盾の聖女の「退職願」③
「……殿下。本当に、この予算は出せないのですね? 私が提示したリスクは、すべて無視されるということで、よろしいですね?」
「ああ、そうだ。むしろ、無能な『盾』を養う余裕はない。アイリス、貴様を聖女の座から解任し、追放する。……今すぐ城を去れ」
エドワードの宣告が、冷たくひびきわたった。
すとん、と。
アイリスの中で、何かが音を立てて消え去った。
それは、十年にわたって彼女を縛りつづけてきた、義務感という名の重い鎖だった。
(ああ……そうか。私が人生をかけて守る価値は、ここにはもう、無いんだ)
視界が、急に明るくなった。
あかぎれの痛みも、冷たい地下室の記憶も、すべてが他人事のように遠ざかっていく。
「……承知いたしました。では、今この瞬間をもちまして、私は聖女としての全任務を放棄し、退去いたします」
「フン、潔いことだ。最後にひとつだけ仕事をさせてやる。追放先を選ばせてやろう。どこへなりとも行くがいい」
「……では、辺境の『静寂の草原』へ。そこにある古代ゴーレムの傍にある村で、静かに暮らすことをお許しください」
「あんな呪われた廃墟か。お似合いだ。さっさと失せろ!」
アイリスは深く一礼し、踵を返した。
背後で、カトリーナを称える拍手と笑い声が再び巻き起こる。
自室に戻ったアイリスは、使い古された魔導書を開いた。
彼女は、自力で編み上げ、王国全土に張り巡らせていた数万の「補強術式」の一覧を呼び出す。
それは、三代前の聖女から密かに受け継いで昇華し、アイリス自身の魔力だけで維持していた、王国結界の「心臓」そのものだった。
「管理者権限、アイリス・フィン・ハザトロト。……全術式の接続解除」
アイリスが指先で空中に魔法陣を描く。
それは結界の破壊ではない。
ただ、自分が無償で提供していた「私物の魔力」を、すべて引き上げるだけの、極めて事務的な処理。
盾の聖女としての管理者権限は、ここにすべて返却された。
瞬間、王国全土を包む目に見えない結界が明滅する。
アイリスの補助を失った完璧な結界が、「脆弱で穴だらけの初期結界」へと戻っていく。
魔力だけは強いカトリーナが管理者権限を受け継いでも、まず、真面な結界は保てないだろう。
他の有象無象では、尚更だ。
「さようなら、私の愛した箱庭」
アイリスは、あかぎれが治りきっていない手で小さなカバンを掴む。
一度も振り返ることなく、未来なき王都の門をくぐり抜けた。
彼女の脳裏には、先代が語ったあの「巨大な遺物」の姿があった。
王都を包む夜空には、美しい満月が昇り始めていた。
それが、滅びのカウントダウンの始まりであることを、祝杯に酔いしれる人々はまだ知らない。




