雨の日の約束
しとしと、しとしと──。
薄灰色の雲が空を覆い、神社の境内を優しく濡らしていた。
葉の上で踊る雨粒、軒下を滑り落ちる雫。
静かな雨音が、まるで古びた社の鼓動のように響いている。
その神社の拝殿横、小さな軒下に、一組の子どもが立っていた。
少年と少女。まだ小学校の高学年ほどだろうか。
「……来てくれたんだ」
先に立っていた少年が、濡れた髪を払うようにして笑った。
「そっちこそ。こんな天気なのに、バカみたい」
少女は照れ隠しのように口をとがらせる。けれど、どこか楽しそうだった。
彼らの姿を、社の屋根裏からこっそり覗き見ていたのは──もちろん、モナカとミタマ。
「おっ、これはこれは! 青春のかほりがいたしますぞぉ、ミタマ殿!」
「はいはい、ちょっと静かにして」
ミタマは扇を小さく開き、ふっと目を細める。
雨の音と、ふたりの気配。まだ名前も知らぬ彼らの関係性を、そっと観察するように見つめていた。
傘を忘れてしまったのか、二人は軒下から動けずにいた。
けれど、どちらもそれを困った様子ではない。むしろ──。
「……また雨の日だね」
ぽつりと、少年がつぶやいた。
少女は頷く。
「うん。去年も、ほら……君が転校する前の日も、雨だった」
「覚えてたんだ」
「そりゃ、覚えてるよ。……傘、一緒に入ってくれたし」
ふたりの間に、懐かしい雨音が落ちてくる。
あの日の記憶と、今日の景色が重なって、どちらも少し顔を赤らめていた。
モナカがぽそっと呟く。
「ねぇミタマ、こういうのって……“恋”なの?」
「まだそこまでは行ってないんじゃないかしら。でも──」
ミタマは、そっと手のひらを開いた。
「芽は、ちゃんとあるわね」
雨音が強くなった。
けれど、不思議と心地いい。
それはたぶん、ふたりの距離が“雨”に守られているからかもしれない。
「ねぇ」
ふと、少女が口を開いた。
「今度、またこっち戻って来たらさ……、この神社、また一緒に来てくれる?」
「えっ……」
「や、約束とかじゃなくて……その……なんとなく、言ってみただけ」
焦ったように視線を逸らす少女。
けれど少年は、真っ直ぐに彼女の顔を見て──笑った。
「……うん。俺、この神社、好きだし。……また来るよ。きっと、すぐ」
それは“願い”にも、“誓い”にも似た優しい言葉。
軒下で交わされた、ささやかな約束。
屋根裏のモナカは、顔をほんのり赤くしてくねくねしていた。
「うわぁ〜〜〜〜……! これ、きたよミタマ! これ、青春ってやつ!」
「落ち着きなさい」
ミタマは微笑んで、指先を拝殿の柱にそっと当てる。
そこには、今日吊るされたばかりの木札が、雨に濡れながらも静かに揺れていた。
──『また、ここに来られますように』
それが、ふたりのどちらの願いかは分からない。
けれど、確かにその札は“あたたかい気持ち”を宿していた。
そして、雨の音がそっと包み込むように鳴り響いていた。
ぽちゃん──と。
大きめの雨粒が跳ねたのは、古びた傘が風で煽られた瞬間だった。
「あっ!」
少女の手から傘が飛んだ。
それを追うように、少年が思わず駆け出す。
転びそうになりながらも片手でなんとか受け止め、ずぶ濡れになったまま、彼は笑った。
「へへっ、セーフ!」
「バカっ、濡れるでしょ!」
少女が駆け寄り、袖で少年の髪を拭う。
彼の顔はすっかり濡れていたけれど、目だけはどこか嬉しそうで。
その光景を、拝殿の梁の上で見守っていたモナカは、ほわぁ……っと感嘆の息を漏らした。
「ミタマ……これってもう、“尊い”って言っていいやつだよね……?」
「ふふ、言ってもいいわ。……というより、私も言いたいくらい」
ミタマは、濡れた傘の動きをなぞるように、扇をそっと広げた。
すると、細く柔らかな風が吹き、傘の骨が自然に収まっていく。
「おっ、さりげなく助け舟!」
「目立たないようにね。……あくまで“偶然”に」
二人は、相合い傘で歩き出した。
ぴったりと肩を寄せ合って、ふたりで一本の傘を支えて。
その姿は、まるで昔からずっと一緒に歩いていたかのように自然だった。
「……濡れてない?」
「そっちこそ、もうちょっと寄ってよ」
「……おっけ」
雨音の中、たわいない会話がぽつりぽつりと続く。
でも、何気ないそのやりとりの中に、これまでの時間の積み重ねが見えるようだった。
──戻って来る。
──また会える。
その未来を信じられるような、静かな確信。
傘の下に流れる時間は、雨の日特有の優しいスローモーションだった。
しばらくして、二人が見えなくなった参道。
そこに静かに降る雨の音が、また境内に戻ってきた。
モナカとミタマは社の柱に並んで腰を掛け、しばし余韻に浸っていた。
「ねぇミタマ、さっきの子たち……ほんとにまた来てくれるかな?」
「ええ、きっと来るわ。……願い札にも、そう書いてあった」
「そっか……じゃあ……私、覚えておく」
モナカが自分の胸をとん、と叩く。
「いつか、またあの子たちが来たときに、“あの雨の日の約束”って、ちゃんと伝えられるように」
「うん。それが、私たちにできる“叶え方”ね」
二人はそっと微笑み合った。
そして社殿に戻ると、雨に濡れた参道を見下ろしながら、小さな札を一枚だけ吊るし直した。
──『また、ここに来られますように』
それは誰の筆跡か、分からない。
けれど、雨音がそっと包み込み、風が優しく揺らしていた。
モナカが呟いた。
「ねぇミタマ……雨の日って、なんか泣きたい気分になるの、どうしてかな?」
「それはね、心がちょっとだけ“ゆるむ”からよ。……泣いても、気づかれないから」
「そっか……優しいんだね、雨って」
しとしと、しとしと──。
雨はまだ止まない。
けれど、願い札の下で揺れる二匹の尻尾だけは、晴れた日のようにふんわりと、揺れていた。