【潮風の夜に】
青年は、明石海峡大橋をバイクで渡っている最中だった。
尼崎の自宅から阪神高速神戸線を走り、湊川ICで下りて国道2号を特に目的もなく明石方面まで走った。
明石海峡大橋が見えた時、
――神戸って、そう言えば海に面した港町なんだな...。
と思った。
衝動的に渡りたくなり、再び高速に上がった。
すでに日没が近かった。
橋の上を走ると、眼下に広がる海がオレンジ色に輝いている。
橋は車線が広く、とてつもなく長く、淡路島へ向かう。
体に染みつく疲れに、風が心地よい。
青年は、風と共に潮の匂いを深く吸い込んだ。
特別な理由があったわけじゃない。
確かに、会社はつまらないし、同じ毎日の連続だ。
一人暮らしの部屋は散らかり放題で、週末の掃除や洗濯も面倒くさい。
友人たちとの飲み会は、いつも同じ話の繰り返し。
彼女は欲しいと思っている。
アプリを試したこともあるけど、続かない。
二十代後半にもなって、出会いが無いわけじゃない。
ただ、なんとなく億劫で、なんとなく放置している。
確かに、胸が躍るような毎日じゃない。
しかし、我慢ができないほど惨めな毎日でもない。
だから、特別な理由はなかった。
ただ、土曜日の午後、ベッドから起き上がった瞬間、すべてをすっぽかしたくなった。
掃除も洗濯も、夕方の友人たちとの約束も。
青年は、クローゼットからヘルメットを取り出し、ZX-25Rに跨った。
バイクを買って、まだ一年も経っていない。
並列4気筒のエンジンが、低く唸る。
誰にでもそんな日がある。
特別な理由はないが、しかし、多分、よく考えればやはり理由はあるのだ。
一切の予定をすっぽかして風を切るのは妙に気分がよかった。
何故か、すべてがちっぽけで下らないものに思えた。
海峡を渡る風が、ヘルメットの隙間から入り込み、汗ばんだ首筋を冷やす。
淡路サービスエリアに着いて、バイクを停め、ヘルメットを外したところで声がした。
「速そうなバイクだね」
振り向くと、そこに、ガタイの良い体格の男が立っていた。
作業着姿。五十代半ばだろうか。
いや、もう少し上かもしれない。
良く焼けた顔に、人懐っこい目。
土木業の人だと一目でわかった。
トラックの荷台に、工具や資材が積まれている。
「いいバイクですよ。走ると、とても気持ちいいんです」
青年は素直に応えた。
「そうか。いい音してたな。並列4気筒か。俺も若い頃は、そういうのに憧れたもんだ」
男は、青年のマシンにじっくり目をやる。ZX-25Rのシャープなカウル、黒と緑のカラーリングが、夕陽に映えて輝いている。
「キレイにしてるね。大切に扱っているのが良くわかる」
「僕の唯一の趣味ですからね」
青年は照れくさそうに笑った。
「ものは、新品でも雑に扱えばすぐダメになる。逆に、大切に使えば、道具はちゃんと答えてくれる。」
「大切に扱われた道具は、新品にはない独特の美しさがあるもんだ」
男は独り言のように呟く。
「大体ね......」一息ついてから、男は言葉を繋いだ。
「大体、最近は物がありすぎて、雑に扱うやつが多くてよ」
「バイクだってそうだろ。調子悪くなったらすぐに乗り換えちゃう。でもさ、道具を大切に使えば、道具は答えてくれるんだ。走りが変わる。音が変わる。信頼感が変わるよ」
男のトラックを見ると、工具や機械が積み込まれている。
どれも、年季が入っているが、鈍い金属の色が美しい、
「お仕事ですか?」
「まあね。これから香川で仕事なんだ。橋を渡るたび、毎回ここで休憩する。景色がいいからな」
「香川県まで? 遠いですね」
「遠いけど、慣れたもんさ。体を使う仕事だから、運転も苦じゃないよ」
男が、青年の目を覗きこむ。青年は、曖昧な微笑みでそれに応えた。
「道具は大切に使うと、その想いに応えてくれるんだ。俺の軽トラだって、ボロボロだけど、まだ走る。」
「何となく分ります」
「そうかね。君もそんな感じかね」
「ええ」
二人は、どちらからともなく微笑んだ。
「こう見えても、若い頃は車に凝っててね。丁度、君ぐらいの時だな。スープラだとかスカイラインGT-Rだとかね.....。ずい分、親爺やお袋にどやされたもんだよ」
男の目が少し遠くを見る。
「今は、もう乗らないんですか?」
「スポーツカーはね。でも、走ることは好きだよ。今はオンボロの軽トラだけど、あれだって充分走る」
「ちゃんとメンテして、大事に使ってるからな。走っててね、海の匂いがしてくると実に気分がいい」
男が、健康そうな厚い胸に潮風を吸いこんだ。
体を使う仕事を続けてきた男だというぐらいは、青年にも見当がついた。
サービスエリア、バイク置き場横の展望デッキから、明石海峡大橋の向こうに、神戸の街並みが見える。
港湾と六甲山の間に、無数の光が点滅している。
まるでSF映画のセットだ。
その右手に、長方形の箱のようなビル群が神戸だ。
大阪の街も、遠くにぼんやりと重なる。
黒い山影を背に、長方形の箱たちも光を帯び始める。
都市に夜が舞いおりる。
「キレイですね...」
青年は、デッキから身を乗り出して呟いた。
その脇に男が立っている。
男も、発光し始めた都市の全景に目を奪われている。
「捨てたもんじゃないよね、神戸も....」
男も呟く。
「神戸の生まれですか?」
「そう。三宮で生まれた。いわゆる、元町生まれの元町育ちってやつだよ」
日が沈み空がオレンジ色から濃紺に変わっていく。
男の横顔はLED道路照明灯で照らされている。
「君は?」
男が訊いた。
「僕は大阪生まれです。尼崎です」
「尼崎か。工業地帯だね」
男が、両切りの煙草をくわえて、それに火をつける。
「三宮はいいですか?」
「そりゃ、いいとこも悪いとこもあるさ。元町ったって、どんどん変ってるからね。でも、私は好きだよ。やっぱり、生まれたとこが一番さ。.......尼崎はどうかね?」
「同じですよ。好きなとこも嫌いなとこもあります」
「そうだろうね」
男は、煙草の煙をゆっくり吐き出す。それが、潮風に吹き飛ばされて消える。
「この海だって捨てたもんじゃないだろ?」
「そうですね」
「人間てえのは、案外、足元のことには気がつかないもんだよ」
青年は気さくな男に、今日のもやもやした気持ちを聞いてほしくなった。
この男なら、なにかヒントをくれそうな気がしたのだ。
「今日は、なにもしたくなくなって、全部すっぽかしてブラブラしてるんでよ」
「疲れが取れないもんで、目覚まし無しで寝て起きたら、もう午後でした」
「頑張りすぎた時は、思いっきり寝るのは正解だよ」
「仕事はきつく無いのですが、なんか疲れだけがたまるんですよね」
「残業とかしてるわけでもなく?」
「欲しいものがあるわけでもないので、しませんね」
男は少し考えて答えた
「今は物欲が無くなって働かなくなる傾向があるよね」
「物欲は悪いことじゃない。欲しいものがあるからこそ働く意欲が沸くんだ」
「手に入れたいものがあるから活力が沸くし、体を動かすと身体が軽くなる」
「動かないと動くのが億劫になる。楽な方に逃げると、人生をつまらないものにしてしまう。」
青年は頷いた。会社でデスクに座りっぱなしの自分が、なんとなく思い浮かぶ。
「女のことも同じさ。付き合うと面倒とか、お金がかかるとかじゃなく、女と付き合いたいから頑張って働いて、自分磨きをするんだ…。欲しいと思ったら、動く。それが活力になる」
男の言葉が、青年の胸に刺さる。
彼女が欲しいのに、動かない自分。
あの億劫さは、何なんだろう。
闇が深くなってゆく。
都市は発光している。
音は聞こえないが、間違いなく、そこに熱と力が渦を巻いていることは分る。
「人間、自分のことを外から見られるといいんだがね.......」
男の呟きが青年の耳に残った。
青年は潮風を吸い込んだ。
青年は、自分の日々の暮らしと、そして明日のことを考え始めていた。
淡路サービスエリアの灯りが柔らかく周囲を照らす。
男は、トラックの方へ歩き始めた。
「じゃあ、俺はこれで。」
「気をつけて」
青年はそう言って、男を見送った。
トラックのエンジン音が遠ざかり、サービスエリアは静かになる。
バイクに跨り、ヘルメットを被る。
ZX-25Rのエンジンをかける。
低く、力強い4気筒の唸りが、体に響く。
このバイクを買った時、興奮した。
高い買い物だったけど、大事にメンテしてきた。
オイル交換、チェーンの調整、洗車。
雑に扱わなかったからか、走りがどんどん良くなっている気がする。
道具は答えてくれる。 男の言葉が、頭に残る。
帰りは同じ橋を渡る。
夜の明石海峡大橋はライトアップされ、幻想的に輝いている。
その向こうに、青年が生まれ育った都市があった。
尼崎の工場群、大阪のビル群、神戸の港湾エリア。
家に帰ったら、部屋を片付ける。
体を動かせば、軽くなる。
ジムに行く。
自分磨きをする。
彼女が欲しいなら、動かなきゃ。
欲しいものがあるから、働く。
バイクのエンジンが、再び唸る。
アクセルを捻る。
風が、体を包む。
海に抱かれた都市へ、戻る。
少しだけ、外から自分を見ながら。




