【同級生】
雨は止まない。
細かい針のような雨が、音もなく窓ガラスにあたり、ゆっくりと伝い落ちる。
店の中の暖房が、湿った空気を重くしている。
高木はコートを脱ぎ、カウンターの端に座る。
肩が落ち、背中が丸まっている。
45歳。
長年続けている設計業務の負担が、背骨に食い込んでいるようだ。
隣に桑原が滑り込む。
ネクタイはもう解け、シャツの襟がくしゃくしゃだ。
バスのハンドルを握り続けた手の指は、節くれ立ち、関節が白く浮き出ている。
「…どうだい、景気は」
高木の声は、低く穏やかだった。
桑原は灰皿に煙草を置く。火はつけていない。
「…もう、限界だよ。客は遅れれば怒鳴り、揺れれば睨まれ、ちょっと強めのブレーキを踏めば人身事故扱いだ」
「ブレーキを踏んだだけで人身事故?」
「立って乗っていた乗客が、ブレーキをした時に転倒することがあるんだ、それは事故扱いになって証明書を発行しなきゃならなくなる」
「何のための証明書?」
「転倒した人が、病院に行って治療してもらう為の証明書」
バーテンが、無言で二つのショットグラスを置く。
「人身事故扱いになるから、病院に通院した日数分だけ保険からお金が出るんだ。だから、痛くもないのに通院し続ける奴が居るんだ」
「そんなの、医者が見ればすぐわかるのでは?」
「いや、患者が痛いと言う限り、治療を終了できないのが今の医療のルールらしい。保険屋も困ってる。」
「ひでーなぁ」
「それで結局は運転手の評価が下がるんだよ。……まともな奴は、みんな辞めてく」
高木が小さく頷く。
「うちもだ。新しい炊飯器を設計しても、お客は中国製の安物にしか目がいかない。まともな設計は、評価されない。物が溢れすぎて、何が欲しいのか……誰も分からなくなってる」
バーテンが、透明な液体を注ぐ。
ウォッカ。
アルコール度数70%。
店の薄暗いランプで、どこまでも透明なウォッカの影が、静かに宝石のように揺れる。
客は二人だけ。
カウンターに並び、初老のバーテンと向き合う。
「マスターも一緒に、一杯やろうか」
「いつも、ありがとうございます。」
バーテンも、自分のグラスに注ぐ。
「乾杯、でいいのかな?……」
高木が、グラスを少し持ち上げる。
「乾杯でいいんじゃない?」
桑原の声は、少しかすれている。
「乾杯」
三人は、ゆっくりとグラスを傾ける。
このbarは、高木の行きつけの店だ。
そこに、桑原が来るようになったのは、2年前からだった。
ウォッカは高木には強すぎる。
舌の上に、少しずつ、そっと置くようにして飲む。
気化して鼻腔を抜ける。
古いジャズのサックスが、店の中に、ため息のように漂う。
薄暗い空間に、様々な銘柄のボトルが並んでいる。
「あいつ、こんな強い酒……よく飲んでたな」
高木の声が、途切れる。
「ロシアの夜は、これがなきゃ凍え死ぬって……日本の湿気じゃ、味が死ぬって、いつも笑ってた」
桑原が、グラスの淵を指でなぞる。
今日は、塚本の命日だった。
「あんなに男前だったのに、結局最後まで独身だったんだな」
「彼は、硬派だから」
「喧嘩も強かったよな」
男たちは工業高校の同級生だった。
「あいつ、自分で硬派を名乗りながら、最初に彼女作ってたよな」
工業高校は男子校だ。
機械好きが集まっているので、当然の様にバイクに興味を持つ。
卒業して、同級生たちでバイクのツーリンググループを作った。
「あいつ、バイクと言う乗り物は一人で乗るものだ とか言ってたのに、タンデムで走っているところを見た時は、衝撃的だったよ」
「その話し、いつ聞いても面白いけど、あれだけの男前だから、当たり前というか納得できちゃうんだよな」
あの二十歳の夏。
仲間とのツーリングの帰り道で、桑原が見た。
あいつが、女の子をタンデムに乗せて、夕陽の中を走る姿。
風に髪がなびいて、笑っていた。
楽しそうなカップルのバイクが、今でも胸に刺さっている。
「でも、その娘だよな、同僚の友達に取られたっていうのは」
「酔っぱらった状態でバイクで事故を起こして、生死の境を彷徨ってたこともあったよな」
「あの時は、大変だったな」
高木が、目を伏せる。笑おうとした唇が、歪む。
塚本は、工業高校の同級生の中で一番の男前で、極真空手の黒帯で、スマートで、硬派だった。
そいつが死んだ。
三年前。
四十二歳。
半年後、妹からの年賀状の返信で知った。
自宅に行くと、八十を超えた父親が、ひとりで暮らしていた。
仏壇の前に案内され、線香を上げたとき、父親の声が小さく響いた。
「あの子は……心が、弱い子だったから」
あいつは、飲酒運転の事故のあと、その会社を辞めて、飲料品製造業の「ナインアップ」に転職した。
ナインアップでライン長として働き、持病を抱える父親の介護をしながら、黙って生きた。
年老いた父親から、最後の年の出来事を聞いた。
ナインアップは業績不振で工場の統廃合が行われ、あいつの職場は廃止された。
会社は、代わりの職場として滋賀への転勤を命じた。
あいつは、父親を置いていけず、退職した。
「そんなことになってたなら、相談してくれりゃ……よかったのに」
桑原の目から、涙が一粒、ぽたりと落ちる。
「俺たち……勝手に、カッコいいって……凄い奴だって……押し付けてただけなんじゃないか」
長い沈黙。
静かに、Jazzが流れ続ける。
「もう一杯、同じのを」
桑原が、グラスを差し出す。
ウォッカが注がれる。
高木は、また少しずつ、舌に乗せる。
美しいく、強い酒だ。
――あいつみたいな酒だな。
少しずつ飲み進めると、体の芯が熱くなる。
そこに、あいつがいる。
20歳の夏、バイクを飛ばす颯爽とした背中。
女の子を乗せて、珍しく笑っていた。
そして、最後まで誰にも見せなかった、心の弱さ。
長い付き合いだったのに。
俺たちは、本当のあいつを、一度も見ていなかったのかもしれない。
高木と桑原は、目を閉じる。
遠くで、若い日のエンジン音が響く。
ウォッカを、もう一口。
喉が焼ける。
雨は、まだ降り続けている。
店の中の灯りが、ウォッカのグラスに揺れて、静かに、静かに、涙のように光る。




