【ドラッグレース 本戦】
午前の空気が少しずつ温みはじめた頃、場内放送が響いた。
「これより、オープントーナメントクラス予選を開始します」
青年はパドックの片隅で、ヘルメットを脇に置いたまま、その声を聞いていた。
同時に、ストッククラスの予選結果も掲示板に張り出される。
予選トップ――11.5秒
自分の名前の横には、12.5秒 と記されていた。
数字を見た瞬間、青年は無意識に400メートルの直線を思い浮かべる。
ゴール地点の速度は、およそ250km/h。
そこでは、1秒の差が約69メートルにもなる。
「……そんなに違うのか」
改めて距離に換算すると、その差は想像以上だった。
だが、不思議と悔しさは湧いてこない。
――勝つために来たわけじゃない。
そう思うと、その差すらも、どこか他人事のように感じられた。
場内放送は、さらに賑やかさを増していく。
オープントーナメントクラス、優勝候補の予選走行が始まるのだ。
黒い車体。
黒いフルフェイス。
革ツナギは、手足が白く、膝から胸にかけては黒。
そこに、様々なメーカーのロゴが無数にプリントされている。
車両は隼。
スイングアームは延長され、直進安定性を徹底的に追求した仕様だった。
ライダーはバーンアウトエリアに進み出る。
アスファルトの上には、車両の二倍ほどの長さの専用のプレートが敷かれている。
フロントタイヤが乗る位置には、滑り止め加工が施されている。
ライダーは両足を地面につけ、わずかに腰を浮かせた。
フロントブレーキをかけ、軽くエンジンをふかし、クラッチをつなぐ。
――白煙。
ほんの一瞬。
1秒も経たないうちにバーンアウトは終わり、二台のバイクが静かにスタートラインへ着く。
スターティングツリーの最初のランプが灯る。
エンジン回転数が一斉に跳ね上がる。
黄色。
そして、すぐにグリーン。
――爆発。
二台は、強烈な加速で射出された。
両足を地面につけたまま走り、シフトアップの瞬間にステップへ足を乗せる。
「あぁ……」
青年は、思わず声を漏らした。
「両足を下ろしてスタートするのが、正解なのか」
予選二本目。
スタート直後、エンジンが一気に吹け切り、車体がよろけるように蛇行した。
あの違和感の正体が、今になってはっきりと分かる。
片足立ちでは、車体が完全に垂直にならない。
だから、暴れたのだ。
掲示された隼の予選タイムは――9.9秒。
「……すごいな」
素直に、そう思った。
昼休みになると、会場の空気は一気に和らいだ。
キッチンカーのラーメン屋と丼屋に、長い列ができる。
トランポで車両を運んできたライダーたちは、車の周りに机と椅子を並べ、談笑しながら食事をしている。
青年は、自走で来ていた。
一人でコンビニのおにぎりを食べながら、楽しそうな輪を少し羨ましく眺めた。
そして午後。
本戦が始まった。
プロスクータークラスは、距離200メートルでレースが行われている。
場内放送で選手が紹介され、ひときわ大きなエンジン音とともにスタートしていく。
青年は、自分の番が近いことを感じ、準備を始めた。
ストッククラス。
スタート待ちの車列に並ぶ。
全体の、ちょうど真ん中あたり。
――次は、クラッチのことを考えない。
――「全開」で行こう。
そう決めていた。
次々とバイクがスタートし、ついに青年の順番が来る。
「さぁ、いよいよだ」
バーンアウトエリア手前で、スタッフが手振りで問いかける。
――水分、使う?
青年は、首を横に振った。
バーンアウトエリア。
白煙が立ち上る。
タイヤが削れていく感触に、少しだけ胸が痛む。
このバイクは競技専用ではない。
通勤にも、ツーリングにも使う、大切な相棒だ。
スタートラインへ。
隣は、ZX-14R。
ミッションを二速に上げ、両足で車体を垂直に保つ。
深呼吸を一回。
スターティングツリーの最初のランプが灯った。
ブァァァァァァァァ――
5000rpmで、回転数をキープする。
黄色。
そしてグリーン。
バォォォォォォォォォォ――!
回転数を7000rpmへ。
半クラッチで、踏み出す。
グン――。
2速発進のフル加速だ。
強烈な力で、身体が後方へ引きちぎられる。
少し伏せた姿勢でも、振り落とされそうになり、腕に力が入る。
時間が、スローモーションになる。
バウォォォォォ――。
回転数が、わずかに落ちた。
青年は、完全につないでいたクラッチを、指先でほんのわずか引き戻す。
ウォォウォウォォォォォン!
クラッチをシャクリ、パワーバンドをキープしたまま、加速を最大に引き出す。
フロントの接地感が消える。
予選とは、まるで別次元の加速。
これは、制御下にある車両に乗っている感覚ではない。
発射されたミサイルに、必死でしがみついている様な状態だった。
一瞬よぎる不安と、圧倒的なパワーへの高揚感。
それが、胸の奥で交錯する。
世界から色が消えた。
モノクロになる。
メーターは見れない。
頼れるのは、エンジン音だけ。
何キロ出ているのか、もう分からない。
視界が狭まり、トンネルの中を走っているようだ。
もう一速――。
そう思った瞬間、すでにトップギアだと気付く。
フワァオォォォォォォォォォォォォォン
同時に、ゴールを駆け抜けた。
アクセルを戻し、減速。
クールダウン。
首と肩が、ガチガチに固まって痛む。
ヘルメットを脱いでも、頭の中がチリチリと痺れていた。
本戦タイム――10.9秒。
無事に走り終え、ようやく緊張が抜けていく。
その時、青年は奇妙な痛みに気付いた。
頭痛というより、「脳が痛い」。
後頭部の奥が、ズキズキとする。
「……Gの影響、か?」
ストッククラスの優勝者は、10.7秒。
「……けっこう、いい線いけたんだな」
そう思う気持ちと同時に、
――あれより速い人が、いるのか。
という純粋な驚きが湧く。
オープントーナメント優勝は、9.8秒。
その差に、青年はこのスポーツの面白さを感じていた。
「すごいな」
本気で踏み込むほどに、深くなる。
青年は、静かにVmaxのタンクに手を置いた。
――また、全開で走りに来ような ――。
相棒に、そう語りかけた。




