雨の日をもう一度
しとしと、しとしと──。
空から落ちる音は、あの日と変わらない。
山の木々を濡らす雨が、神社の石段をやさしく叩いていた。
人の気配もない静かな午後。雨は、古びた境内の空気をどこか柔らかく包み込んでいた。
拝殿の奥、縁側で湯呑を両手に持ちながら、モナカは目を細めた。
「……ねぇミタマ、雨の日って、やっぱり“特別なにおい”がするよねぇ」
「そうね。土と葉と、空気の匂いが混ざって、少しだけ懐かしくなるのよ」
モナカはぴょこんと尻尾を揺らしながら、じっと参道を見つめた。
そして、ふと。
「あっ……! ミタマ、見て見て!」
手に持っていた湯呑を危うくこぼしそうになりながら、立ち上がる。
ミタマがそっと目を向けると、雨の中、一本の傘が歩いてくるのが見えた。
もうひとつ──その横に、寄り添うような、もう一本。
「……あら」
ミタマの口元がわずかにほころぶ。
境内に入ってきたのは、中学生くらいの男女だった。
傘を少し斜めに傾けながら、ふたり並んで石段を上がってくる姿は──
「ぜっっったい、あの子たちだよ……!」
モナカがそっと呟いた。
雨の中で相合い傘をしていた、あの小さな約束。拝殿の軒下で交わされた“また来るよ”の言葉。
ミタマが頷く。「ええ。あの日の“願い”、覚えていてくれたのね」
ふたりは、そっと軒下に入ってきた。
濡れた制服の裾を払いながら、少女が小さく微笑む。
「……やっぱり、この匂い、好きだなぁ」
「うん。なんか……戻ってきた気がする」
彼らの会話は、ほんのささやかなものだったけれど。
雨音とともに響くその声は、確かに“ただいま”の響きを宿していた。
モナカが胸のあたりを押さえる。
「……ねぇミタマ、なんかね、なんか……ちょっとだけ、ぽつんって……泣きそうになっちゃう」
「ええ、分かるわ。雨ってね、心の奥に降りてくるのよ」
願い札の棚の近くで、ふたりの姿がふっと止まる。
このあと、彼らはどんな願いを、あらたに札へ託すのだろう──。
雨が見守るなかで、小さな再会の物語が、静かに幕を開けていた。
「……あっ」
ふいに、少女がポーチの中をごそごそと探り出した。
「ちょっとだけね、作ってきた」
そう言って彼女が取り出したのは、小さな包み。
風呂敷をほどくと、そこにはラップにくるまれた俵型のおにぎりがふたつ。
添えるように、小さな卵焼きと、つやつや光るミニトマト。
「なんか……そういうの、持ってきたくなっただけ。別に深い意味はないからね?」
横で見ていた少年が目を見開いたあと、ゆるく笑った。
「……深い意味、って言うと逆に気になるけど」
「もう、うるさいっ」
少女は口を尖らせて、おにぎりをひとつ渡した。
手渡された瞬間、雨音が一瞬だけ和らいだような錯覚さえした。
縁に腰掛けたまま、ふたりは並んで食べ始める。
ひと口、ふた口──それはごく自然な動作だったけれど、どこか特別に見えた。
雨音が石段を伝い、小さな水流をつくっている。
モナカが、しぃんとした様子でその様子を見守っていた。
さっきまでくねくねしていたのが嘘のように、目元がうるんでいる。
「ミタマ……なんかね……これってもう……“続き”なんだね……」
ミタマが穏やかに頷いた。
「ええ。あの雨の日に始まった時間が、今日、また動き出したのね」
ふたりはおにぎりを食べ終え、少しの沈黙が流れた。
「……私、今日、ちょっと緊張してたんだ」
「えっ、なんで?」
「なんかさ……、もし私だけが覚えてて、空回ってたらどうしようって……。笑われたら、どうしようって」
その言葉に、少年が何か言おうとして、喉元で止める。
けれど、しばらくしてから、ぽつりと。
「……覚えてたよ。ちゃんと。だから、来たんだよ」
少女の目が、ほんの少し揺れた。
けれど、雨のおかげで、涙かどうかは分からなかった。
代わりに、笑顔がぽつんと浮かぶ。
「……じゃあ、いいや」
それは“信じられた安心”と、“言葉にならない嬉しさ”が混ざったような、小さな笑顔だった。
傍で聞いていたモナカが、たまらず呟く。
「ミタマぁ……これ……“青春”通り越して、“祈り”じゃない……?」
「そうね。願うように、誰かを信じるって──とても素敵なことよ」
雨はまだ、降り続いていた。
でもその音は、静かに、やさしく、ふたりの背中を包んでいた。
「ね、帰ろっか」
少女がそっと立ち上がる。食べ終えたおにぎりの包みをしまいながら、くるりと傘を開いた。
少年もあとに続いて立ち上がり、肩を寄せるように並ぶ。
雨の中、ふたりの姿は、まるで時間の向こうから滲み出してきたように静かだった。
傘の内側に、少しだけ赤みを帯びた頬と、それぞれの呼吸が、やわらかく溶け込んでいく。
「……来てよかった」
「うん、ほんとに」
言葉はそれだけだったけれど、それ以上のことは全部、その傘の中にあった。
そして、棚の前で少女が一度だけ立ち止まる。
再びポーチから、もう一枚の札を取り出した。
「これも……置いていっていいよね」
少年が隣で頷いた。
少女はふと笑って、その札をそっと棚に滑り込ませた。
雨に濡れないように、指先で端を整えながら。
──『また来ます。ふたりで』
その文字は、どこかあの日と同じ、でも少し大人びた筆致だった。
遠くからそれを見ていたモナカが、手のひらを胸の前でぎゅっと握りしめる。
「ミタマ……来てくれたよ……ほんとに、“ふたりで”来てくれた……」
「ええ。あの日の願いが、ちゃんと叶ったのね」
雨はまだ降っている。けれど、不思議と濡れた景色があたたかく見えた。
ふたりは傘をゆっくりと傾けて歩き出す。
参道の石畳に、ふたつの足音が重なって響いていく。
「また、いつか来ようね」
「うん。晴れてても、雨でも……でも、やっぱり、雨のほうがいいかも」
そんな会話が、傘の中でぽつり、ぽつりと続いていく。
──きっとまた、来てくれる。
──次の雨の日にも、この神社へ。
モナカとミタマは、ふたりの背中を見送って、そっと目を細めた。
参道の先、ふたりの姿がやがて見えなくなった。
けれど、しとしとと降る雨の音だけは、ずっとそこにあった。
まるで、ふたりが通った軌跡をなぞるように、やさしく石畳を濡らし続けていた。
モナカは縁側にぺたりと腰を下ろし、尻尾をぽふんと抱える。
「……なんかね、ミタマ」
「ええ、分かってるわ」
ミタマも静かに腰を下ろし、手の中の扇をそっと閉じた。
ふたりの目線は、さっきまでふたりが立っていた、願い札の棚に向けられている。
”また来ます。ふたりで”
その札は雨に濡れぬよう、棚の奥に控えめに置かれていた。
新しいけれど、どこか“続き”のような札だった。
「ねぇ、ミタマ。願いって、時間が経っても……届くのかな?」
モナカの問いは、素直すぎるくらい素直だった。
でも、それはこの神社で、誰よりも願いと向き合ってきたモナカだからこそ出てきた疑問だった。
ミタマは一度だけまぶたを伏せ、それからゆっくりと微笑んだ。
「ええ、届くわ。忘れずに、ちゃんと胸の中で温めていたら──雨が、それを思い出させてくれるのよ」
「……雨が、思い出させてくれる……」
モナカはぽつりと呟いて、また空を見上げた。
しとしとと降り続ける空。それは“泣きたい誰か”の代わりに泣いてくれているような、やさしい色だった。
そして。
ふたりの間に、そっと静かな風が通り抜ける。
願い札の棚の端っこで、一枚の古い札が微かに揺れた──まるで「おかえり」と囁くように。
「ミタマ。……また雨が降ったら、きっと来てくれるかな?」
「ええ、来ると思うわ。……あのふたりなら、ね」
「そっか……じゃあモナカ、ずっと待ってる!」
ぴょこんと立ち上がったモナカが、棚に向かって両手を合わせた。
「ありがと、また会わせてくれて──あの時の願い、ほんとに、ほんとに叶えてくれて!」
神社の空気が、ふんわりとやわらかくなった気がした。
そして、願い札の棚の前で揺れるふたりの尻尾も、まるで晴れた日のように軽やかだった。
雨はまだ、止まない。
けれど今日の雨は、きっと誰かにとって“特別な再会の日”を運んできたのだ。