表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/33

変わらないよ

 病室は、静かだった。

 夜の帳が降りてから、もうずいぶん経つ。

 天井の小さな灯りだけがぼんやりと点いていて、眠りを誘う空気の中、少女はまだ目を閉じたまま、じっとその気配を待っていた。


 やがて、空気の振動が少しだけ変わる。


「……来てくれたんだね」


 少女が小さく、でも確かに微笑む。


「うん。今日も来たよ」


 優しい少年の声が返ってくる。

 その声は、落ち着いていて柔らかく、少し年下に感じる響き。

 けれど、どこか懐かしいような、不思議な安心感があった。


「今日ね、リハビリ室でバランスボールに乗ったんだけど、転がって壁に激突した」


「えっ、大丈夫だったの?」


「うん。ちょっとだけおでこぶつけたけど、まぁ、それも思い出ってことで」


「わざわざ思い出にしなくていいやつだよ、それ」


 少女がくすっと笑うと、声の主もつられて笑った。

 何度も交わしてきた、たわいない会話。

 それは、名前も顔も知らない相手との、かけがえのない時間だった。


 


 少女は、交通事故で視力を失った。


 医師の診断は「回復の見込みはある」。でも、それがいつかは分からない。

 真っ暗な世界で目覚めた日のことを、少女は今でもはっきり覚えている。


 そして、そんな日々の中に、彼の声が現れた。


 どこから来て、誰なのかは分からない。けれど、なぜか怖くはなかった。

 最初は戸惑ったけれど、その声に出会った瞬間から、世界が少しだけやわらかくなった気がした。


「君って、不思議な人だよね」


「どんなふうに?」


「気配が薄いっていうか……扉の音もしないし、歩く音もしないのに、急に“いる”の。病室なのに、外の空気が一緒に入ってきたみたいに」


「そっか。それ、気をつけてるからかも」


「忍者?」


「うん、たぶん。影の者ってやつ」


「ふふっ、ちょっと似合ってるかも」


 少女はまた、笑う。

 目が見えなくても、声の温度だけで、相手がどんな顔をしているか想像できた。

 きっと、やさしい目をしてる。よく喋るタイプではないけれど、何か大切なものを守っている人だ。


 そう思うと、会えないことさえ不思議と怖くなかった。


 

 しばらく沈黙が流れてから、少女がぽつりと口を開いた。


「……ねぇ、君」


「うん?」


「もしさ、目がちゃんと治って……全部見えるようになったら……それでも、友達でいてくれる?」


 その声は、どこか震えていた。

 まるでその未来を、ほんの少し怖がっているようだった。


 少年は、少しだけ考えて──答えた。


「……いいよ。友達でいよう」


「ほんと?」


「うん。でも──」


 少年はそこで一拍、間を置いた。


「その時、僕は……もう、話せないかもしれない」


 少女の眉が少しだけ動いた。


「……話せない?」


 彼女は問い返すでもなく、追及するでもなく、ただ小さく首をかしげただけだった。


 まるで、ふわっと流れてきた風の中の言葉のように、それをそのまま受け止めた。


「そっか。じゃあ、その時は、私がたくさん話すね」


 そう言って、少女は微笑んだ。

 


 彼女は何も知らない。

 この声の正体が、“姿のない誰か”であることも。

 毎晩、音もなく現れて、夜の間だけ言葉を持っていることも──


 だけど、知らなくていい。

 いまここに、あたたかい声があることだけが、大事だった。

 

 その声が、夜をやさしく満たしていく。

 そして、病室の窓の向こうで、雲間から月がすこしだけ顔を出した。




 それからというもの、彼は毎晩のように病室を訪れた。

 時間はいつも、日付が変わる少し前。

 眠りに落ちかける頃に、彼の声はふわりと現れる。


 “来てくれるかもしれない”──

 そう思うだけで、少女は自然とその時間まで目を覚ましていられた。


「今日はね、廊下の絵が入れ替わってたの。気づいた?」


「ううん、まだ見えてないから」


「そっか……でも、たぶんね、向日葵の絵。すっごく明るかった」


「……へぇ、いいな。じゃあ私、もうちょっと頑張って、目が治ったら真っ先に見に行くよ」


「約束だね」


 ふたりの会話は、いつも静かで、短い。

 けれどそこには、確かなものが宿っていた。

 言葉の奥に流れている“想い”が、時間を優しく染めていく。


 


 そしてある晩、少女はふと聞いた。


「ねぇ……君って、どこに住んでるの?」


「んー……近くに、帰るところはあるよ」


「おうち?」


「うん。屋根もあるし、風も通るし、落ち着く場所」


「なんか、ちょっとだけ変な表現だね?」


「ごめん、うまく言えないだけ」


 少女はくすりと笑うと、話題を変えた。


「じゃあ、好きな食べ物は?」


「……いりこ」


「えっ」


「……じゃこ」


「待って待って、それ、おやつじゃないよね?」


「たぶん……おやつ、なんだと思う」


 ふたりは声を揃えて笑った。

 その笑い声は、夜の病室にさざ波のように広がっていく。


 少女は目を閉じて、そっと手を胸の上に置いた。


「……こんなふうに笑ったの、いつ以来だろう」


「思い出せない?」


「ううん。思い出さなくてもいいかなって。だって、いま笑ってるから」


 沈黙が、そっと落ちる。

 けれどそれは気まずさではなく、“安心”という名の間だった。


 少年は黙って、彼女の言葉の余韻に寄り添う。


 


 そしてある夜。

 いつものように訪れた彼に、少女がそっと告げた。


「……ねぇ、目、少しだけ見えるようになってきたの」


「ほんとに?」


「うん。まだぼやけてるけど……光が分かる。輪郭も、ちょっとずつ」


 それを聞いて、少年は静かに、目を伏せた。

 いや、彼が目を伏せたことに、彼女は気づかない。

 けれど、彼の声の温度が、すこしだけ変わったことには気づいていた。


「そっか……よかったね」


「うん。……でも、ちょっと寂しいかも」


「どうして?」


「見えちゃったら、君がいなくなる気がして」


 その言葉に、少年は少しだけ、息を止めた。


「そんなこと、ないよ」


 そう答えたのは、本心だった。

 けれど、それが“本当になる”かどうかは、分からなかった。


 声しか知らない。でもそれで十分。

 彼もまた、姿を知られることを、どこかで怖がっていた。


 それでも、今夜だけは──もう少しだけ、この距離のままでいさせてほしい。


 そう願うように、彼はそっと言った。


「君が目を開けるたびに、見える世界が増えていくなら、それってすごく素敵なことだと思うんだ」


「……うん」


「だから、大丈夫。ちゃんと歩いていけるよ」


 少女は頷いた。まだ見えない目で、彼の声のほうを向いて。


「ありがとう」


 たったそれだけの言葉が、彼の心に、深く、あたたかく残った。


「……ねぇ」


 その夜、少女はベッドの中で、小さな声をこぼした。


「今日は来ないのかなって……少しだけ、さみしかった」


「……ごめん。来るの、ちょっと迷った」


 少年の声は、いつもより少しだけ低かった。

 穏やかさの中に、迷いと哀しさが混ざっていた。


 少女は、それでも静かに笑った。


「そっか。……でも、来てくれてよかった。今日、ちゃんと光が分かるようになったの。

 お医者さんも、すごく喜んでくれて……目、治りそうだって」


「……よかったね」


 そう返した彼の声には、微かに震えがあった。

 少女はそれに気づかないまま、布団の上に置いた両手を重ねて、そっと話を続けた。


「目が治ったらさ、君にもちゃんと会いたい。……名前も、顔も、知らないまま終わるのって、もったいないよ」


 しばらく、沈黙が流れた。


 少年は、答えなかった。


 


 ──雨の日だった。


 その日、僕はふらりと路地を出てしまった。

 びしょ濡れのアスファルトが冷たく、足の裏にへばりつく。

 視界の先から、クラクションの音が突き刺さった。


 怖くて、動けなかった。

 足がすくんで、目だけが、車の光を見つめていた。


 ほんの数秒のことだった。


 そのとき、誰かが叫ぶように走ってきた。


 少女だった。


 傘もささず、制服のまま、僕の前に飛び込んでくる。

 その瞬間、衝撃音と、地面の揺れと、びしょ濡れの腕に包まれた感触だけが残った。


 名前も知らなかった。

 でも、間違いなく彼女は、僕の命を救った。


 


 あとで聞いた。

 彼女はそのときの事故で、視力を失ったと。


 それを知って、僕は、神社へ向かった。


 何かを返したくて。何もできない自分が、初めて「何かしたい」と願ったから。


 そして、棚の前に立って、言葉も出せない喉の奥で、ただ、心を込めて祈った。


 ──『あの子の目が治るまで、そばにいさせてください』


 


 願い札が現れ、神社の奥から風がふわりと吹いた。


 その風の中から現れたのが、銀髪の女性──ミタマさんだった。


 穏やかで、でも、どこかすべてを見透かすような目で、僕を見つめていた。


『強く願えば、願い札は形になるわ。たとえ、それが猫の祈りでも』


 そう言って、彼女は静かに扇をひらいた。


『夜の間だけ──姿と声を。話すことも、触れることもできるわ。ただし、それはほんのわずか』


 僕は、首を縦に振った。


 それで十分だった。

 声が出せるだけで。彼女のそばに、いられるだけで。


 

 そして、病室に通い始めた。

 言葉を重ねて、少しずつ笑顔が増えて。

 名前も顔もない僕を、彼女はまるで昔からの友達のように受け入れてくれた。


 だけど──その時間にも、終わりが近づいている。


 時計の針が、夜をまたぐ。


 彼の声は、もう少しだけ続く。

 でも、その先には、もう“別れ”という名前の沈黙が待っていることを──

 彼だけが知っていた。


 


 退院した日の午後、少女は制服のまま神社を訪れた。

 新しいスニーカーの音が、しずかに石段を登っていく。


 まだ目の奥は少しだけ光に慣れていなくて、

 眩しそうに目を細めながら、境内を見渡した。


 何かを探しているわけじゃなかった。

 でも、ここに来れば、何か大切なことを思い出せる気がした。


 

 拝殿のそばの木棚の前に立ち、少女はポケットから一枚の札を取り出す。

 そこには、たった一言だけが書かれていた。


 ──『お礼が言いたいです』


 書いたときは、もっといろんな言葉を入れたかった。

 でも、どうしてもこの一文しか浮かばなかった。


 棚にそっと札を滑り込ませ、息を整える。

 目を閉じ、手を合わせて──


「……ありがとう。ほんとに」


 願いというより、祈りというより、

 それは誰かにだけ届けばいい“声”だった。


 

 そのとき。

 足元に、そっとあたたかい感触が触れた。


 見下ろすと、一匹の白い猫がいた。

 音もなく現れ、スカートの裾にすり寄って、じっと彼女を見上げていた。


 きれいな毛並み。

 まっすぐな瞳。


 ──その目を見た瞬間、少女はふと立ち尽くした。


 風の音も、鳥の声も、すうっと遠ざかっていく。

 


 猫は何も言わない。

 ただそこにいるだけ。


 けれど、少女は分かってしまった。


 その瞳の奥に宿っていた、あの声のあたたかさ。

 誰よりも近くで寄り添ってくれた、夜の時間。

 「友達でいてくれる?」と問うたあの日の沈黙。


 猫は、そのまま彼女の足元にぺたりと座った。


 少女はしゃがみ込み、迷いなく手を差し出した。


 その白い毛に指がふれた瞬間──確信に変わった。

 


 けれど、彼女は何も言わない。


 問いかけもせず。

 ただそっと、優しく撫でるだけ。


 その仕草は、まるで「知ってるよ」と告げるようだった。

 


 「……ありがとね」



 彼女の声は、ごく小さかった。

 でも、猫にはきっと、ちゃんと届いていた。


 そして──言葉の代わりに、猫がほんの一瞬、目を細めた。


 


 少女は立ち上がる。


 「バイバイ」は言わなかった。

 でも背を向けたあとも、どこか安心したような笑顔で歩き出していた。

 


 棚の札の隣に、もう一枚の札がそっと添えられていた。

 にじむような文字で、こう書かれている。


 ──『こちらこそ、ありがとう』


 姿は変わっても。

 声がなくなっても。


 “友達”は、ちゃんとここにいた。


 そして、それはきっと──これからも。



 猫の姿が、境内の木陰へとゆっくり消えていく。


 少女はもう背を向けていたけれど、振り返ることはなかった。

 ただ、ゆっくりと石段を下りていく足取りは、どこか軽やかだった。


 


 縁側でそれを見送っていたモナカは、そっと手のひらを合わせた。


「ミタマ……あの子、気づいたね」


「ええ。言葉にはしなかったけれど──ちゃんと、分かってたわ」


「すごいなぁ……あんなに優しくて、静かで、ちゃんと届くなんて」


 モナカは少し鼻をすすって、袖で目元をこすった。


「モナカね、ああいうの、弱いの。姿が違っても、声が消えても、想いがちゃんと続いてるって……ほんとに、泣けるよぉ……」


「泣いてもいいのよ。今日は」


 ミタマがふわりと笑って、扇をそっと閉じた。


「それだけ、誰かを大切に思う気持ちが、ちゃんと通じ合ったってこと。

 願いが叶ったって、証拠なのよ」


 

 モナカはうんうんと頷いて、立ち上がる。


「ねぇミタマ。また誰か、願い札に願ってくれるかな」


「きっと、また来るわ。……想いは、巡るものだから」


 


 境内に、風が吹いた。


 願い札の棚で、一枚の札がふわりと揺れる。


 もう言葉を交わすことはないかもしれない。

 でも、確かに心はそこにあった。


 声だけの友達。姿を変えて届いた願い。

 それらが静かに重なり合って、今日も神社の空気をやわらかくしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ