また会う日を
完全に季節感を間違えました。
部屋が寒いので仕方がないですね。
夏の終わり頃、思い出してください。
雨が上がったばかりの朝だった。
縁側に打ち寄せるような霧の向こう、山あいの稲荷神社は、まだ眠たげに湿り気をまとっていた。私は、いつものように拝殿の奥にある願い札の棚を拭いていた。
願い札。それは、人の想いが宿る札。時に祈り、時に願い──けれど今日、私の手に届いたそれは、どこか違って見えた。
墨で書かれていたのは、たった五文字。
「描きたい」
それだけ。
願いの主の名もない。裏面には何も書かれておらず、紙の端がほんの少し、濡れてよれていた。雨のせいか、それとも──。
「モナカ、今日はお使いだったわね」
ちゃぶ台の上には、お菓子の包み紙と、彼女の置き手紙。人里まで買い出しに出たらしい。
私は一人、札を胸元に収め、境内の空気を吸い込む。雨上がりの匂いと、土と、緑と。静かで、少し寂しい。
ふと、何かの気配を感じて足を止めた。
神社の裏手、ひっそりと陽の当たる場所に、一輪だけ咲いていた。
「白い……彼岸花」
珍しい。時季でもないし、まして白は希少だ。
それでも、そこに咲く花は、まるで呼ばれたかのように私を待っていた。
雨露をはじく細い花弁。凛と立つその姿に、なぜか私は、胸の奥にぴりりと小さな痛みを感じていた。
──描きたい。
札の言葉がよぎる。
描くことは、残すこと。伝えること。
けれど、この願いは、どこか迷っているようだった。何かを伝えたかったのに、できなかった。そんな後悔に似たにおいがした。
私は、もう一度花を見つめた。
「……待っていましょうか。ね」
白彼岸花は、そっと風に揺れた。
その日の午後。
境内に足音がひとつ、静かに響いた。
訪れたのは、二十代くらいの若い女性だった。淡いグレーのロングスカートに、雨を弾くトートバッグ。小柄で、少しうつむき加減のその人は、拝殿の前で立ち尽くしていた。
私はゆっくりと近づき、声をかける。
「こんにちは。ようこそ、おいでくださいました」
女性は、はっとしたようにこちらを見た。
目が、少し赤い。泣いていたのかもしれない。
「あの……ここに、願い札を出したんです」
そう言って、彼女は胸元から同じ札を取り出した。端が少し濡れているのも、筆跡も、間違いない。
「はい。確かに、届いております」
私は静かに微笑んだ。
彼女は、俯いたまま、ぽつりとこぼす。
「絵を描いていたんです。ずっと。小さい頃から、祖母と一緒に。でも……」
言葉が途切れた。
私はそっと、札を指でなぞった。
「……今は、描けない?」
「……うん。何を描いても、色がないんです。ただの線にしか見えなくて……」
彼女の瞳は、どこか遠くを見ていた。
私は小さく頷き、彼女を境内の奥へと導いた。
あの白い彼岸花の咲く場所へ。
午後も深まり、山あいの神社に秋の陽が差し込んでいた。
縁側に腰かけていた私は、そっと気配に顔を上げた。
白いマスクと、少し大きめのコート。
肩から斜めにかけたキャンバスバッグが、彼女の歩みの遅さを物語っていた。
「こんにちは」
彼女は小さく頭を下げて、拝殿の前で足を止めた。
静かなまなざし。けれどその奥に、閉じ込めた色がある。
私はゆっくり立ち上がって、拝殿の石段を降りていく。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「……あの」
彼女は少しだけ躊躇いながら、言葉を探すように口を開いた。
「このあたりに……季節外れの彼岸花が、咲いているって聞いて」
「ああ。こちらに咲いていますよ。ついてきてください」
私は社殿の裏手へと足を運ぶ。
風に揺れる枝の隙間から、彼女のブーツの足音が続く。
境内の片隅。
ひっそりと、それでいて誇らしげに咲いている白い彼岸花。
その前で、彼女は立ち尽くす。
「……やっぱり」
そう呟く声は、確かに届いたけれど、言葉にはならなかった。
私は少し離れて腰を下ろし、そっと問いかける。
「白い彼岸花、お好きなんですね?」
「はい。……祖母が、好きだったんです」
彼女の声に、わずかに熱が帯びた。
「よく……ふたりで絵を描いてたんです。山の花とか、空の色とか。
だけど……最後のとき、会いに行けなくて。
描こうとしても、もう……全部、灰色に見えてしまって」
彼女はうつむいたまま、両手でバッグをぎゅっと握りしめた。
風が、白い花を揺らす。
「もう、描いちゃいけない気がして。描いたって、もう見せる相手もいないから」
私は、彼女のとなりに腰を下ろした。
そして、静かに問いかける。
「あなたにとって、その方は……どんな色でしたか?」
「……あったかい、色。
柔らかくて、包みこんでくれるみたいな。……でも、それも思い出せなくなってきて……」
そのときだった。
風がまたそよいで、白い花の香りがふわりと届いた。
彼女は顔を上げ、花に近づいた。
しゃがみこむようにして、そっと指先を伸ばす。
「……この色、知ってる」
ぽつりと、彼女がつぶやいた。
「昔、祖母が言ってくれたんです。“あなたには白が似合う”って。
白い服、白い花、白い雲。……忘れてたはずなのに、思い出しました」
私は、その横顔を見守る。
表情が、少しだけほどけていた。
——大丈夫。きっと、届いている。
私は胸の中でそう思いながら、彼女の肩にそっと声をかける。
「白って、何色にも染まる色。きっと、その人の色も、ちゃんと心に残ってるわ」
彼女はゆっくりと頷き、バッグからスケッチブックを取り出した。
彼女は、膝の上でそっとスケッチブックを開いた。
薄く色のついた鉛筆で、静かに線を走らせる。
最初はぎこちない手つきだった。
輪郭を描いては、首を傾げ、時折止まっては息を吐く。
「……描けないな、やっぱり」
ふと、彼女がつぶやく。
その声は、さっきよりもずっとかすかだった。
「怖いんです。描いても、あの人の顔じゃなかったらどうしようって。
思い出を、壊してしまいそうで」
私は黙って、彼女の隣で座りつづけた。
風が枝を揺らし、日差しが落ちてゆく。
それでも、彼女はまた鉛筆をとった。
「このあたりに、小さなシミがあって。笑うと、そのシミがちょっと動くんです。
……それが、なんだか嬉しくて」
思い出すように語る声に、かすかに笑みが混じる。
手の動きが、さっきより自然になっていた。
私は、そっと袖を払って立ち上がった。
「少し、待っていてくださいね」
そう言って、境内を離れる。
向かったのは、旧社務所の奥。引き出しの中にしまってあった、古い封筒と短冊。
墨と筆を手に取り、私はそこに——
「願い札、ですね」
戻ってきた私の手元を見て、彼女がそう言った。
「あなたの願いを、ここに書いてみませんか?」
「……願い」
彼女は筆を受け取り、一度深く息を吐く。
そして、ゆっくりと書きつけた。
その文字を私は見守る。
力強くはないけれど、確かに「描きたい」と綴られていた。
私が願い札を受け取ると、風が一度、強く吹き抜けた。
揺れる枝葉のすき間から、やわらかな光が差し込んでくる。
白い彼岸花が、その光にふわりと揺れた。
——小さな奇跡を、ひとつだけ。
私は心のなかでそう願いながら、彼岸花の前に膝をついた。
そして、願い札をそっとその根元に埋めるように、置いた。
「ねえ」
彼女が小さく呼びかける。
顔を上げたその瞳が、何かに気づいたように、そっと見開かれていた。
「……なんでだろう。今、すごく、描きたいって思った」
スケッチブックを抱きしめるようにして、彼女は微笑む。
「泣きながらでもいいから、描いてみようかなって」
その言葉に、私は静かに頷いた。
心の中の色が、ひとつ戻ってきたような気がしたから。
夕陽が落ちるころには、彼女の指先は、迷いなく鉛筆を走らせていた。
何度も擦って、何度も塗って。涙で紙が滲みそうになるのを指の背で拭いながら、必死に。
私は彼女の背を見守っていた。
その姿は、まるで誰かに手を引かれているようで──
「……描けました」
彼女が顔を上げた。
赤く腫れた目。鼻声。
でも、その表情には、確かに笑みがあった。
「ありがとう……ございます。わたし……ずっと、描けなかったから」
彼女が見せてくれたスケッチブックには、
年老いた女性の穏やかな横顔。
優しく笑うその頬には、小さなシミがひとつ。
その場所にだけ、色鉛筆で、やわらかく色が差されていた。
「もう……会えないって、分かってるのに……
なのに……今、声が聞こえた気がして」
彼女は言葉を詰まらせ、涙をこぼす。
私はそっと近づいて、彼女の隣に腰を下ろした。
「それはきっと、届いたからよ」
私の言葉に、彼女はゆっくりと目を閉じる。
……その瞬間、神社の奥、古い社の裏に、淡く白い光が灯った。
小さな幻のような人影が、そこに立っていた。
腰をかがめた老女。
薄く微笑みながら、こちらを見つめて──
——ありがとうね
音もなく、そう言った気がした。
私と彼女しか知らない、小さな、小さな奇跡。
ふと、私は立ち上がり、彼岸花の群れに目を向けた。
白く咲いた一輪に指を伸ばし、そっと触れる。
言葉は添えない。
ただその花の意味が、彼女の心に届くことを信じて──
帰り道、彼女はスケッチブックを胸に抱いたまま、何度も空を仰いだ。
「……ミタマさん。あのね。描けてよかったって、心から思うの。描くことで、おばあちゃんが……ちゃんと、私の中にいるって分かった」
風が境内を抜ける。白い彼岸花が、そっと揺れた。
「おばあちゃんは……私にとって、“描きたい”と思わせてくれた、最初で最後の人だったのに……。
忘れたふりしてたの、ずっと……」
私は隣で歩きながら、ふと空を見上げる。
夏が終わる予感が、雲の端ににじんでいた。
「でも、思い出したのね」
「うん……描くって、想いを残すってことなんだって。もう、逃げないよ」
彼女はふわりと笑った。
その頬を伝う涙は、もう悲しみではなかった。
「願い札って、すごいね」
「うん。……願いってね、時々、神さまよりも早く、誰かの心に届くの」
彼女は少し驚いたように私を見る。
私はにこりと微笑んで、歩みを進めた。
「それじゃあ、私はここで」
「あ……うん。ほんとうに、ありがとう」
彼女はぺこりと頭を下げて、手を振ってくれる。
私はふと立ち止まり、振り返った。
「描いてね。あなたの“たいせつ”を」
彼女はまるで、その言葉を絵に描くように、胸に刻んでくれた。
──しんとした神社に戻ると、縁側にちゃぶ台がひとつ。
その上には、モナカが買ってきたであろう饅頭と、涼しげな麦茶。
蝉の声が、少し遠くなったような気がした。
私は、白い彼岸花を一輪、床の間の小さな一輪挿しにそっと飾る。
そこに意味を込めることはしない。
ただ、そっと、心の中で願う。
——今日の願いが、ちゃんと叶っていたのなら。
どこか遠くで、「ありがとう」の声が、風に紛れて届いたような気がした。