うまく笑えたら
夏の昼下がり、蒸し暑さの残る神社の境内には、蝉の声が賑やかに響いていた。
日陰に入れば木々の風が涼しいが、石畳や鳥居の朱はじりじりと陽に焼かれている。
そんな中、ひとりの女性が階段を上ってきた。
手には小ぶりな弁当袋。半袖のスーツに身を包んだ姿は、いかにもクールビズの出で立ち。
彼女は拝殿で軽く一礼したあと、絵馬とは別に並べられた願い札の棚へと歩き、ためらいなく筆を取る。
──「転職先で、うまく笑えますように」
その札をそっと手に取ったモナカは、ちゃぶ台の上で小さく声をあげた。
「ねえミタマ、これ……なんか、ぐってしない?」
狐耳をぴくりと揺らして、モナカは札をひらひらと掲げる。
ちゃぶ台には麦茶とどら焼き、そして冷やした飴玉の瓶。ミタマはうちわを静かにあおぎながら、目を細める。
「転職か……この暑さの中で、頑張っているのね」
札に記された文字は、力強さよりもどこか優しげで、でも緊張の滲むような筆致だった。
「『うまく笑えますように』って……うーん。なんか、“願いごと”っていうより、“呟き”みたいな感じだよね」
「きっとこの方は、“笑いたい”のではなく、“笑えるようになりたい”のよ」
ミタマの声は、風鈴の音のようにやわらかい。
誰かに気を遣っているわけでもない。
ただ、自分の気持ちに正直になれない。そんな心の揺れが、この札にはそっと滲んでいた。
ベンチに座った女性は、蝉の声に耳を澄ませるように、小さく呼吸を整えていた。
持参したお弁当の包みをほどき、ひと口だけ箸を進めたあと、ぽつりと目線を伏せる。
「……あの人だね。札、書いてた人!」
モナカは立ち上がり、手にどら焼きと小さなおにぎりを握ると、くるりと振り返った。
「ミタマ、ちゃぶ台あとお願いねー!」
「ええ。私は、涼しいところから見守っているわ」
ぱたぱたと駆けていくモナカの足音と、遠くで鳴くアブラゼミの声が、夏の空に交差していた。
ベンチの端に腰かけていた女性のもとに、モナカは迷うことなく歩み寄った。
「ねえねえ、そこ、あいてる?」
いきなりの声に、女性は驚いたように顔を上げた。
狐耳も尻尾も隠している“人間モード”のモナカは、どこにでもいる普通の少女──に見える。
ただその笑顔は、あまりにもまっすぐで、まるで真夏の太陽みたいだった。
「え、あ……はい。どうぞ」
「やったー! ここ、日陰で気持ちいいよね〜!」
当たり前のようにどら焼きを頬張りながら、モナカは女性の横にちょこんと座る。
うちわも持たず、汗もかいているくせに、なんだか楽しそうだ。
「お弁当、手作り? かわいい包みだね!」
「えっ……あ、はい。昨晩、なんとか……」
女性はうろたえながらも答え、モナカに釣られて小さく笑った。
その笑みはほんの一瞬だったが、確かに柔らかい光を帯びていた。
「新しい職場って、緊張するよねー。モナカ、そういうときすーぐお腹痛くなるタイプ!」
「……ふふ。私も、初日にお腹壊しました」
モナカは「おおーっ」と手を叩いて共感し、大きなおにぎりをひと口でぱくり。
女性は自然と笑みを深める。
「ね、あの願い札……書いたの、もしかしてお姉さん?」
「え? あ……見てたの?」
「うんっ、見ちゃった!」
女性は少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「なんか、“ちゃんと馴染んでます”って顔しなきゃって思うんだけど……
笑顔って、意外とむずかしいんですね」
こぼれるような本音だった。
モナカは黙って、袋からもうひとつどら焼きを取り出した。
それを半分に割って、ひとつを女性の手に乗せる。
「じゃあさ、今日の笑顔はモナカが引き出したってことで!」
「……え?」
「うん。ほら、今ちょっと笑ったでしょ? モナカ、それ見逃してないもんっ」
女性は呆気に取られたようにどら焼きを見つめたあと、小さく吹き出した。
「なんか……変な子ですね、あなた」
「よく言われる!」
そのタイミングで、ミタマが静かに現れる。
団扇を軽くたたみ、ふたりのそばに歩み寄ると、女性に向かって穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。驚かせてしまってごめんなさい。……あなたの願い札、私も読ませていただきました」
「……え?」
「“笑いたい”というのと、“笑えるようになりたい”というのは、似ているようで、少し違います」
「無理をして誰かの顔色を見て浮かべる笑顔より……今日、あなたが浮かべたこの笑顔のほうが、ずっと素敵ですよ」
その声は、蝉の喧騒の中にあっても、不思議と耳にすっと届いた。
女性はどら焼きをひと口だけかじり、ぽつりとつぶやく。
「……ありがとうございます」
心の奥で、何かが少しほぐれていくのを感じた。
蝉の鳴き声が遠くで重なり合い、少しずつ日差しが傾きはじめていた。
境内の石畳には木々の影が伸びて、風が吹くたびに葉の影が揺れる。
女性は、ふと遠くを見つめながら、小さく呟いた。
「……子どもの頃、父がよく言ってたんです。“お前の笑顔はいいな”って」
モナカは隣でどら焼きをもぐもぐと頬張っていたが、その言葉にはちゃんと耳を傾けていた。
「私、自分の笑顔が取り柄なんだと思ってました。
だから、新しい職場でもちゃんと笑って、雰囲気を明るくして、みんなとうまくやっていかなきゃって……」
女性は言いながら、うっすら笑みを浮かべようとした。けれど、その表情はどこかぎこちなくて、少しだけ眉が下がっていた。
「でも……笑おうとすればするほど、自分が遠くなっていく感じがして。
“今の自分の笑顔って、誰のためのものなんだろう”って……ふと、思っちゃって」
モナカは口元についたどら焼きのあんこを指でぺろりと舐めながら、隣にそっと寄った。
「うーん、それってさ、きっと“笑顔が好き”だから悩んじゃうんだと思うなー。
モナカも、笑顔見るのだーいすき!」
女性は目を丸くして、くすっと笑った。
「……あなた、ほんと変な子ね」
その時、ミタマがうちわを静かに閉じた。
膝を折って女性の正面に座ると、まっすぐに目を見て語りかける。
「その笑顔を、“いいね”と褒めてくれたお父様の言葉。
あなたは今も、それをちゃんと大切に覚えている。それだけで十分よ」
女性は、一瞬だけ目を見開いた。
「笑顔は、相手のために作るものではなく、自分の心があたたかくなった時に自然とあふれるもの。
だから、あなたが今、“うまく笑えない”って思っているのは──
“ちゃんと、自分の笑顔に向き合っている”って証でもあるわ」
その言葉は、静かな風のようだった。
押しつけでも、慰めでもない。けれど、胸の奥にすうっと入りこんできて、冷たく固まっていた不安を、ゆっくり溶かしていく。
「……なんか、それ、すごく……」
女性の喉がかすかに震えた。
「すごく、嬉しいです」
頬に汗が流れていたのか、それとも少しだけ涙だったのか。
彼女はそっと目元をぬぐい、どら焼きをもうひと口、口に運んだ。
「モナカはねっ!」
突然、声のトーンが跳ね上がった。
ミタマとのしっとりした空気をぶち破るように、モナカが手を上げて宣言する。
「今日の笑顔、ぜったい忘れないようにするねっ! “すっごくいい笑顔だった”って、モナカも言いたいから!」
女性は吹き出すように笑った。
「……ほんと、変な子。変だけど……ありがとね」
その笑顔は、さっきよりずっと自然で、やわらかかった。
弁当の包みを畳み終えた女性は、そっと立ち上がった。
手には空になった水筒、そして半分残ったどら焼き。
何かを残すように、それを小さくかじってから、彼女は静かに拝殿へと向かった。
蝉の声はまだ止まない。けれどその中で、彼女の足取りはどこか軽やかだった。
社の前で、深く一礼する。
それは誰に向けたものか、たぶん本人にもよく分からない。
ただこの神社に立ち寄り、ふたりの見知らぬ誰かと話したことで、少しだけ心が温かくなった──それが、自然とそうさせたのかもしれない。
モナカはというと、ちゃぶ台の陰に戻ってきていた。
さっきの笑顔を思い出して、頬をくすぐるようににやにやと笑っている。
「ね、ミタマ。やっぱりさー、笑顔っていいよね!」
「ええ。笑顔は、言葉よりもずっと深く、その人の心を映すものだから」
ミタマは、境内に結ばれた願い札を一枚そっと撫でる。
その札には、変わらず丁寧な文字で、こう書かれていた。
──「転職先で、うまく笑えますように」
その文面の隣に、新たな札がひとつだけ増えていた。
同じ筆跡で、けれど少しだけ筆圧が強い。
──「今日、ちゃんと笑えました。ありがとう」
「……ふふっ」
ミタマの微笑みに、モナカが首を傾げた。
「どうしたのー?」
「ううん。……願いごとは、叶えるためだけのものじゃないのかもしれないわね」
「んー? どういうこと?」
「きっと、“願える”ってこと自体が、もう一歩を踏み出せた証なのよ」
「……なるほど?」
モナカはよく分からないまま頷いて、それでもなんとなく分かった気になった。
神社の階段を下りていく女性の背中は、陽の光を受けて淡くにじんでいた。
その姿を見届けてから、モナカはふわっと息をつく。
「モナカも、あんな風に誰かの願いに寄り添えるようになりたいなぁ」
「もう、なっていると思うわよ」
ミタマの声に、モナカはにぱっと笑って応える。
「えへへっ、そっか!」
境内には、蝉の声と、風鈴の音が重なって響いていた。
その日、神様のいない神社には、確かに誰かの願いが届いていた。