になってしまう社会に反抗するって目的で浅はかな思考で手を出す男をやっつけたり、酷い目に遭っている女性を自分ができる範囲で手助けもしている、今日もその一環。こうして家に招き入れたのは初めてだけど」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる岩田。ようやくお礼が言えた。
「気にしない気にしない。つばきちゃんさえ良ければ期限なんて設けずにここに居ていいからね」
「それはいくらなんでも申し訳ないです」
「じゃあまたあいつの居る家に戻るの? 無断で家出もしちゃったし部屋を借りるにしてもまだそんな余裕はないでしょ」
「そうですね……」
「仕事はしているんだ?」
「はい。駅前にある個人で経営している小さな喫茶店でアルバイトですけど働いています」
「辞めた方がいいんじゃない? いずれあいつがやって来そうじゃない」
「そんな。せっかく働きやすい職場なんです。駅前にあるってだけで正確な場所は教えていないですし……そんな直ぐには見つからないかと思います」
「でも駅前の喫茶店っていう情報さえあれば、あちこち探して順に潰していけば鉢合わせる確率はどんどん高くなる。なるべく早く辞めるべきだよ」
「辞めた後は私、どうすればいいのですか? また新しい職場を探すのも時間がかかります」
「辞めた後は私のアシスタントとして働けばいいよ。ちょうど事務作業とか手伝ってくれる人を一人くらい欲しいと思っていたの。あっお湯沸いたね」
席を離れる瀬谷。岩田はそんな美味しい話ならそれに甘えたい欲で胸が一杯になりつつある。
「はい、どうぞ。在宅勤務になればあいつとばったり会うことも無し、良いこと尽くめじゃない」
「ありがとうございます……」
啜り泣く岩田に頭を撫でる瀬谷。
カーテン越しから見える町の微かな灯りに岩田はあの谷底から脱出できた心地になった。
あそこからではこんな風に町を眺めることはできない。




