【ファイヤースターター】
1. 孤高の庭
山道は、標高を上げるごとに冷気を孕んでいった。
ホンダ・XLR250バハの空冷単気筒エンジンが、心地よい排気音を山肌に反響させる。
巨大な二灯の丸形ヘッドライトが、薄暗くなり始めた杉林の奥までを白々と照らし出していた。
今日は土曜なのに、昼まで仕事をしていた。
その後に出発したので、到着はこんな時刻になってしまった。
四十八歳になった。
山本は、ヘルメットの中で小さく息を吐く。
家電メーカーの設計開発部でエンジニアとして新製品の開発を行っていた。
今は新型ジューサーミキサーの開発をしている。
知らない者が聞けば、花形の仕事の様に感じるが、実際は泥臭い調整に追われている。
ユーザーに害がないように安全設計。コストは他社より安く。営業からは新機能のリクエスト。製造のための部署間の調整。
ミリ単位の図面と格闘する日々から逃れるように、彼はこの週末、標高1000mを超える山中のキャンプ場へと愛車を走らせた。
到着した「星降る渓流キャンプ場」には、人影がなかった。
森の清流沿いに切り拓かれた十区画ほどのサイト。
管理室の窓には「本日の受付終了。予約の方はご自由に。薪は使い放題です」という、手書きの無造作な看板が立てかけられている。山本は、到着が遅くなることを電話で伝えていたので、安心して帰宅したのだろう。
「貸し切りか……」
山本はバイクを止め、サイドスタンドを立てた。
薄緑色の丈夫なカーゴパンツに、鼠色の長袖シャツ。
その上に羽織った、白い反射ラインの入った黒いライダージャケットが、夕闇に沈む森の中でわずかに光を跳ね返す。
オートキャンプ不可のこの場所では、バイクをサイトに乗り入れられること自体が贅沢だった。
彼は清流に最も近い区画を選び、手慣れた手つきで一人用のドーム型テントを設営した。
傍らには、相棒であるバハが、泥に汚れたアンダーガードを誇らしげに見せて佇んでいる。
ここは直火禁止だ。
山本は使い込まれたステンレス製の焚き火台を取り出し、地面を傷めないよう注意深く配置した。
2. 最初の火種
空は群青色へと溶け込み、森の境界線が曖昧になっていく。
山本は、管理舎の脇に積まれていた杉の薪を数本運び、ナイフで細く削って「フェザースティック」を作った。
エンジニアらしい、几帳面な削り跡が木肌に並ぶ。
焚き火台の隅には、あらかじめ解しておいた麻ひもの繊維をひとつかみ置いた。
彼は、ポケットから一本の金属棒を取り出す。
ファイヤースターターだ。
現代のキャンプにおいて、ライターやバーナーを使えば火など一瞬でつく。
だが、あえて不確定な「摩擦と火花」の儀式を求めていた。
右手のストライカーで、左手のマグネシウムの棒をゆっくりと削り取っていく。
マグネシウムの粉は解しておいた麻ひもに振りかける。
5回削った。
改めて、ストライカーを鋭く擦り下ろす。
パシュッ。
鮮烈な白い火花が飛び散る。
バチバチバチ
溜めてあったマグネシウムの粉が一気に燃え、火花が麻の繊維を焦がす。
細い煙が立ち上がり、小さなオレンジ色の点が生まれた。
山本は顔を近づけ、生まれたばかりの赤ん坊をあやすように、優しく、長く息を吹き込んだ。
「……育て」
火種になった解した麻ひもを摘まみ上げ、
ステンレス製の焚き火台の中心においてある麻紐の塊に沿える。
手でパタパタと煽ると、ゆらりと、炎が立ち上がった。
つぎに燃えている麻紐の塊にフェザースティックを重ね、薄い木片へと熱が移る。
パチパチとはぜる音が、渓流のせせらぎと混ざり合う。
山本は、細い枝から順に、慎重に薪を組んでいった。
3. ささやかな祝宴
すっかり周囲は暗転した。
街灯りの一切届かないこの山中では、焚き火の光だけが世界を規定している。
山本はライダージャケットのジッパーを下げ、暖かな炎に手をかざした。
夕食の準備に取りかかる。
といっても、大げさな料理をする気はない。
バックパックから取り出したのは、太いフランクフルトと、地元のスーパーで買ったパンだけだ。
焚き火の炎を利用し、串に刺したフランクフルトを炙る。
じりじりと脂が浮き出し、炎に滴り落ちるたびに「ジュッ」と景気のいい音が響く。
煙の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、胃袋が急に自己主張を始めた。
「いただきます」
熱々のフランクフルトを頬張る。
皮が弾け、濃厚な肉汁が広がる。
高級レストランのコース料理よりも、今の自分にはこの一切れがふさわしい。
ソロキャンプとは、不便を買いに行く遊びだ。
厳選した最低限の荷物をバイクに積み、寒い思いをして外で寝る。
だが、その不便さというフィルターを通すことで、喉を通り過ぎる水の冷たさや、火の有り難みが、驚くほど鮮明に浮かび上がってくる。
「……ミキサーのスイッチも、こういう『手応え』が大事なんだよな」
ふと、仕事のことが頭をよぎる。
今開発しているジューサーミキサー。
営業サイドからは「いまは静音ミキサーが求められているんだ、もっと静かに、他社より1dBでも低く」と要求されている。
そこで、音を測定すると、始動時の騒音が最大音量だと言うことが分かった。
カッターやカップの形状を工夫しても、その騒音はたいして変わらない。
回転数を減らせば音は下がるが、粉砕性能が下がる。
モーターの種類を変えてしまえば、音は下がるが、コストが大きく上がる。
開発チームの相棒が、「低回転モードなら他社より静かなのに」と愚痴る。
何を進めるにも、うまくいかない事はあるものだ。
世の中はストレスが実に多い。
でも、キャンプではそこを楽しんでいる。
ガスバーナーで一瞬でお湯を沸かす効率性もいいが、こうして火を育てるプロセスにこそ、人間としての「手触り」がある。
4. 思考の澱
食後、山本はチタンカップを取り出した。
サイドバッグに忍ばせてきた、琥珀色のブランデーを注ぐ。
焚き火の熱でわずかに温められたカップを口に運ぶと、芳醇な香りが鼻に抜け、喉の奥が熱くなった。
炎を見つめる。
火は刻一刻と形を変え、二度と同じ揺らぎを見せない。
「山本さん、スイッチを入れたら回転数が徐々に上がるようにマイコンでコントロールしましょう」
数日前、会議室で浴びせられた相方の開発者の言葉が蘇る。
「その設計じゃコストが合いませんよ」
「安全装置にコストをかけすぎです。他社はもっと簡略化してます」
山本は反論した。
「ジューサーの刃は、一分間に数千回転する。万が一、蓋が開いた状態で回れば大事故になる。エンジニアとして、そこだけは譲れない」
会社という組織の中にいると、どうしても数字や効率という大きな波に呑まれそうになる。
自分が何のためにモノを作っているのか。
誰を幸せにしたいのか。
そんな根本的な問いが、都会のノイズの中ではかき消されてしまう。
だが、この火の前では嘘がつけない。
火を疎かにすれば消える。
薪を適当に投げ込めば煙る。
自然は常に正直だ。
「……間違ってないよな」
独り言が、パチッと爆ぜた火の粉と共に夜空へ吸い込まれていった。
見上げれば、満天の星。
街では決して見ることのできない、圧倒的な密度の光。
ブランデーを一口飲み、背後のバハに目をやる。
三十年以上前の古いバイクだ。
流石にあっちこっち痛んではいるが、その不器用なまでの力強さが、山本は好きだった。
自分が手を入れれば、それに応えてくれる。
5. 炎の記憶
夜が深まるにつれ、渓流の音がいっそう大きく聞こえてくるようになった。
管理人が帰った後のキャンプ場は、完全に野生の領域だ。
時折、森の奥でパキッと枝の折れる音がする。
鹿か、あるいは別の動物か。
かつて、若かった頃の自分はもっと焦っていた。
早く出世したい、画期的な発明をしたい、大きなプロジェクトを回したい。
だが四十八歳になり、こうして一人で火を囲んでいると、人生において本当に必要なものは、案外少ないことに気づく。
一晩を越すための小さなテント。
寒さを凌ぐための炎。
そして、明日を走るための少しのガソリン。
「シンプルでいいんだ」
ジューサーミキサーの設計変更案が、頭の中で形を結び始める。
複雑な電子制御で縛るのではなく、物理的な機構にしよう。
スイッチをボタン式のハイ・ロー・ストップではなく、ダイヤル式にすれば解決する。
ダイヤル式でストップ・ロー・ハイに並べれば、ユーザーはストップ状態の次は必ずローに入れることになる。
最大音量となる始動時の音量はローの音になるわけだ。
これで、安全性を削る事なく、製品の騒音を下げることが出来る。
さらに、逆にダイヤルを回すとフラッシュになる様に・・・・
仕事の事を考えるのは終わりにしよう。
せっかく、静かな夜なのだ。
目の前には、壮大な天体ショーが広がっている。
薪が最後の一本になった。
それを火の端にくべ、山本は最後の一口のブランデーを飲み干した。
身体の芯まで温まっている。
火が少しずつ小さくなり、オレンジ色の熾火が宝石のように輝いている。
彼は立ち上がり、一度だけ深く伸びをした。
清流のせせらぎが、子守唄のように絶え間なく続いていた。




