変わらないよ
病室は、静かだった。
夜の帳が降りてから、もうずいぶん経つ。
天井の小さな灯りだけがぼんやりと点いていて、眠りを誘う空気の中、少女はまだ目を閉じたまま、じっとその気配を待っていた。
やがて、空気の振動が少しだけ変わる。
「……来てくれたんだね」
少女が小さく、でも確かに微笑む。
「うん。今日も来たよ」
優しい少年の声が返ってくる。
その声は、落ち着いていて柔らかく、少し年下に感じる響き。
けれど、どこか懐かしいような、不思議な安心感があった。
「今日ね、リハビリ室でバランスボールに乗ったんだけど、転がって壁に激突した」
「えっ、大丈夫だったの?」
「うん。ちょっとだけおでこぶつけたけど、まぁ、それも思い出ってことで」
「わざわざ思い出にしなくていいやつだよ、それ」
少女がくすっと笑うと、声の主もつられて笑った。
何度も交わしてきた、たわいない会話。
それは、名前も顔も知らない相手との、かけがえのない時間だった。
少女は、交通事故で視力を失った。
医師の診断は「回復の見込みはある」。でも、それがいつかは分からない。
真っ暗な世界で目覚めた日のことを、少女は今でもはっきり覚えている。
そして、そんな日々の中に、彼の声が現れた。
どこから来て、誰なのかは分からない。けれど、なぜか怖くはなかった。
最初は戸惑ったけれど、その声に出会った瞬間から、世界が少しだけやわらかくなった気がした。
「君って、不思議な人だよね」
「どんなふうに?」
「気配が薄いっていうか……扉の音もしないし、歩く音もしないのに、急に“いる”の。病室なのに、外の空気が一緒に入ってきたみたいに」
「そっか。それ、気をつけてるからかも」
「忍者?」
「うん、たぶん。影の者ってやつ」
「ふふっ、ちょっと似合ってるかも」
少女はまた、笑う。
目が見えなくても、声の温度だけで、相手がどんな顔をしているか想像できた。
きっと、やさしい目をしてる。よく喋るタイプではないけれど、何か大切なものを守っている人だ。
そう思うと、会えないことさえ不思議と怖くなかった。
しばらく沈黙が流れてから、少女がぽつりと口を開いた。
「……ねぇ、君」
「うん?」
「もしさ、目がちゃんと治って……全部見えるようになったら……それでも、友達でいてくれる?」
その声は、どこか震えていた。
まるでその未来を、ほんの少し怖がっているようだった。
少年は、少しだけ考えて──答えた。
「……いいよ。友達でいよう」
「ほんと?」
「うん。でも──」
少年はそこで一拍、間を置いた。
「その時、僕は……もう、話せないかもしれない」
少女の眉が少しだけ動いた。
「……話せない?」
彼女は問い返すでもなく、追及するでもなく、ただ小さく首をかしげただけだった。
まるで、ふわっと流れてきた風の中の言葉のように、それをそのまま受け止めた。
「そっか。じゃあ、その時は、私がたくさん話すね」
そう言って、少女は微笑んだ。
彼女は何も知らない。
この声の正体が、“姿のない誰か”であることも。
毎晩、音もなく現れて、夜の間だけ言葉を持っていることも──
だけど、知らなくていい。
いまここに、あたたかい声があることだけが、大事だった。
その声が、夜をやさしく満たしていく。
そして、病室の窓の向こうで、雲間から月がすこしだけ顔を出した。
それからというもの、彼は毎晩のように病室を訪れた。
時間はいつも、日付が変わる少し前。
眠りに落ちかける頃に、彼の声はふわりと現れる。
“来てくれるかもしれない”──
そう思うだけで、少女は自然とその時間まで目を覚ましていられた。
「今日はね、廊下の絵が入れ替わってたの。気づいた?」
「ううん、まだ見えてないから」
「そっか……でも、たぶんね、向日葵の絵。すっごく明るかった」
「……へぇ、いいな。じゃあ私、もうちょっと頑張って、目が治ったら真っ先に見に行くよ」
「約束だね」
ふたりの会話は、いつも静かで、短い。
けれどそこには、確かなものが宿っていた。
言葉の奥に流れている“想い”が、時間を優しく染めていく。
そしてある晩、少女はふと聞いた。
「ねぇ……君って、どこに住んでるの?」
「んー……近くに、帰るところはあるよ」
「おうち?」
「うん。屋根もあるし、風も通るし、落ち着く場所」
「なんか、ちょっとだけ変な表現だね?」
「ごめん、うまく言えないだけ」
少女はくすりと笑うと、話題を変えた。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
「……いりこ」
「えっ」
「……じゃこ」
「待って待って、それ、おやつじゃないよね?」
「たぶん……おやつ、なんだと思う」
ふたりは声を揃えて笑った。
その笑い声は、夜の病室にさざ波のように広がっていく。
少女は目を閉じて、そっと手を胸の上に置いた。
「……こんなふうに笑ったの、いつ以来だろう」
「思い出せない?」
「ううん。思い出さなくてもいいかなって。だって、いま笑ってるから」
沈黙が、そっと落ちる。
けれどそれは気まずさではなく、“安心”という名の間だった。
少年は黙って、彼女の言葉の余韻に寄り添う。
そしてある夜。
いつものように訪れた彼に、少女がそっと告げた。
「……ねぇ、目、少しだけ見えるようになってきたの」
「ほんとに?」
「うん。まだぼやけてるけど……光が分かる。輪郭も、ちょっとずつ」
それを聞いて、少年は静かに、目を伏せた。
いや、彼が目を伏せたことに、彼女は気づかない。
けれど、彼の声の温度が、すこしだけ変わったことには気づいていた。
「そっか……よかったね」
「うん。……でも、ちょっと寂しいかも」
「どうして?」
「見えちゃったら、君がいなくなる気がして」
その言葉に、少年は少しだけ、息を止めた。
「そんなこと、ないよ」
そう答えたのは、本心だった。
けれど、それが“本当になる”かどうかは、分からなかった。
声しか知らない。でもそれで十分。
彼もまた、姿を知られることを、どこかで怖がっていた。
それでも、今夜だけは──もう少しだけ、この距離のままでいさせてほしい。
そう願うように、彼はそっと言った。
「君が目を開けるたびに、見える世界が増えていくなら、それってすごく素敵なことだと思うんだ」
「……うん」
「だから、大丈夫。ちゃんと歩いていけるよ」
少女は頷いた。まだ見えない目で、彼の声のほうを向いて。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉が、彼の心に、深く、あたたかく残った。
「……ねぇ」
その夜、少女はベッドの中で、小さな声をこぼした。
「今日は来ないのかなって……少しだけ、さみしかった」
「……ごめん。来るの、ちょっと迷った」
少年の声は、いつもより少しだけ低かった。
穏やかさの中に、迷いと哀しさが混ざっていた。
少女は、それでも静かに笑った。
「そっか。……でも、来てくれてよかった。今日、ちゃんと光が分かるようになったの。
お医者さんも、すごく喜んでくれて……目、治りそうだって」
「……よかったね」
そう返した彼の声には、微かに震えがあった。
少女はそれに気づかないまま、布団の上に置いた両手を重ねて、そっと話を続けた。
「目が治ったらさ、君にもちゃんと会いたい。……名前も、顔も、知らないまま終わるのって、もったいないよ」
しばらく、沈黙が流れた。
少年は、答えなかった。
──雨の日だった。
その日、僕はふらりと路地を出てしまった。
びしょ濡れのアスファルトが冷たく、足の裏にへばりつく。
視界の先から、クラクションの音が突き刺さった。
怖くて、動けなかった。
足がすくんで、目だけが、車の光を見つめていた。
ほんの数秒のことだった。
そのとき、誰かが叫ぶように走ってきた。
少女だった。
傘もささず、制服のまま、僕の前に飛び込んでくる。
その瞬間、衝撃音と、地面の揺れと、びしょ濡れの腕に包まれた感触だけが残った。
名前も知らなかった。
でも、間違いなく彼女は、僕の命を救った。
あとで聞いた。
彼女はそのときの事故で、視力を失ったと。
それを知って、僕は、神社へ向かった。
何かを返したくて。何もできない自分が、初めて「何かしたい」と願ったから。
そして、棚の前に立って、言葉も出せない喉の奥で、ただ、心を込めて祈った。
──『あの子の目が治るまで、そばにいさせてください』
願い札が現れ、神社の奥から風がふわりと吹いた。
その風の中から現れたのが、銀髪の女性──ミタマさんだった。
穏やかで、でも、どこかすべてを見透かすような目で、僕を見つめていた。
『強く願えば、願い札は形になるわ。たとえ、それが猫の祈りでも』
そう言って、彼女は静かに扇をひらいた。
『夜の間だけ──姿と声を。話すことも、触れることもできるわ。ただし、それはほんのわずか』
僕は、首を縦に振った。
それで十分だった。
声が出せるだけで。彼女のそばに、いられるだけで。
そして、病室に通い始めた。
言葉を重ねて、少しずつ笑顔が増えて。
名前も顔もない僕を、彼女はまるで昔からの友達のように受け入れてくれた。
だけど──その時間にも、終わりが近づいている。
時計の針が、夜をまたぐ。
彼の声は、もう少しだけ続く。
でも、その先には、もう“別れ”という名前の沈黙が待っていることを──
彼だけが知っていた。
退院した日の午後、少女は制服のまま神社を訪れた。
新しいスニーカーの音が、しずかに石段を登っていく。
まだ目の奥は少しだけ光に慣れていなくて、
眩しそうに目を細めながら、境内を見渡した。
何かを探しているわけじゃなかった。
でも、ここに来れば、何か大切なことを思い出せる気がした。
拝殿のそばの木棚の前に立ち、少女はポケットから一枚の札を取り出す。
そこには、たった一言だけが書かれていた。
──『お礼が言いたいです』
書いたときは、もっといろんな言葉を入れたかった。
でも、どうしてもこの一文しか浮かばなかった。
棚にそっと札を滑り込ませ、息を整える。
目を閉じ、手を合わせて──
「……ありがとう。ほんとに」
願いというより、祈りというより、
それは誰かにだけ届けばいい“声”だった。
そのとき。
足元に、そっとあたたかい感触が触れた。
見下ろすと、一匹の白い猫がいた。
音もなく現れ、スカートの裾にすり寄って、じっと彼女を見上げていた。
きれいな毛並み。
まっすぐな瞳。
──その目を見た瞬間、少女はふと立ち尽くした。
風の音も、鳥の声も、すうっと遠ざかっていく。
猫は何も言わない。
ただそこにいるだけ。
けれど、少女は分かってしまった。
その瞳の奥に宿っていた、あの声のあたたかさ。
誰よりも近くで寄り添ってくれた、夜の時間。
「友達でいてくれる?」と問うたあの日の沈黙。
猫は、そのまま彼女の足元にぺたりと座った。
少女はしゃがみ込み、迷いなく手を差し出した。
その白い毛に指がふれた瞬間──確信に変わった。
けれど、彼女は何も言わない。
問いかけもせず。
ただそっと、優しく撫でるだけ。
その仕草は、まるで「知ってるよ」と告げるようだった。
「……ありがとね」
彼女の声は、ごく小さかった。
でも、猫にはきっと、ちゃんと届いていた。
そして──言葉の代わりに、猫がほんの一瞬、目を細めた。
少女は立ち上がる。
「バイバイ」は言わなかった。
でも背を向けたあとも、どこか安心したような笑顔で歩き出していた。
棚の札の隣に、もう一枚の札がそっと添えられていた。
にじむような文字で、こう書かれている。
──『こちらこそ、ありがとう』
姿は変わっても。
声がなくなっても。
“友達”は、ちゃんとここにいた。
そして、それはきっと──これからも。
猫の姿が、境内の木陰へとゆっくり消えていく。
少女はもう背を向けていたけれど、振り返ることはなかった。
ただ、ゆっくりと石段を下りていく足取りは、どこか軽やかだった。
縁側でそれを見送っていたモナカは、そっと手のひらを合わせた。
「ミタマ……あの子、気づいたね」
「ええ。言葉にはしなかったけれど──ちゃんと、分かってたわ」
「すごいなぁ……あんなに優しくて、静かで、ちゃんと届くなんて」
モナカは少し鼻をすすって、袖で目元をこすった。
「モナカね、ああいうの、弱いの。姿が違っても、声が消えても、想いがちゃんと続いてるって……ほんとに、泣けるよぉ……」
「泣いてもいいのよ。今日は」
ミタマがふわりと笑って、扇をそっと閉じた。
「それだけ、誰かを大切に思う気持ちが、ちゃんと通じ合ったってこと。
願いが叶ったって、証拠なのよ」
モナカはうんうんと頷いて、立ち上がる。
「ねぇミタマ。また誰か、願い札に願ってくれるかな」
「きっと、また来るわ。……想いは、巡るものだから」
境内に、風が吹いた。
願い札の棚で、一枚の札がふわりと揺れる。
もう言葉を交わすことはないかもしれない。
でも、確かに心はそこにあった。
声だけの友達。姿を変えて届いた願い。
それらが静かに重なり合って、今日も神社の空気をやわらかくしていた。