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バイク小説 短辺集  作者: 霧笛の火魔人


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13/15

【記憶】

わたしは、記憶喪失になったことがある。


実際になってみて分かったのは、ドラマや小説に登場する「記憶喪失者」が、いかに現実離れしているかということだった。


あんなふうに都合よく、過去の自分だけを忘れたり、性格まで別人のように変わったりすることはない。




記憶喪失状態にあった当時のわたしは、自分では「普通に行動できている」と思っていた。


ところが周囲の人たちは、口をそろえて言うのだ。


「おまえ、なんか変だぞ」



記憶を失った原因は、モトクロスレースでのクラッシュだった。


雨天のレースで、わたしはトップを走っていた。



雨を予測して用意したマディー用タイヤが、これ以上ないほど仕事をしてくれていた。

二位以下には大差をつけ、完全な独走状態だった。



ライバルたちが滑る路面に苦戦する中、わたしだけがドライコンディションと変わらない感覚で攻めていた。



ギャラリースタンド前の巨大なジャンプ。

モトクロッサーはウィップした姿勢のまま空を切り、――着地でハイサイドを食らった。



頭から路面に叩きつけられた。

……らしい。


「らしい」と言うのは、その記憶が、わたしにはないからだ。



事故のあと、自分が記憶喪失だと自覚したのは、事故当日から前一週間ほどの出来事が思い出せないことに気付いたときだった。


変だな、と思いながら生活を続けていると、今度は事故後の一週間ほどの記憶も抜け落ちていることに気付いた。


前後あわせて二週間分の記憶が、きれいに抜け落ちていた。



それでもわたしは、普段と変わらない生活を送っていた。

職場では、極めて高度な専門職の作業を、何事もない顔で続けていた。



ただ、不思議だったのは、あの雨天レースのクラッシュだ。

人から状況を聞けば聞くほど、過去のレースで経験した出来事と、驚くほどよく似ていた。



もっとも、レースではよくある話だ。

「またやっちまったか」

その程度にしか考えていなかった。




あれから、すでに一年以上が経っている。


ある日、突然、記憶が戻りはじめた。


「過去にも同じ経験をした気がする」と思っていた出来事が、実はその事故当日のことだったと気付いたのだ。


続いて、事故の前後の日々の記憶も、少しずつ輪郭を取り戻していった。


それは「記憶が戻った」という感覚とは少し違った。

「記憶がなかった」のではなく、「それがその日の出来事だったと気付いた」――そんな感覚だった。


記憶は確かに存在していた。

ただ、それが「いつの出来事か」を思い出せなかっただけなのだ。



脳の働きは、パソコンに非常に似ている。


パソコンはハードディスクに記憶(データ)を保存していて、いつでも呼び出せる。

これを脳の働きでは、長期記憶と呼び、長期記憶の保存は大脳皮質全体で行っている。


パソコンはメモリーに作業中の記憶(データ)があり、保存せずに電源を切れば、メモリーの内容は失われる。

これを脳の働きでは、短期記憶とよび、短期記憶は脳の前頭前野で一時的な保持をしている。

分かりやすく、作業記憶と呼ぶこともある。


パソコンでは、ハードディスクにランダムに保存されたデータを、どの順番でつなげて使うかを記録したインデックスがある。

これを脳の働きでは、海馬で「出来事を並べる」「順番を付ける」作業、つまりインデックスを取りあつかっている。※厳密には海馬単独の作業ではない。


つまり、記憶喪失とはインデックスが壊れている状態だ。


記憶そのものは消えていなかった。

ただ、取り出すための手がかりだけが、壊れていたのだ。


今でも、頭を打った瞬間の前後十秒ほどの記憶だけは戻らない。

おそらく短期記憶が長期記憶へ移行する前に、強い衝撃で消えてしまったのだろう。


パドックでモトクロス仲間と、「脳の働きって不思議だよな」と話していたときのことだ。


「たしか、五年前にも同じような記憶喪失になってたよね」

そう言われた。


そうだ、わたしの記憶喪失は、これが初めてではない。


以前は事故の前後一週間ではなく、前後一日分だけだった。

どのくらいの期間のインデックスが壊れるかは、衝撃の強さや状況次第なのだろう。


仲間が、冗談めかして言った。


「それ、後遺症出てるじゃん」


「十秒分の記憶がないだけで、後遺症なんてないよ」


そう反論すると、仲間は肩をすくめた。


「怖い記憶がないから、モトクロスを続けて、またクラッシュしたんでしょ?

同じこと繰り返してるのが、もう後遺症だよ」


た……たしかに。

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