寄り道
神社の境内には、朝の光がやさしく差し込んでいた。
「ん〜、いってきまーす!」
モナカは元気に手を振りながら、鳥居をくぐって山道を下っていく。
両手には買い物袋が結ばれた布袋がひとつ。
今日は、いつものお味噌と、お豆腐が目当てだ。
道端にはツユクサが揺れ、軒先には風鈴の音が響いている。
商店街までは、てくてくと十五分ほどの道のり。
モナカは鼻歌まじりに歩きながら、時折立ち止まっては
「あっ、猫ちゃん!」
としゃがみこんだり、道ばたの草に顔を寄せたりしていた。
買い物はあっという間だった。
「おばちゃーん!いつもの味噌、ちょうだいっ」
「あいよ、モナカちゃん。今日はお天気でよかったねえ」
「えへへ、ミタマの好きな豆腐も忘れず買ったよ〜♪」
小さな布袋はずっしりと温かく、モナカは満足そうにうなずいた。
帰り道。ちょっとした坂道の途中で、モナカはふと立ち止まった。
すぐ先に、ひとりのおじいさんが立っていたからだ。
白髪まじりの頭を掻きながら、手には小さな紙切れ。
右を見て、左を見て、また右を見て。どうにも道がわからない様子。
「……どうしたのかな?」
モナカは小さくつぶやきながら、そっと近づいて声をかけた。
「こんにちはっ。おじいちゃん、なにか探してるの?」
おじいさんは、ちょっと驚いたように振り返った。
「ああ……いや、娘の家に行こうと思ったんだが、どうにも道が違う気がしてなあ」
そう言って、くしゃくしゃの手書きの地図を見せてくれる。
けれどその紙には、地図というよりも“思い出”に近いような、昔の目印がたくさん描かれていた。
「ここにあったお煎餅屋は、もうないんだけどなあ……」
おじいさんの声は、どこか寂しそうで、どこかくすぐったくて。
モナカは笑顔で言った。
「よーしっ。じゃあモナカと一緒に行こっか♪ ちょっとだけ、寄り道してもいい?」
「寄り道、か……ふふ、まあ、かまわんよ」
そう言いながらも、おじいさんは少しだけ照れくさそうに目を細めた。
モナカは布袋を胸に抱え直し、「じゃ、行こっ♪」と軽やかに歩き出す。
ふたりの歩幅は、ぜんぜん違う。
モナカが三歩進めば、おじいさんはゆっくり一歩。
それでもモナカは立ち止まりながら、振り返っては「こっちこっち〜」と手を振った。
途中、小さな公園のベンチでひと休みすることにした。
セミの声がじりじりと響き、頭上の桜の葉がさらさらと風に揺れている。
モナカは布袋をごそごそと探り、小さな水筒を取り出した。
「おじいちゃんも、飲む?」
「……いいのかい?」
「うんっ。冷たくしてきたから、おいしいよ〜」
そう言って差し出すと、おじいさんはありがたそうに一口だけ喉を潤す。
「はあ……生き返るなあ」
「でしょ〜?」
モナカの耳としっぽがぴこぴこ動いた(人間の姿だけど)。
おじいさんはその様子を楽しそうに見つめながら、ふと口を開く。
「孫に会うのは、半年ぶりでね。最近、少し体の調子も悪くて……“もしかしたら”って、ちょっと思ったんだ」
「“もしかしたら”?」
「……うん、顔を見られるうちに、ちゃんと会っておきたくてな」
言葉はさらっとしていたけれど、その奥にあるものが、モナカの胸をちくりとくすぐった。
「まっすぐじゃなくてもさ、途中で立ち止まってもさ……ちゃんと、会いたいって思ってれば、きっとたどり着けるよ!」
モナカはまっすぐな笑顔で、おじいさんの目を見つめた。
おじいさんは、しばらくの沈黙のあと、ふっと目を細めて笑った。
「そうか。……そうだな」
それからふたりは、またゆっくり歩き出した。
どこをどう通ったかなんて、もうあんまり覚えてない。
でも、角を曲がって、坂を上ったその先に――
「……お父さんっ!!」
女性の声が響いた。
振り返ると、坂の上から一人の女性が駆け下りてくる。
年の頃は四十代前半、落ち着いた雰囲気の中に、心底ホッとしたような表情が浮かんでいた。
おじいさんは一歩足を止めて、「おお……」とつぶやいた。
娘さんだった。
「もう、心配したんだから……! お父さん、スマホも置いて行っちゃって……!」
そう言いながら、おじいさんの腕をそっと取る。
息を弾ませながらも、娘さんはモナカの姿に気づいて、はっと頭を下げた。
「父を助けてくださって、ありがとうございます」
「ううん!モナカが勝手についてきただけだよ〜」
モナカが手をひらひらと振ると、娘さんは少し微笑んで、もう一度頭を下げた。
おじいさんは、苦笑いを浮かべて言った。
「なに、ちょっと道を思い出すのに、時間がかかっただけさ」
その言葉を、モナカはそっと横で聞いていた。
そして――
「お父さん、来てくれてありがとう」
娘さんは、その手をぎゅっと握った。
おじいさんは少し照れたように顔をそむけたけど、声は優しかった。
「こっちこそ、迎えに来てくれてありがとな」
見えない距離が、ゆっくりと近づいていく。
それを感じながら、モナカは静かにひとつ、背伸びをした。
「じゃ、モナカはここで。お豆腐、溶けちゃうからねっ♪」
そう言ってくるりと背を向け、ぴょんっと坂を跳ね降りる。
背中越しに聞こえた「ありがとう」の声が、夏の風に乗って届いた。
坂を降りて、商店街の裏道に出たところで、モナカはぴたりと足を止めた。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜っ……」
顔を天に向けて、思いきり伸びをする。
じんわりと熱を帯びた夏の空が、ふわっと全身を包みこんだ。
「モナカ、ちょっとだけ、がんばったかもっ」
買い出し袋は少し重くなっていたけれど、心はどこか軽やかだった。
ふと、布袋の横から何かが転がり落ちそうになる。
「あっ、あぶな……わっ、飴玉?」
透明な包みにくるまれた、昔ながらの茶色いべっこう飴。
どうやらおじいちゃんがこっそり入れてくれたらしい。
「ふふっ……ありがとうだよ〜」
飴を口に入れて、モナカはまた歩き出す。
街は午後の陽ざしの中、いつもと変わらず、にぎやかに揺れていた。
神社に戻る頃には、蝉の声も少し落ち着いていて、
ミタマがちょうど縁側に座って、庭に水をまいていた。
「おかえり、モナカ。今日はずいぶん遅かったね」
「えへへ〜、寄り道してたの。……ちょっとだけ、いいことがあってさ」
モナカはちゃぶ台に袋を置いて、ぽすんと寝転んだ。
口の中の飴玉が、ゆっくりと溶けていく。
「ふー……間に合って、よかった」
数日後の朝。
ミタマが境内の掃き掃除をしていると、風に乗ってふわりと一枚の札が揺れていた。
「……あら」
願い札掛けに、いつの間にか新しい札が結ばれている。
墨で書かれた文字は、少し震えていて、それでも丁寧だった。
「また、会いに行けますように」
ミタマはそっと微笑み、札に手を添えた。
何も言わず、ただ風の音にまかせるように、目を閉じる。
そのとき――
「ミタマーっ、今日のおやつなに〜!?」
拝殿の奥から、元気な声が響いた。
「ふふ……あんドーナツ、買っておいたわよ」
「やったぁ〜っ!」
ぱたぱたと走ってくる足音。
モナカはちゃぶ台の横にぺたんと座ると、ころんとそのまま寝転んで、にこにこ笑った。
「今日も、いい日だったよ」
それはまるで、誰かの願いがちゃんと届いたことを知っているかのように――
モナカの笑顔が、境内いっぱいに広がっていった。