魔法の宮殿③
「――マスター」
ゼノンの声。
その後ろに、ニコの声も混ざっている。
(……間に合ったのかしら)
アイリスは目を開いた。
ゼノンとニコが、こちらを覗き込んでいる。
目が合うと、ニコが歓喜の声を上げた。
無表情なゼノンも、どこかホッとした顔をしている。
「マスター、休息を取るなら寝室でお願いしたい」
「そうね、すぐに行くわ」
「いや、もう運び込ませてもらった。あれからもう、一日経ったのだ」
「……はい?」
アイリスは驚き、身体を起こす。
たしかに、今いる場所は浴場ではない。
華美で、暖かで、広々とした寝室にいた。
横たわっていた寝具は雲のように柔らかく、全身を沈みこませている。
「……ここまで運び込んでくれたの? あなたが?」
「その通りだ」
「……あー、っと、着替え、も?」
「見ての通りだ」
「――――そう。そうよね。ありがとう、うん、助かったわ」
「マスターの身の回りの世話をするのは当然だ。それより、身体の具合はどうだろうか」
ゼノンがアイリスを見据えたまま言う。
アイリスは赤面した頬を隠すように俯くと、自分の手に視線が落ちた。
「……え?」
手のあかぎれが跡形もなく消えている。
盾の聖女としての代償が。
そこにあるのは、本来持っていたはずの、白くしなやかな、十代の少女の肌。
アイリスはそっと、指先をこすり合わせる。
痛みがない。それだけのことなのに、奇跡のように思えた。
「アイリス様、ボクも」
ニコが自分の手を差しだす。
彼の手もまた、綺麗に治っていた。
ゼノンが言うには、宮殿の浴場に湛えられた湯はすべて聖水なのだという。
「さあ、マスター。食事にしよう。先ほどからこの少年の腹部より、警告音が鳴りつづけている」
ゼノンがニコを指差した。
言われてみるとたしかに、目が覚めてからずっと、お腹を鳴らしていたかもしれない。
恥ずかしそうにするニコの頭を、アイリスはそっと撫でる。
「ありがとう。では朝食にしましょうか」
「すぐに用意しよう。千年前のレシピだが、今の外界にあるような粗悪な食糧よりは、味も、栄養価も高いはずだ」
そう言ってゼノンが用意した、料理の数々。
銀の盆に載った、瑞々しい果実と野菜のサラダ、香ばしく焼けたパン。
温かなスープと、デザートまで。
口にしてみると、噛むほどに芳醇な味が五臓六腑に染み渡る。
至高の味と言っても過言ではない。
道具として扱われ、泥水を啜るような王国での生活では決して得られなかった。
一人の人間として、これ以上ないほど大切に扱われるこの城。
(……もう、あそこには戻れないな)
アイリスの心の中で、わずかに残っていた王国への情愛。
それが今すべて、冷たい軽蔑へと切り替わった。




