第2話:聖都の裏門と「指の脂」の神託
遺跡を後にしたカズキは、案内人の女性を背負いながら、断崖絶壁の縁に立たされていた。
「おい、案内人。もう一度聞くが、本当にここが『最短ルート』なんだな?」
カズキの言葉に背中から降りている女神は応える。
「当たり前じゃない。案内人は最短・最適・最速をモットーとしてるの。さあ、深呼吸して。物理法則にバイバイする準備はいい?」
カズキは眼下の光景を工学的に分析した。高さは約50メートル。自由落下の公式 を当てはめるまでもなく、時速100キロ以上で地面に激突し、肉片すら残らない計算になる。
「……ふざけるな。加速度を考えろ。垂直落下なんて工学的自殺だ。せめてロープか、衝撃を吸収するためのパラシュートを——」
「理屈っぽい男は嫌われるわよ? ほいっ」
「あ、おい、押すな——っ!!」
背中に感じた軽い衝撃とともに、カズキの視界から地面が消えた。重力に身を任せ、絶叫しながら落下するカズキ。しかし、その時、奇跡が連続して発生した。
まず、風が異常な方向から吹き込み、カズキの体が崖側に押し付けられた。次に、崖から突き出していた柔軟性のある枝が、カズキのコートの襟を絶妙な角度で引っ掛け、トランポリンのように速度を殺した。さらに、滑り落ちた先には昨日の大雨で流れ込んだ大量の枯れ葉が積み重なっており、カズキは「ふかふか」という拍子抜けな音とともに着地した。
「……生存。衝撃吸収率……99.8%。ありえん、摩擦係数の計算が合わない」
「ほ、、、ほほほ、ほらね!言った通りでしょ? 私のナビは完璧なの」
案内人はカズキの背中でケロッとしていたが、内心では冷や汗を流していた。
(……嘘でしょ。今の、気流の乱れも枝のしなりも、全部確率論を無視してたわ。この男が落ちる『結果』に合わせて、世界が無理やり物理法則を書き換えたみたい……)
この案内人はこの男の能力を見てみたく、無理やり崖から落とした。
しかし、能力ではなく、もはや神の領域のことを成しているカズキに畏怖の念がこもる。
草原を歩き始めて数分。二人の前に、巨大な岩山に刻まれた白銀の門が現れた。
「ここは聖都の『裏門』。古代の数秘術師たちが因果律の鎖で封印した、知恵なき者には決して開けられない扉よ。魔法で壊すことも、鍵開けのスキルでこじ開けることも不可能。さあ、カズキ。君ならどうする?」
カズキは門の表面を這うように観察した。そこには複雑な幾何学模様と、押し込めるようになっている九つの石のパネルが並んでいる。案内人は、カズキが数秘術の矛盾点を突き、高度な魔導演算を始めるのを期待していた。
しかし、カズキの行動は予想の斜め上を行くものだった。彼はパネルを斜めから眺め、鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅ぎ始めたのだ。
「……ふむ。案内人、お前はこれを『数秘術』なんて高尚なものだと思ってるのか? これは単なる『テンキー入力式のパスワード』だ。しかも、管理が最低レベルのな」
「……は? パスワード?」
「いいか、よく見ろ。この三番、五番、八番、九番の石だけ、表面の光沢が違うだろ? これは人間の指に含まれる『脂』が付着して、長年磨かれた結果だ。さらに、この隙間の埃の堆積状況を見てみろ。三番が一番奥まで押し込まれた痕跡がある」
カズキは、工学部の部室のドア(教授たちが面倒がって10年以上暗証番号を変えていない)を思い出しながら、確信を持って石を叩いた。
「まず、最も摩耗している三番。次に、バネの反発が弱っている五番。あとは脂の乗りがいい九番と八番……最後に、ここを『トントン』とな」
カズキがパネルの横を軽く拳で叩くと、内部で固着していた古いギアが「カチリ」と音を立てて噛み合った。
ゴゴゴゴゴ……!
「よし、開いた。やっぱり、どれだけ複雑なシステムを組んでも、最終的なボトルネックは『運用する人間』にあるんだよ」
案内人は、ゆっくりと開いていく巨門を見上げながら、全身に鳥肌が立つのを感じていた。 (え……? いま、何をしたの? 数千通りの魔導演算が必要な『神の封印』を……『あぶら』と『叩く』だけで解いた? いや、ありえない。彼は私に見えない速度で、門に刻まれた全術式の論理回路を逆算し、最小の物理的振動でプログラムを強制書き換え(オーバーライド)したんだわ。なんて……なんて恐ろしい男なの……!)
「おい、開いたぞ。次に行くぞ、おんぶ案内人」
「あ、え、ええ……。そうね、私の計画通りだわ……」
案内人は震える声で答えたが、確信した。この男、ただの男ではない。世界の理そのものを、無自覚に切り刻む、最も危険なバグだ、と。




