忘れんぼうの願い札
ある春の日、境内の掃き掃除をしていたモナカのもとへ、のんびりとした足音が近づいてきた。
「こんにちは~っ、おじいさーん!」
モナカが声をかけると、白髪の混じったニコニコ顔の老人が、手に一枚の札を持って現れた。年季の入ったベージュの帽子に、くたびれたカーディガン。腰は少し曲がっているけれど、足取りは意外としっかりしている。
「今日も、願い札を出しに来たんじゃよ」
おじいさんは、そう言いながら札を差し出してくる。
モナカは掃いていた竹ぼうきを脇に立てかけて、にこっと笑って受け取った。
「えへへ、ありがとうございます〜! えっと、どんなお願いごとにしましょうか?」
すると、おじいさんは「あれ?」と眉を寄せて、しばしうーんとうなった。
「……なんじゃったかのう……」
「えっ、忘れちゃったの!?」
モナカはちょっと驚いた様子で、札を見つめる。けれど何も書かれていない。
おじいさんは頭をかいて笑った。
「こりゃあいかんいかん、最近物忘れがひどくてなぁ。たしか、大事なことだった気がするんじゃが……」
「ん〜……う〜ん……」
モナカも腕を組んで考えてみるが、答えが出るはずもない。
そこへ、掃除用の雑巾を干していたミタマがひょこりと顔を出した。
「またいらしたのですね。いつもありがとうございます」
「おうおう、お姉さんにも感謝しとるよ〜。ええっと……なんじゃったかのう……」
「願いごと、ですよね?」
ミタマがやさしく促すと、おじいさんは「そうそう!」と手を打った。
「なんじゃったかいのう……」
また忘れてしまったらしい。
モナカは思わず笑いながら、手に持った空の札を振った。
「じゃあ今日の分は“忘れちゃったけど、たぶんいいこと”ってことでどうですか〜?」
「うんうん、そりゃあええ。そーれ、お願い完了じゃ!」
そう言って、おじいさんは両手を合わせて神前に一礼した。
その姿は、どこかすがすがしくて、モナカは思わず見入ってしまう。
「……なんか、よくわかんないけど、いいなあ……」
ミタマが横で静かにうなずいた。
「忘れても、忘れないこともあるのでしょうね」
そんなことを言いながら、おじいさんは今日も「ありがとさん」と手を振って、のんびりと山道を帰っていった。
モナカはその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「今日も来てくれたなぁ……なんか、毎日会ってる気がする……」
春の空気がふわりと香る。
境内にはまだ桜が名残をとどめ、風に揺れた枝からひとひらの花びらが、願い札の箱にふんわりと落ちた。
おじいさんは、それからというもの、ほぼ毎日のように神社へやって来た。
午前中の早い時間、まだ鳥たちの声が響く頃に、のんびりと坂道を上ってくる。
「やあやあ、今日も来たぞい」
そう言って現れる姿は、まるでご近所の朝散歩のよう。けれど彼の手には、いつも一枚の新しい願い札が握られている。
「こんにちは〜っ! 今日のお願い、覚えてますか〜?」
モナカが顔を出すと、おじいさんは「ええっと……う〜ん」と、毎度のように考え込む。
その姿にモナカはすっかり慣れてしまい、今日も今日とて笑いながら札を受け取った。
「よしっ! じゃあ“思い出したら書く”ってことで、箱の横に置いておきますねっ」
「助かるのう、若いのは気が利いてえらいえらい」
おじいさんはそう言って頭を撫でてくるのだが、モナカとしては“若い”というより“妖”なので、ちょっぴりくすぐったい気分になる。
その後もおじいさんは、神社に来るたびに短い話をしていく。
昨日見た夕焼けがきれいだったこと。スズメが庭に巣を作ったこと。朝ごはんに卵焼きを焦がしてしまったこと。
「なんか今日、神社が良い匂いするな〜って思ったら、隣の畑でニラ炒めしてたらしいぞい」
そんなどうでもいい話を、モナカは「へぇ〜っ」と相づちを打ちながら聞いていた。
話の内容は覚えていないのに、挨拶と願い札だけは欠かさない。
不思議なリズムで生きているようなおじいさんに、モナカは次第に親しみを感じていく。
ある日、いつものようにおじいさんが現れた時、モナカは思い切って尋ねてみた。
「ねえねえっ! おじいさんのお名前って、なんていうの?」
おじいさんは、にこーっと笑って指をポンと立てた。
「それがなぁ、わしも今考えとったとこなんじゃ」
「え〜〜〜っ!? 自分の名前まで忘れちゃったの〜っ!?」
思わずモナカがひっくり返ると、おじいさんはケタケタと笑って、境内の石段に腰を下ろした。
「でもの、名前は忘れても、こうしてお参りに来たくなるんじゃよ。不思議なことにのう」
「……えへへ、それってちょっとうれしいかも」
モナカは耳をぴこっと動かして、ちょっとだけ誇らしげに言った。
その様子を、社務所の縁側から見ていたミタマは、静かに微笑んでいた。
何もないようで、毎日が積み重なっている。
忘れんぼうのおじいさんが運んできたのは、記憶ではなく、何気ない優しさだった。
ある午後、空にはぽかぽかとした陽射しが広がり、モナカは社務所の縁側でお昼寝寸前だった。
ちゃぶ台の上には、おまんじゅうの包み紙と、空になった湯呑み。
ころんと寝転びながら、モナカはうとうとと、春の風に揺れていた。
「モナカさん、そろそろ願い札の整理をいたしましょうか」
ミタマの声に、モナカは「ふぇぇ……」と寝ぼけた返事をしながら体を起こす。
神社には毎日のように願い札が届く。境内の箱から拾い上げ、古いものは保管し、最近の札を並べて清めるのも、モナカたちの大切な役目だ。
「じゃあ今日は、え〜っと……おじいさんの札だけまとめてみようかなっ」
モナカがひときわ分厚い束を取り出して並べ始めると、ミタマも手伝いながら「相当の数ですね……」と少し驚いたように笑った。
札の裏には日付が書かれている。毎日欠かさず通っているのが、数字の並びからよく分かる。
「ん〜〜……あれれ? ミタマ、ちょっと見てっ」
モナカが一枚の札を指差して言った。ミタマは隣に腰を下ろして、札を手に取る。
「……『ありがとう』……?」
「これも、『ありがとう』」
「こっちも……あっ、これもだ!」
手に取る札すべてに、揃っていたのはただ一言。
――『ありがとう』
他には何も書かれていなかった。筆跡は少しずつ違う。日によって、力強かったり、震えていたり。たまに漢字を間違えていたり、ひらがなだったり。でも、どれもまっすぐだった。
モナカは、ゆっくりと口を開く。
「……毎回、忘れちゃうって言ってたけど……本当は、忘れてなかったんだ」
「……ええ」
ミタマの声も、どこか震えていた。
おじいさんは、誰に向けたものかも、何のためだったかも、もうはっきりとは思い出せないのかもしれない。
でもそれでも、“ありがとう”という気持ちだけは、忘れずに神社に届けていた。
「ねえミタマ。……モナカ、ちょっと泣きそうかも……」
モナカが目をこすりながら言うと、ミタマはそっと手を重ねた。
「泣いてもいいのですよ。あの方の願いは、ちゃんと届いていますから」
ちゃぶ台の上、並んだ“ありがとう”の札の束は、まるで陽の光をまとった宝物のように見えた。
外では風が吹き、桜の花びらがひとひら、ふたりの足元へと舞い落ちる。
翌朝。
神社の石段を、今日もまた、のんびりとした足取りが上がってくる。
鳥のさえずり、桜の残り香、境内を包むやさしい風の中に、いつもの声が響いた。
「やあやあ、来たぞい」
おじいさんは、今日も帽子を深くかぶって、願い札を片手にやって来た。
モナカは境内の真ん中で、にこにこしながら待っていた。
「おじいさんっ! 今日は……どんなお願いか、覚えてますか?」
すると、おじいさんは札を差し出しながら、ぽりぽりと頬をかいた。
「ええっとなぁ……う〜ん……」
「ふふっ」
モナカは、やさしく笑った。
「“ありがとう”、ですよ」
「……おお、そうか。……ありがとう、かぁ」
おじいさんはしばらく目を細めて、空を見上げた。
その瞳に、どこか遠い記憶の光が宿る。
「そうじゃな……わし、ずっと言いたかったんじゃ。あの子に」
「“あの子”って、誰のことですか?」
モナカがたずねると、おじいさんはふっと、照れくさそうに笑った。
「……幼なじみでな。ずっと昔から隣におって、ようけんかもしたけど……最期のときまで、一緒にいてくれたんじゃ」
「…………」
「晩年は、わしのほうが物忘れひどくてのう。あの子が毎日、食事も薬も世話してくれてな」
ぽつぽつと語られる思い出。
モナカは、言葉を挟まずに聞いていた。
「……なのに、ちゃんと“ありがとう”って、言えんままじゃった」
その声は、どこか悔しさと寂しさがにじんでいた。けれど次の言葉は、ゆっくりと笑みに変わる。
「でも不思議と、ここに来ると、その気持ちだけが浮かんでくるんじゃよ」
モナカは、その言葉を胸に刻むように、うんうんと強くうなずいた。
「じゃあ、おじいさん。……その“ありがとう”、モナカたちがちゃんと受け取りましたからね」
「そうかそうか、届いたか。……ありがとさん、モナカちゃん」
おじいさんは、そっと両手を合わせた。
その姿を、ミタマは少し離れた場所から見守っていた。
その眼差しは、とても静かであたたかかった。
風が一陣、境内を吹き抜け、どこからともなく花びらが舞う。
願い札を結ぶ枝に、今日もまた、ひとつの札が揺れている。
そこには、やさしく、ふるえた筆跡で――
「ありがとう」
と書かれていた。
おじいさんが帰っていったあとの境内。
空はすっかり春の色に染まり、鳥の声もどこかのんびりしていた。
モナカは神前に腰を下ろして、空を見上げた。
「……なんか、ずるいなぁ。大事な人に“ありがとう”って……あんなに素直に言えるなんて……」
鼻をすんっとすすりながら、ちゃぶ台の方向へ視線を向ける。
風に揺れる札の束が、まるで小さな物語のように見えた。
「ねぇミタマ、モナカ、今日ちょっと泣いちゃったかも〜……っ」
「ふふ……ええ、見ていました」
縁側で湯呑みにお茶を注ぎながら、ミタマが静かに笑った。
「でも、泣く必要はありませんよ。おばあさまは、お元気ですから」
「……え?」
モナカはぴくりと耳を動かした。
「おばあさま、今も一緒に暮らしていらっしゃいますよ。おじいさまの家に。
ただ、あちらも少々耳が遠くなられていて……。たまに、二人で同じ話を何度も繰り返しておられます」
「ええええええええっっっ!?!?」
モナカは叫んだかと思うと、そのまま地面にひっくり返って、足をじたばたさせた。
「うっそ〜〜〜〜〜〜ん!?!? ……え!? じゃあ、じゃあ、さっきの話全部……!?」
「ええ、全部“毎日伝えている”そうですよ」
「な〜〜〜んでそれ、先に言ってよぉ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
モナカがばたばたしてる横で、ミタマはくすっと笑い、ふうと湯呑みに息を吹いた。
「でも……毎日“ありがとう”を言うって、素敵ですよね」
「……うぅ〜……そーゆーとこなんだよぉ、ミタマぁ〜〜……っ」
涙目のまま、モナカはふにゃっと笑った。
二人の間に、ふたたび静かな風が吹く。
桜の花びらがひとひら、願い札の箱にそっと舞い落ちる。
今日も、明日も――感謝の気持ちは、ちゃんとここに届いている。