じぶんの道
秋が深まりかけた神社の境内。
落ち葉の舞う石段の途中に、ひとりの少女が座っていた。制服のブレザーは深い藍色、肩には鞄の紐。まだ下校途中なのだろう。
その手に、彼女は白い紙を一枚、そっと差し出すように置いた。願い札。
筆跡は整っていて、消し跡もない。だけど、書かれた言葉は震えていた。
「進む道を選ぶって、そんなに簡単なことなんですか」
風がその文字をなぞるように吹き抜けた。
「……あれ? この字、さっき貼られてたやつだよね?」
拝殿の屋根の上から、モナカがひょいっと顔を出す。きらきらとした陽の光を反射する金色の髪、軽やかに舞う尾の気配は今日も元気そうだ。
「モナカね、てっきり“登山道”とか“通学路”の話かと思ってたけど……なんか違う?」
少女は驚いたように顔を上げたが、すぐに視線を落とした。
応える代わりに、指先で紙をなぞるようにする。
その様子に、そっとミタマが現れる。木漏れ日の中に浮かぶように、静かな銀髪が揺れた。
「こんにちは。……よろしければ、ここでお話しませんか?」
その声に、少女はようやく頷いた。
ゆっくりと、木のベンチに腰を下ろす。周囲には誰もいない。鳥のさえずりと、遠くの下校チャイムだけが、世界を包んでいた。
「あなたが書いた、その札の言葉──ずっと迷ってきた気持ちが、よく伝わってきました」
「……」
少女は目を伏せたまま、言葉を絞り出す。
「進路の紙……出してなくて。クラスで、私だけなんです。まだ白紙で……」
「しんろ?」とモナカが小声で繰り返す。
「あ、あれか! “高校卒業したらどこ行きますかチェック表”! モナカも神社卒業したらどこ行くか考えなきゃだね!」
その無邪気な発言に、少女がふっと小さく笑った。
でもその笑顔はすぐに影を落とす。
「……お父さんが言った学校に行くのが、当たり前だと思ってた。ずっと、それで何も言われなかったし、怒られなかった。私、そういうの、ちゃんとやる子だったから」
ミタマが、そっと耳を傾ける。
「でも、進路希望の紙をもらって……“第一志望”“第二志望”って書く欄を見て、急に、怖くなったんです。
自分で書いたら、間違えるかもしれない。間違えたら、後悔するかもしれない。……だから、書けなくて」
少女の手が膝の上で、ぐっと握られる。
「でも、出さないのも変ですよね。なんでみんな、スラスラ書けるのかな……って。私、そんなの、わからないのに」
「わかるよぉ……」とモナカが声を上げる。
「モナカなんて“好きなこと”って欄で、“おやつとおひるねと人間観察”って書いてたらミタマに怒られたもん!」
「怒ってないわよ。訂正を促しただけ」
「それ怒ってるのと一緒だよー!」
ふたりのやりとりに、少女が少しだけ肩の力を抜いた。
だけど──心の奥の不安は、まだほどけていない。
選ぶことの責任。間違えることの恐怖。
そして、自分の人生を“自分の手で書く”という未知の行為。
少女の瞳の奥には、そんな不安が深く沈んでいた。
「……だからね、出さなきゃ、って思うんですけど。怖いんです」
少女──玲奈は、視線を落としたまま、ぽつりぽつりと言葉をこぼした。
「お父さんに言われたところに行けば、怒られない。
誰にも責められない。……うまくいかなくても、私のせいにならない」
手元の制服の裾を、ぎゅっと握る。
声には震えはなかったけれど、その言葉の奥には、まるで身体を小さく折りたたんでしまいたくなるような気配があった。
「でも、自分で決めたら……うまくいかなかったら、“なんでそんな道を選んだんだ”って、言われる気がして」
ミタマは黙って頷く。
玲奈は続けた。
「進学先とか、将来とか、やりたいこととか……そんなの、ちゃんと考えたことないんです。ずっと、決められた道をそのまま、ちゃんと歩いてきたつもりだから」
──“自分の足で道を踏む”という感覚そのものが、彼女にはなかったのだ。
「……選ばなきゃよかったって、あとから思いたくないんです」
まるでそれが、取り返しのつかない罪であるかのように。
モナカが、思わず口を開く。
「えっ、それってさっ……“間違えたら全部おしまい”って思ってるってこと?」
玲奈はぴくりと反応した。
「……でも、そんなの──」
「モナカはさ、この前“夜ごはんのおかず、唐揚げ!”って選んだら、冷蔵庫にお肉なくて泣いたよ?」
「……は?」
「でね、しょーがないからお揚げで作ったら、なんかすっごく美味しくて! 結果オーライだった!」
「……それ、全然ちが……」
「ちがくないもんっ! 選んだら、お肉なかった。でも作ってみたら、べつの美味しいのができた。
ねっ、ミタマ!」
不意に話を振られたミタマが、目を細めて口元に手を当てた。
「たしかに、あれは美味しかったわね……味付けは私が全部したけれど」
「えへへーっ♪」
玲奈が──小さく笑った。
でも、その後で、ぽつりと呟いた。
「……でも私、そんなふうに思えない。選ぶって、もっと怖いことだから。
“将来”って、唐揚げより重いじゃないですか……」
ミタマがふっと目を伏せた。
そして、静かに問いかける。
「……玲奈さん。ひとつ、質問してもいいかしら」
「はい」
「あなたがこれまで歩いてきた“決められた道”は──本当に、間違いのなかった人生だったと思いますか?」
「え……?」
「失敗はなかった? 後悔も、迷いも?」
玲奈は、言葉を詰まらせた。
──そうだ。小学生の頃、習いごとがきつくて泣いたこと。
中学生の頃、行きたくなかった部活に選ばれてしまったこと。
“自分で選ばなかった道”にも、たしかに小さな後悔はあった。
なのに今は、「選んだら後悔する」と、そう思い込んでいた。
ミタマは続ける。
「誰かが決めた道をそのまま歩くのも、自分で選ぶのも、どちらも“選択”なのよ。
けれど、“何も選ばない”ということは──未来から、あなた自身を遠ざけることにもなる」
「……でも、それでも、やっぱり」
玲奈の声が揺れる。
「間違えたら、どうしようって……」
「そしたら、モナカと一緒に謝りにいこう!」
モナカが、両手を挙げてぴょこんと立ち上がる。
「“道まちがえましたー!”って、のぼり旗立てながら行けば、許してもらえるかもっ!」
「……はは」
玲奈が、声を出して笑った。
涙が、少しだけ滲んでいた。
次の日の放課後、玲奈は再び神社を訪れていた。
昨日より少しだけ軽い足取りで。
制服のポケットには、折りたたまれた進路希望調査票が入っている。
でも、それを出すでもなく、ただ手の中でくしゃくしゃにしながら、境内の隅で佇んでいた。
「今日もきてくれて、うれしいな〜♪」
拝殿の影から、モナカが元気よく現れる。
手には大福がふたつ。
玲奈の前に差し出すと、「ん〜、ひとくちだけ……」と言いながら、思わず笑って受け取った。
日が傾くころ、ミタマも静かに現れる。
風に揺れる銀の髪が、淡い夕日を受けてやさしく光っていた。
「少し、歩きませんか?」
誘われて、玲奈は頷く。
三人で神社の裏手、小さな山道のような小径を歩く。
足元には落ち葉、頭上にはまだ色づききらない木の葉の影。
「……ミタマさん」
「はい」
「昨日の言葉……“何も選ばないことが、未来から自分を遠ざける”って……それ、ほんとにそうなんですか」
立ち止まり、玲奈が訊ねた。
ミタマはふっと、足元の道を見つめた。
「ええ。私たちは皆、“何かを選びながら”生きています。
それは、今いる場所にとどまることも含めて──すべて、選択です」
少し沈黙があって、玲奈が訊ねた。
「ミタマさんは……どうして神社にいるんですか。選んだんですか? ここに残るって」
「ええ、選びました。
誰かに言われたわけでも、道が決まっていたわけでもない。
でも……それが“正しかったかどうか”は、今もわかりません」
玲奈の目が、少しだけ見開かれる。
「それでも、選んだからこそ、こうしてモナカや、あなたと出会えた。
間違いじゃなかったと思えるのは、きっと“あとから”なんです」
「……あとから」
その言葉を反芻するように呟いた玲奈の目に、またわずかな揺らぎが宿る。
「間違えてもいいって、頭ではわかってるんです。
でも、誰かに“ほらね”って言われるのが、こわい。
“だからやめておけって言っただろう”って言われるのが、いちばんこわいんです」
吐き出したそれは、ずっと胸の中に閉じ込めてきた本音だった。
反抗でも自我でもなく、ただ「責められる未来」が怖くて、動けなくなっていた。
モナカが足元にしゃがみこむ。
「でもさっ、それって“今の玲奈ちゃん”が頑張ろうとしてる証拠じゃない?」
「え……?」
「ほんとに無関心なら、“誰かに決めてもらえばいい”って思うだけで、迷ったりしないと思うもん!
迷ってるってことは、“自分でやってみたい気持ち”が、あるってことだよ!」
玲奈はその言葉を聞いて、ぎゅっと唇を噛んだ。
胸の奥にあった何かが、ぽろりと零れ落ちる音がしたような気がした。
木々の隙間から、町の景色が見える。
通っている学校、塾のビル、昔よく遊んだ公園──
そこに繋がる道は、ひとつじゃなかった。
「……ちょっとだけ、書いてみようかな」
玲奈はポケットから、しわくちゃの進路票を取り出した。
「“これが正しい”とかじゃなくて、“今の私が書きたいこと”だけでも──」
ミタマは、静かに微笑む。
「それが、“あなた自身の道”よ」
日が沈みかけた神社の境内。
朱塗りの鳥居が長い影を落とし、夕焼けが社の屋根をほんのり染めていた。
玲奈は進路票をもう一度開くと、空欄の欄に、丁寧な字でひとことだけ書き込んだ。
──「小さい子に勉強を教えるのが、すきです」──
志望校欄は、まだ空白のまま。
でも、それでよかった。
それが、彼女の“最初の一歩”だったから。
「……よし」
立ち上がって、紙を丁寧にたたむ。
その様子を見ていたモナカが、ぱっと手を叩く。
「よーし! じゃあそれ、紙ひこうきにしよっ!」
「えっ」
「だいじょーぶ、風向きはモナカにまかせて!」
笑いながら紙飛行機に折ってしまうモナカ。玲奈があたふたしてる間に、すでに拝殿の階段に登っていた。
「……せーのっ!」
モナカが放った紙飛行機は、ふわりと空を舞った。
神社の石段を越え、鳥居を抜けて、夕空のなかをしばらく滑空して──そして、優しく落ちていった。
玲奈は笑って、でもほんの少し、目元を拭った。
「……落ちた」
「じゃあ、拾いに行かなきゃね」
ミタマのその言葉に、玲奈はこくんと頷いた。
鞄を背負い直し、ゆっくりと歩き出す。
遠くで、下校中の生徒たちの声が聞こえる。
明日は、あの紙を、先生に渡そう。
間違えてもいい。あとでやり直してもいい。
きっと私は、“自分で選んだこと”を、あとから「よかった」って言えるようになれる。
そう、思えた。




