表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/33

忘れんぼうの願い札

 ある春の日、境内の掃き掃除をしていたモナカのもとへ、のんびりとした足音が近づいてきた。


 「こんにちは~っ、おじいさーん!」


 モナカが声をかけると、白髪の混じったニコニコ顔の老人が、手に一枚の札を持って現れた。年季の入ったベージュの帽子に、くたびれたカーディガン。腰は少し曲がっているけれど、足取りは意外としっかりしている。


 「今日も、願い札を出しに来たんじゃよ」


 おじいさんは、そう言いながら札を差し出してくる。

 モナカは掃いていた竹ぼうきを脇に立てかけて、にこっと笑って受け取った。


 「えへへ、ありがとうございます〜! えっと、どんなお願いごとにしましょうか?」


 すると、おじいさんは「あれ?」と眉を寄せて、しばしうーんとうなった。


 「……なんじゃったかのう……」


 「えっ、忘れちゃったの!?」


 モナカはちょっと驚いた様子で、札を見つめる。けれど何も書かれていない。

 おじいさんは頭をかいて笑った。


 「こりゃあいかんいかん、最近物忘れがひどくてなぁ。たしか、大事なことだった気がするんじゃが……」


 「ん〜……う〜ん……」


 モナカも腕を組んで考えてみるが、答えが出るはずもない。


 そこへ、掃除用の雑巾を干していたミタマがひょこりと顔を出した。


 「またいらしたのですね。いつもありがとうございます」


 「おうおう、お姉さんにも感謝しとるよ〜。ええっと……なんじゃったかのう……」


 「願いごと、ですよね?」


 ミタマがやさしく促すと、おじいさんは「そうそう!」と手を打った。


 「なんじゃったかいのう……」


 また忘れてしまったらしい。


 モナカは思わず笑いながら、手に持った空の札を振った。


 「じゃあ今日の分は“忘れちゃったけど、たぶんいいこと”ってことでどうですか〜?」


 「うんうん、そりゃあええ。そーれ、お願い完了じゃ!」


 そう言って、おじいさんは両手を合わせて神前に一礼した。

 その姿は、どこかすがすがしくて、モナカは思わず見入ってしまう。


 「……なんか、よくわかんないけど、いいなあ……」


 ミタマが横で静かにうなずいた。


 「忘れても、忘れないこともあるのでしょうね」


 そんなことを言いながら、おじいさんは今日も「ありがとさん」と手を振って、のんびりと山道を帰っていった。


 モナカはその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。


 「今日も来てくれたなぁ……なんか、毎日会ってる気がする……」


 春の空気がふわりと香る。

 境内にはまだ桜が名残をとどめ、風に揺れた枝からひとひらの花びらが、願い札の箱にふんわりと落ちた。


 おじいさんは、それからというもの、ほぼ毎日のように神社へやって来た。

 午前中の早い時間、まだ鳥たちの声が響く頃に、のんびりと坂道を上ってくる。


 「やあやあ、今日も来たぞい」


 そう言って現れる姿は、まるでご近所の朝散歩のよう。けれど彼の手には、いつも一枚の新しい願い札が握られている。


 「こんにちは〜っ! 今日のお願い、覚えてますか〜?」


 モナカが顔を出すと、おじいさんは「ええっと……う〜ん」と、毎度のように考え込む。

 その姿にモナカはすっかり慣れてしまい、今日も今日とて笑いながら札を受け取った。


 「よしっ! じゃあ“思い出したら書く”ってことで、箱の横に置いておきますねっ」


 「助かるのう、若いのは気が利いてえらいえらい」


 おじいさんはそう言って頭を撫でてくるのだが、モナカとしては“若い”というより“妖”なので、ちょっぴりくすぐったい気分になる。


 その後もおじいさんは、神社に来るたびに短い話をしていく。

 昨日見た夕焼けがきれいだったこと。スズメが庭に巣を作ったこと。朝ごはんに卵焼きを焦がしてしまったこと。


 「なんか今日、神社が良い匂いするな〜って思ったら、隣の畑でニラ炒めしてたらしいぞい」


 そんなどうでもいい話を、モナカは「へぇ〜っ」と相づちを打ちながら聞いていた。

 話の内容は覚えていないのに、挨拶と願い札だけは欠かさない。

 不思議なリズムで生きているようなおじいさんに、モナカは次第に親しみを感じていく。


 ある日、いつものようにおじいさんが現れた時、モナカは思い切って尋ねてみた。


 「ねえねえっ! おじいさんのお名前って、なんていうの?」


 おじいさんは、にこーっと笑って指をポンと立てた。


 「それがなぁ、わしも今考えとったとこなんじゃ」


 「え〜〜〜っ!? 自分の名前まで忘れちゃったの〜っ!?」


 思わずモナカがひっくり返ると、おじいさんはケタケタと笑って、境内の石段に腰を下ろした。


 「でもの、名前は忘れても、こうしてお参りに来たくなるんじゃよ。不思議なことにのう」


 「……えへへ、それってちょっとうれしいかも」


 モナカは耳をぴこっと動かして、ちょっとだけ誇らしげに言った。


 その様子を、社務所の縁側から見ていたミタマは、静かに微笑んでいた。

 何もないようで、毎日が積み重なっている。

 忘れんぼうのおじいさんが運んできたのは、記憶ではなく、何気ない優しさだった。




 ある午後、空にはぽかぽかとした陽射しが広がり、モナカは社務所の縁側でお昼寝寸前だった。

 ちゃぶ台の上には、おまんじゅうの包み紙と、空になった湯呑み。

 ころんと寝転びながら、モナカはうとうとと、春の風に揺れていた。


 「モナカさん、そろそろ願い札の整理をいたしましょうか」


 ミタマの声に、モナカは「ふぇぇ……」と寝ぼけた返事をしながら体を起こす。


 神社には毎日のように願い札が届く。境内の箱から拾い上げ、古いものは保管し、最近の札を並べて清めるのも、モナカたちの大切な役目だ。


 「じゃあ今日は、え〜っと……おじいさんの札だけまとめてみようかなっ」


 モナカがひときわ分厚い束を取り出して並べ始めると、ミタマも手伝いながら「相当の数ですね……」と少し驚いたように笑った。


 札の裏には日付が書かれている。毎日欠かさず通っているのが、数字の並びからよく分かる。


 「ん〜〜……あれれ? ミタマ、ちょっと見てっ」


 モナカが一枚の札を指差して言った。ミタマは隣に腰を下ろして、札を手に取る。


 「……『ありがとう』……?」


 「これも、『ありがとう』」


 「こっちも……あっ、これもだ!」


 手に取る札すべてに、揃っていたのはただ一言。


 ――『ありがとう』


 他には何も書かれていなかった。筆跡は少しずつ違う。日によって、力強かったり、震えていたり。たまに漢字を間違えていたり、ひらがなだったり。でも、どれもまっすぐだった。


 モナカは、ゆっくりと口を開く。


 「……毎回、忘れちゃうって言ってたけど……本当は、忘れてなかったんだ」


 「……ええ」


 ミタマの声も、どこか震えていた。

 おじいさんは、誰に向けたものかも、何のためだったかも、もうはっきりとは思い出せないのかもしれない。


 でもそれでも、“ありがとう”という気持ちだけは、忘れずに神社に届けていた。


 「ねえミタマ。……モナカ、ちょっと泣きそうかも……」


 モナカが目をこすりながら言うと、ミタマはそっと手を重ねた。


 「泣いてもいいのですよ。あの方の願いは、ちゃんと届いていますから」


 ちゃぶ台の上、並んだ“ありがとう”の札の束は、まるで陽の光をまとった宝物のように見えた。

 外では風が吹き、桜の花びらがひとひら、ふたりの足元へと舞い落ちる。




 翌朝。


 神社の石段を、今日もまた、のんびりとした足取りが上がってくる。

 鳥のさえずり、桜の残り香、境内を包むやさしい風の中に、いつもの声が響いた。


 「やあやあ、来たぞい」


 おじいさんは、今日も帽子を深くかぶって、願い札を片手にやって来た。

 モナカは境内の真ん中で、にこにこしながら待っていた。


 「おじいさんっ! 今日は……どんなお願いか、覚えてますか?」


 すると、おじいさんは札を差し出しながら、ぽりぽりと頬をかいた。


 「ええっとなぁ……う〜ん……」


 「ふふっ」


 モナカは、やさしく笑った。


 「“ありがとう”、ですよ」


 「……おお、そうか。……ありがとう、かぁ」


 おじいさんはしばらく目を細めて、空を見上げた。

 その瞳に、どこか遠い記憶の光が宿る。


 「そうじゃな……わし、ずっと言いたかったんじゃ。あの子に」


 「“あの子”って、誰のことですか?」


 モナカがたずねると、おじいさんはふっと、照れくさそうに笑った。


 「……幼なじみでな。ずっと昔から隣におって、ようけんかもしたけど……最期のときまで、一緒にいてくれたんじゃ」


 「…………」


 「晩年は、わしのほうが物忘れひどくてのう。あの子が毎日、食事も薬も世話してくれてな」


 ぽつぽつと語られる思い出。

 モナカは、言葉を挟まずに聞いていた。


 「……なのに、ちゃんと“ありがとう”って、言えんままじゃった」


 その声は、どこか悔しさと寂しさがにじんでいた。けれど次の言葉は、ゆっくりと笑みに変わる。


 「でも不思議と、ここに来ると、その気持ちだけが浮かんでくるんじゃよ」


 モナカは、その言葉を胸に刻むように、うんうんと強くうなずいた。


 「じゃあ、おじいさん。……その“ありがとう”、モナカたちがちゃんと受け取りましたからね」


 「そうかそうか、届いたか。……ありがとさん、モナカちゃん」


 おじいさんは、そっと両手を合わせた。

 その姿を、ミタマは少し離れた場所から見守っていた。

 その眼差しは、とても静かであたたかかった。


 風が一陣、境内を吹き抜け、どこからともなく花びらが舞う。

 願い札を結ぶ枝に、今日もまた、ひとつの札が揺れている。


 そこには、やさしく、ふるえた筆跡で――


 「ありがとう」


 と書かれていた。




 おじいさんが帰っていったあとの境内。

 空はすっかり春の色に染まり、鳥の声もどこかのんびりしていた。


 モナカは神前に腰を下ろして、空を見上げた。


 「……なんか、ずるいなぁ。大事な人に“ありがとう”って……あんなに素直に言えるなんて……」


 鼻をすんっとすすりながら、ちゃぶ台の方向へ視線を向ける。

 風に揺れる札の束が、まるで小さな物語のように見えた。


 「ねぇミタマ、モナカ、今日ちょっと泣いちゃったかも〜……っ」


 「ふふ……ええ、見ていました」


 縁側で湯呑みにお茶を注ぎながら、ミタマが静かに笑った。


 「でも、泣く必要はありませんよ。おばあさまは、お元気ですから」


 「……え?」


 モナカはぴくりと耳を動かした。


 「おばあさま、今も一緒に暮らしていらっしゃいますよ。おじいさまの家に。

  ただ、あちらも少々耳が遠くなられていて……。たまに、二人で同じ話を何度も繰り返しておられます」


 「ええええええええっっっ!?!?」


 モナカは叫んだかと思うと、そのまま地面にひっくり返って、足をじたばたさせた。


 「うっそ〜〜〜〜〜〜ん!?!? ……え!? じゃあ、じゃあ、さっきの話全部……!?」


 「ええ、全部“毎日伝えている”そうですよ」


 「な〜〜〜んでそれ、先に言ってよぉ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」


 モナカがばたばたしてる横で、ミタマはくすっと笑い、ふうと湯呑みに息を吹いた。


 「でも……毎日“ありがとう”を言うって、素敵ですよね」


 「……うぅ〜……そーゆーとこなんだよぉ、ミタマぁ〜〜……っ」


 涙目のまま、モナカはふにゃっと笑った。


 二人の間に、ふたたび静かな風が吹く。

 桜の花びらがひとひら、願い札の箱にそっと舞い落ちる。


 今日も、明日も――感謝の気持ちは、ちゃんとここに届いている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ