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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

朝4時のクロワッサン

作者: 枯れる苗
掲載日:2026/02/13

その目は私を見ていなくて、それで、あぁ、それで今になって、ようやく、ようやく呆然と天井を眺めている。目が覚めてから今に至るまでの時間はもう私の記憶になくて、徐々に失われていく右手の熱がたしかに時間の経過を示している。私とあの言葉を隔てる時間がまた少しずつここに生まれていく。掛け布団の上にだらりと右腕を落として、目に滲む涙の予感を不思議と感じていた。

何の話だったか、とにかく悲しいことばかりを覚えている。猛暑で枯れた黄土色のススキは一体誰の為に生まれてきたのだろう。湧き出る言葉一つ一つを大切に聞いて、そしていまひとつだって思い出せない。誰の言葉かさえ分からなくなってしまった。

もう何も思い出せなくていい。人は忘れて生きていく。忘れる機能が私を未来まで生かしてくれるのだ。

晴れた午前にはパン屋に行こう。それから、まだ全然ススキの時期じゃない公園を横切って、青々茂った草木の中で今日の朝生まれたばかりのパンを食べるんだ。そうすれば私は幸せだ。新鮮な私に生まれ変わって、全てなかった私に成り代わる。

自転車を漕ぐ足は重く、長い長い坂道の上に小さなパン屋が看板を慎ましく構えている。匂いはもう漂ってくる。歩くよりずっと重たい一歩がそれはそれで私を楽しませる。歩けばひとつ未来が見えて、進めばまたひとつ違う世界に踏み出せる。

小麦の焼けた良い匂いが小さなカウンターの向こうから流れ込む。ショーケースに並ぶ小さなカゴには、磨き上げられた美しいパンが飾られていた。大きく息を吸えばきっとその子達が驚いてしまう。両手を広げるのがやっとの店内の真ん中には、ケーキの様なクリームの乗ったパンが集められていて、それを囲うように四方の窓際には三段もパンが並べられている。

「綺麗なクロワッサンですね。今日焼いたんですよね」

「ありがとうございます。えぇ、本日の朝四時に焼き上がりましたよ」

「焼きたてのパン、好きなんです。本当に新鮮なものってパンだけだと思って」

「あら、パンは新鮮かしら」

お姉さんは少し不思議そうに私を見た。私は初対面の面々を前に滅多なことを言いたくなかったものだからとにかく笑って誤魔化した。

 世の中で新鮮なものはパンだけだ。死んだものは新鮮なんかじゃない。今、ここで生まれた美しい存在こそ新鮮なんだ。だから焼きたての新生児こそが新鮮で、汚れてなくて、澄み切っているんだ。死体なんか、新鮮なものか。

 坂道をゆっくり降る。クロワッサンとデニッシュが揺れる度に私の心を掻き乱すからだ。壊れて、崩れてしまったら私はきっと愛せない。小石を避けようとすればハンドルを取られ、いつの間にか大きな揺れとなりあの子達を襲う。私が抱えて持って帰ってしまいたい。デニッシュの上に添えられたいちごのジャムがビニール越しに目に付いた。ダメ、死なないで、私の新鮮な君で居て。

 公園に着いた。私は、何があればこの景色を好きになれるだろうか。なんて事ない日常にある、なんて事ない空き地。水路が横を通っていて、小学校の頃は何度か楽しみに来た気がする。ススキもなんだか血色が悪くて、やっぱりあなたもここで死んでいたのねって感じ。なんのためにここへ来たのかも忘れてしまった。

 ビニール袋を開いて、少しだけ傷付いたクロワッサンを取り出す。バターの匂いが溢れ出して、手に皮が着く。唇で外側の硬い感触を確かめて、十分に楽しんだら歯を当てる。硬さなんか無かったみたいに砕けて、内側の柔らかい部分が露になる。ここでようやく私は存在を、生命を口にした。新鮮な朝を身体にひとつ取り込むのだ。舌の上に乗るのは甘い甘いバターの味。

 風が吹いて、私の髪を掻き上げる。その向こう側に揺られるススキが私の方を見ないあの子を映し出した。

「私、そんなに嫌な子?」

 あの子は新鮮だった。こんな田舎には似合わない透き通るほど綺麗な白い肌は長い睫毛と赤みがかった形の良い鼻を際立たせる。華奢な指先は教室のカーテンに隠されて、時々見える鋭い聡明な瞳が町中の憧れだった。

「嫌よ、私の友達でいるにはそんなに綺麗じゃなくっていいのよ。アンナであればそれで私は充分好きよ」

まだ中学二年生なのにね。私もあなたも、深く考え過ぎていた。

「私、別に貴方の友達でいるために生きてるわけじゃないのよ」

あの子の目は私を見なくていい。本当に軽く、なんてことなく返すから、私は安心してあなたと話せる。あんな真っ黒で深い海の水面を覗いたら、その後はきっと真っ逆さまに落ちてしまう。でもね。

「私、そういえば、この後帰る約束してたの」

私許せないの。

「誰と?」

「いとう先生」

新鮮なものが汚されるのは――。


「嫌な子よ。もうとっくに新鮮じゃなかった癖に」

蝉の声はようやくここまで届いて、やはり猛暑で枯れたすすきは死んだ体を揺らしていた。あの中の一本に、きっとアンナが居るのだろう。伊藤先生に散々振り回された貴方は、もう私の大好きなアンナじゃなくて、あぁ、そういえば、さっきのデニッシュ。捨てなければ食べれたのね。


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