2店目 千代田区神田神保町
俺とノアが住む埼玉県秩父市は埼玉西部にある。市のほとんどは山で、かの某鬼狩り漫画の主人公が住んでいたとされる雲取山は標高2000mを超える高さだ。
俺たちが住む大府集落はその中でも長野県との県境に近い。つまりは山の中だ。いきおい、野生動物が多く棲む地域でもある。
鹿や野兎、猪などはちょこちょこ目にする。大体は人間の生活圏と重ならないし無害なのだが……問題は熊だ。何せ人を殺しかねない。
ここ大府集落でも熊の目撃例が相次ぎ始めた。ただ、高齢者ばかりの大府集落には猟友会に入っている住民はいない。
そこで、魔法で猟ができるイルシアの連中の出番というわけだ。何より、彼らは大体においてこちらの人間より目と鼻が利く。特にこの猫耳の彼女は。
『あそこにいるにゃ!』
短い黒髪に猫耳の少女が藪の中を指さす。ノアがロッドを構え、その先からレーザーのようなものを放った。
「ぐおおおぉぉぉっっ!!!」
苦悶の声が山中に響き渡る。同時に、30mほど離れた場所から右肩をえぐり取られたツキノワグマが立ち上がったのが見えた。
『とどめよっ』
もう一発魔法のレーザーを放つ。それは首の辺りに命中し、熊は断末魔すらあげることなくその場で絶命した。
近寄ると大きさは1.5mほど。大量の血が地面に流れ、その獣臭さに俺は思わず鼻をつまんだ。
「ラピノ、周囲に他の熊は」
『いないにゃ。でもこれ以上奥に行ったら危ない気がするにゃ』
猫耳少女は周囲を見渡すとスマホを手に取った。猟友会の猟師に連絡を入れているらしい。流石に2年も経つと彼女の日本語もそこそここなれたものになっている。スマホの扱いも実に慣れたものだ。
『これでよしにゃ。とりあえず、トラックが下に来たら運んで乗せるにゃ』
満足そうにうんうんと頷くと、ラピノはポケットから加熱式の煙草を取り出した。見た目はノアと同じかやや年上ぐらいなのだが、彼女はれっきとした成人である。勿論咎める理由はない。
白煙を吐くと『労働の後の一服は格別だにゃ』と満足そうにしている。ノアが呆れたように彼女を見た。
『随分この世界に染まってるわね……そんなに美味しいの?その『タバコ』ってやつ』
『うーん、とりあえずすっとするにゃ。ノアもやるかにゃ?』
『身体に悪いんでしょ、あたしは遠慮しとく。というかこの熊、どうするの?あたしたちの世界の熊よりは小さいけど』
ノアが俺を見た。「食べるんじゃないか?」と言うと『本当に??』と驚いた顔をされる。
「食べないのか?」
『熊なんて臭くて食えたものじゃないわよ。そりゃオーガやゴブリンは食べるけど……こっちの人は食べるの?』
「あまり一般的じゃないな。そもそもそんなに獲れないし……ただ高級食材ではあるぞ。熊の掌とか、中華料理では宮廷料理で出されるらしい」
『信じられないわね。そもそもあの臭さをどうするのよ……この世界の料理はあたしたちの世界より遥かに進んでるけど』
「香味野菜と煮込んだりする感じかな。まあ肉を食べようとすると下準備に相当時間が必要らしいけど」
ブロロロと小型トラックが下に見えた。普通にやると大変なので、肉体強化魔法をかけた俺とノアが引っ張っていくことにはなりそうだ。
「右腕は千切れかけだから注意しておけよ。切れると価値が下がる」
『了解したわ』
2人がかりで熊の死骸を斜面から引きずり下ろす。かなり重いが、まあ何とかなるぐらいだ。
「おりゃっ」
トラックの荷台に熊の死骸を乗せると、初老の猟師が「あんたらだけでやったのか」と目を丸くした。一応鹿や猪の猟はこれまでもやったのだが、熊となると難易度が跳ね上がるためか、彼も本当に俺たちだけでできるとは思っていなかったようだ。
走り去るトラックを見ながら、勝ち誇ったようにノアが言う。
『まあ、変異体に比べればあんなの楽勝よ。ねえ、ラピノ』
『にゃ。というか、あの熊ってどこで食べられるにゃ?』
『そうねえ……『ラ・フォンターナ』なら食べられるんじゃないかしら……でもすぐにってわけにはいかないのよね』
「ラ・フォンターナ」は町はずれにあるジビエ専門店だ。東京の三ツ星レストラン出身のシェフが夫婦で切り盛りしている完全予約制の店で、俺たちは何度も使っている。大河内さんや綿貫など、東京で舌が肥えに肥えた連中をも唸らせるほどの腕前だ。
とはいえ、いかに常連と言えどふらっと入って食べられる店でもない。そもそも熊肉は下処理など時間がかかるので、今日食べたいと思って食べられるものではないのだ。
『そうなのにゃ……』とラピノが露骨に肩を落とす。そこでポンとノアが手を叩いた。
『そうだ!トモ、『熊ラーメン』ってない?』
俺は思わず頭に手をやった。来るかと思ったが、やっぱり来た。
「いやいや、さっき俺が言ってた話聞いてたか?熊って流通量がほとんどないんだ、ラーメン屋で出せる食材じゃないんだって」
『でもトンコツみたいな要領でスープとかならできるんじゃない?』
「いやいやいや、獣臭さがキツいから商業ベースに乗せるには……一応愛知に一時期出してた店はあるらしいけど……ん??」
ダメ元でTwitterを調べていると……この書き込みは。
『どうしたの?』
「……あったわ。熊ラーメン」
『本当に!!?』
ノアの目が輝いている。本当にうちの嫁はラーメンになると一気にテンションが上がるな。
「落ち着けって。明日、俺が昔よく通ってたラーメン屋でやるらしい。神田神保町の店だ」
『カンダジンボウチョウ?』
「大手町なら何回か行ったから分かるだろ。そこからわりと近くだな。ラピノも行くか?」
『行くにゃ!!』と猫娘は元気よく手を挙げてきた。元々魔力供給には向いている食べ物ということもあるのか、イルシアの連中はノアに限らずラーメン好きが多い。
「じゃ、明日9時にうちに集合だ。時間厳守な」
*
「はいはい」
『おはようにゃ!』
インターフォンに応じて玄関を開けると、そこにはニットのセーターを着たラピノがいた。下はスカートだ。猫耳を隠すためニット帽も被っている。
この世界に残ったイルシアの連中は、その多くが政府の庇護を受けて暮らしている。社会交流プログラムを通しこの世界への適応が進んでいる住民は多く、その多くがこの近くにできた「大府総合研究所」で働いている。彼女もその一人だ。
もっとも、かなり休みは自由に取れるようでこうやって平日に年休を取るのも問題ないらしい。曰く「社会順応を進めるため」という。俺たちもイルシア周辺の管理などの名目でかなりフリーに動いているから、似たようなものか。
ノアが俺の後ろから顔を出すと、少しむっとした顔をした。
『あなたねえ……何でそんな胸を強調した服着てるのよ』
『どーてーを殺す何とやらにゃ!これで男もイチコロにゃ!!』
確かに言われてみると胸元の辺りが少し開いていた。肌の露出自体はそこまででもないが、体型の割に豊かな胸は強調されている。……確かに目のやり場に困るな。
そう思っているとノアに後ろから小突かれた。
『トモも鼻の下伸ばさないっ!』
「あ……すんません」
『相変わらず尻に敷かれてるにゃねえ』とカラカラ笑いながら、ラピノはアウディの方に向かう。助手席にノアを、後部座席にラピノが乗ったのを確認し、俺はイグニッションボタンを押した。
『にしても何で男探しなんかしてるのよ』
ノアの質問にラピノが不機嫌そうに返す。
『速攻で結婚した既婚者には言われたくないにゃ。そもそもイルシアにはカップルが多すぎるのにゃ。ジュリ様はイチカワと、アムルはワタヌキと。シーステイアは東京でガラルドと同棲中にゃ。私が独り身なのはおかしいのにゃ』
『研究所で見つければいいじゃない。それに大熊の息子の……何だっけ。彼もあなたのこと気に入ってるらしいわよ?』
『研究所の連中は草食系で面白くないにゃ。オオクマのとこは……後40ジャルディは痩せろにゃ』
40ジャルディは確か20kg相当か。最近彼はダイエットに熱心らしいが、果たして上手くいくのだろうか。
『とにかく、にゃーはそろそろ番を見つけるべきなのにゃ。もう24なのにゃ』
『まだ24でしょ……そもそもそんなタバコばっか吸ってると嫌われるわよ』
『にゃっ!?そうなのにゃっ!?』
『そもそも車内は禁煙。どうしても吸いたいなら、窓開けて頂戴』
後部座席でラピノが電子タバコを吸おうとしているのに気付き、ノアがはあと溜め息をついた。イルシアでも最もこの世界に順応している人物である彼女は、その辺りの一般常識も当然身に着けている。
『ところでトモ、これから行くところは昔よく通ってたって言ってたけど、どんな店なの?』
「あー」と俺は一瞬言葉に詰まった。あそこほど個性的な店は日本にもそうない。いや、個性的な「グループ」か。
「何と言えばいいのか……毎日違うラーメンを出す店だな」
『毎日違うの?』
「まあ、基本のラーメンはあるんだが……それでもスープの具材は微妙に違う。そして基本のラーメンを出す日よりそうでない日の方が多いんだよ」
『それでも醤油とか塩とか、色々あるでしょ』
「それがな……カテゴライズしにくいんだ。ラーメンにはまず使わないような特殊食材ばかり使ってるから」
『特殊食材?』とノアが首をかしげる。
「例えば……分かりやすいところでいえばカニだな。カニをラーメンに使うのはそこまでレアでもないが、それが高級食材のズワイガニや花咲ガニとなると話が違ってくる」
『カニ!今年のお正月に食べたやつね!あれは美味しかったわあ……それをラーメンに!?美味しいに決まってるじゃない!!』
ノアのテンションが露骨に上がっている。俺は苦笑しながら話を続けた。
「まあな。実の所、今日食べるラーメンもズワイガニから出汁を取ってる」
『え、熊じゃないじゃない』
「話は最後まで聞け。厳密に言えば、『熊の脂身とズワイガニのラーメン』だな」
『脂身??』
後部座席のラピノから『わけわからないにゃ』という言葉が飛んでくる。
「まあ、それが普通の反応だな。俺もよく分からん。勿論、そんなラーメン食べるのは俺でも初めてだ」
『にゃ!?美味しいのか分からないのにゃ??』
「多分旨い。というか都内でも五指に入るぐらいには旨い店だと思ってるんで、そう下手なものは出さないはずだ。ただ味は全く想像がつかん」
『昨日下処理に時間かかるって言ってたにゃ。そんな毎日出せるものじゃないにゃ?』
「その通りだな。多分今日だけの限定だ。元から毎日違うラーメン出す店だし、これを逃したらいつ食えるか分かったもんじゃない。
あと、今日は会員だけの日なんだ。一応、まだ会員カードは生きてるはずだから大丈夫だと思うが……』
『会員?』とのノアの質問に俺は頷く。丁度信号だったので財布からボール紙でできたカードを取り出した。名前を書く欄はなく、ただ丸いシールだけが貼ってある。
「毎週水曜日は会員限定の日なんだ。ラーメンも『デビル』の一種類しか出さない」
『『デビル』……悪魔ってことよね。何でそんな名前なのかしら』
「さあ……悪魔的に旨いというのと、悪魔的な食材を使うのと、何より悪魔的にしょっぱいからなんじゃないかな……というか店主の師匠が始めたメニューだが」
『師匠?そういえばさっき『グループ』って言ってたわよね』
「まあな。もうその師匠は引退しているが、その弟子である種のグループ——『頑固者』という集団を作ってるんだ。会員カードも共通。ラーメン界では異端のグループで、マスコミ一切お断りだ。ただラーメンファンにとっては外せないんだが」
信号が青になり、俺はアウディのアクセルを踏む。長瀞の紅葉を横目に見ながら、俺たちは自然とは無縁なコンクリートジャングルへと向かうのだった。
*
店に着いたのは11時20分頃だった。既に10人ほどが並んでいる。着いてから10分後ぐらいに「今日はここまでです」と店員がやって来た。ギリギリだったらしい。
変装していても目立つのか、ちらちらと前の客がノアとラピノを見る。おっさんだったためか、ラピノが露骨にげんなりしていた。
『イケメンがよかったにゃあ……』
「そこは諦めろ。そもそもそんな目立つ服を着てくるなよ……」
『私もノアやアムルみたいな番が欲しいのにゃ……どうして縁がないのにゃ』
ノアが『そういうとこよ』と突っ込む。見た目だけなら彼女も美少女なのだが、やはりキャラというか性格なのだろうか。
そうやっているうちに俺たちの番になった。店には看板などなく、ただプロレスで使うマスクが吊り下げられているだけだ。
店内の食券機で「デビル」のボタンを押す。トッピングの「デビル肉」も頼むことにした。
『デビル肉?』
「まあ食えば分かるさ」
カウンターに座ると、恰幅のいい店主が寸胴からスープを注いでいるのが見えた。ここからでも分かるほどに芳醇なカニの香りが漂って来る。
会員カードを見せると「トッピングは」と訊かれた。ひとまず無難に「ネックを3つ」と答える。
『ネック?』
「細かい肉と脂身だな。味が深まるから大体これかな。後青唐辛子とかもいいと思う」
数分待つと、平べったい丼に入れられたラーメンが出てきた。チャーシューに加え、豚の生姜焼きを思い切り濃くしたような肉が何枚も入れられている。
真っ白な脂身が数切れ、丼の端にあった。これが熊の脂身か。しかし、脂身というのにそんなに溶けている感じもしない。何だろうこれは。
まずはスープを一口啜る。……これは。
『美味しい……というか、凄いコク』
ノアが驚いたように呟いた。そう、旨味が凄い。カニ由来の魚介系の出汁に、何かよく分からないクリーミーなニュアンスが加わっている。ミルクなど入っていないはずなのに。
『旨いにゃっ!!』
ラピノもズルズルと麺を啜り始めた。こっちに来て2年、箸の使い方も堂に入ったものである。
『何よりこの肉にゃっ!!味が染みてて脂身もたっぷりなのにゃ!!ご飯欲しいにゃ!!』
「ご飯は持ち込みじゃないとダメだぞ」
『にゃぁ……それは残酷にゃ……それを早く言ってほしかったにゃ……』
もっともご飯持ち込みは常連でないとNGなので、どっちにせよ無理な話ではある。俺は自分のラーメンに集中することにした。
この白い脂身がツキノワグマの脂であるらしい。そのままだと脂っこいし獣臭いだろうと思い口にすると、思わぬ味が出てきた。
「……!?甘い、というかこれは……」
『まるでミルクじゃない……!?しかも、旨味も深い……こんなラーメン初めて』
ノアも気付いたのか熱心にスープを口にしている。この脂身とカニが抜群にマッチしているのが恐ろしい所だ。麺こそよくありがちな縮れ麵だが、だからこそこのスープの旨さがよりはっきりと見えてくる。
悪魔肉に加え柔らかいチャーシューも実に旨い。ご飯が欲しくなるが、哀しいかな「頑固者」の系列に白飯はないのだ。
食べ進めるにつれスープにさらに深みが増してきた。脂身が溶け、熊特有の旨味が強まってきたらしい。にしても獣臭さは全くない。どういう処理をしたのだろう?
とにかく旨ければそれで充分なのかもしれない。俺たち3人はあっという間にスープまで平らげてしまった。大分塩分も多いスープなのだが、それすら感じさせないのは脱帽というより他ない。
「御馳走様、美味かったです」
そう言い残し去ろうとすると、女将が「ちょっと待って」と俺たちを呼び留めた。
「はい、これ」
「これは……」
ノアとラピノの手に、2枚の無地のカードが渡された。
「会員カード。あれだけ美味しそうに食べる子、そういないから特別ね」
「え、いいんですか!!」
「もちろん。また来てちょうだいね」
*
『本当に美味しかったわ。というか熊って、あんな味なのね……』
帰りの車の中、感服したようにノアが呟く。俺もあそこまで旨いとは思わなかった。
『これ、どんどん熊狩って食べればいいんじゃないかにゃ?名物にもなるにゃ』
『でも反対している人っているんでしょ?熊が人里に出るのは人間の自然破壊のせいだって。トモはどう思うの?』
「うーん」と俺は唸った。正直そこは専門外ではある、が……
「確実に言えるのは、熊を狩って『人里に出るのは危ない』と思わせた方がいいのは確かなんだろうな。そもそも、何で熊が増えたって思う?」
『あたしにはよく分からないけど……餌が少なくなったから仕方なく、とか?』
「俺はそうは思わない。というか、熊が増えすぎたんだ。そもそも秩父は自然破壊とは基本無縁だし、餌が足りなくなることも考えにくい。
つまりは、天敵が――猟師がいなくなった。さらに言えば、放置された林が増えて人里にテリトリーが広がってきた。そっちの方が大きい気がするな。よく分からんけど」
『なるほど……だからこそ殺さないといけないわけね。あたしは別に良心は痛まないけど、こっちの世界の人だと違うのかしら』
彼女たちの出身は、この世界より遥かに荒れた世界だ。今でもなお戦乱は続いている。そんな彼女たちにとって、命に対する考え方は俺たちよりずっとシビアなのだろう。
「まあ、こんなに美味しいわけだから、感謝して命の恵みを頂いた方がいいんだろうな」
『そうね。ところで全然話変わるけど、このカード。どこで使えるのかしら』
ノアが会員カードを見せてきた。
「大体『頑固者』系列の店は都内だからな……ちょっと遠出になるから、またしばらくしてかな」
『そうなの。……また食べたいわね』
ノアが少しがっかりした表情で言う。
その機会がすぐに訪れるとは、この時の俺たちは想いもしなかったわけだが。




