はじまりの願い
狐が好きです。妖はもっと好きです。
夕暮れ時の神社には、柔らかな橙の光が差し込んでいた。
鳥居をくぐる風は、どこか懐かしく、どこか切なく、通りすがりの心までも静かに撫でていく。
そんな時間帯に、ひとりの少年が現れた。
まだ小学生高学年くらいだろうか。少し大きめのリュックを背負い、両手でぎゅっと抱えるようにして歩いてくる。境内に人の気配はない。だが、その静けさに怯える様子もなく、少年は真っ直ぐに、願い札のある絵馬掛けへと向かった。
社務所の奥、見えない場所に、ふたつの影がぴくりと動いた。
「……来たね、モナカ」
「うん、ミタマ。今日の最初のお客さんだよ」
もこもこと動く小さな耳と尻尾。社の中にひっそりと佇むのは、神社に祀られし稲荷の狐、モナカとミタマだ。
狐といっても、今の姿は人の少女。神の使いとして人の願いを見守るこの神社の、神使たる存在である。
「……あの子、泣きそうな目してる」
「でも、泣いてないね。たぶん、我慢してる」
ミタマの声は落ち着いていたが、その蒼い瞳はどこか優しく少年を追っていた。
モナカは、くいっと耳を動かしながら、目を細める。
少年は、絵馬を手に取ると、ぐっと眉を寄せて筆を握った。震える手で、ゆっくりと一文字一文字、願いを書いていく。
モナカとミタマは音もなくその様子を見守る。
「……書いたね。なんて書いてあるの?」
「……『会いたい』」
ぽつりと、ミタマが呟いた。
その言葉の持つ重みが、場の空気をしんと染め上げる。
“会いたい”——ただそれだけ。
だが、そこには千の言葉を重ねても足りないほどの、深く、切ない想いが込められていた。
「ねぇ、モナカ」
「うん」
「この願い、叶えられるかな」
モナカは少し考えて、尻尾をふわっと揺らす。
「ううん、叶えるんじゃなくて……寄り添うんだよ、ミタマ。あたしたち、そうやってずっと、願いと一緒に生きてきたんだもん」
「……そうだね。じゃあ、行こうか。今の姿は、ちょっとだけ人間っぽくしよう」
ふたりの姿が、淡い光の中でふわりと変わる。耳と尻尾を隠し、人間の姿になったモナカとミタマは、境内をゆっくりと歩き出した。
——そして、少年の前に、声をかけた。
「こんばんは〜。この神社、よく来るの?」
急に話しかけられた少年はびくりと肩を震わせた。
「……え、えっと、いえ……はじめてです……」
「そっか〜、でも似合ってるよ。なんか、この神社の雰囲気と、君」
「モナカ、それはちょっと変な褒め方」
「へへっ、えへん!」
わざとらしく胸を張るモナカに、少年は少しだけ口元を緩めた。
「君の書いた願い、見たよ」
「……!」
少年の目が揺れる。だが、逃げようとはしなかった。
「“会いたい”って、誰に?」
ミタマの声は、とてもやさしくて、まるで夜風のように静かだった。
少年は……ゆっくりと口を開いた。
「……お母さん、に」
沈黙が、ふたりを包んだ。
その言葉を口にしたとたん、少年の瞳に光が宿る。
けれど、それは希望の光ではなく、こらえていた涙が滲む直前の、張り詰めた想いの残光だった。
ミタマは静かに腰を下ろし、目線を少年に合わせた。
「……もう、会えないの?」
少年は、答えず、小さく首を振る。
「去年、病気で……。お見舞いのとき、最後に言われたのが……“笑って”って。それなのに……」
言葉が詰まる。
少年の拳が小さく震える。
「……ぜんぜん笑えないんです。がんばっても、何しても……。お母さんに会いたくて、でも、もう会えなくて……」
そのとき、隣にいたモナカが、ぽんっと少年の頭を撫でた。
「泣いていいんだよ。ぜんぶ、ぎゅーって溜めこんでたんでしょ」
ふいに、少年の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
声をあげずに、ただ静かに、ただひたすらに——。
ミタマは目を伏せると、そっと手を合わせた。
神社の奥から、風が吹く。
どこからともなく、あたたかな気配が境内を包み込んだ。
まるで母親がそっと背中に手を添えるような、そんなぬくもりがあった。
「……モナカ」
「うん」
ふたりは小さく頷き合うと、少年に向かって言った。
「ちょっとだけ、目を閉じててくれる?」
「……?」
「大丈夫。怖くないから。ちょっとだけ、魔法、かけるね」
少年は、涙で濡れたままの目を閉じた。
その瞬間、風鈴の音がひとつ、鳴った。
境内に張られた結界が、ゆっくりと開く。
──そして、そこに現れたのは、淡い光に包まれたひとりの女性だった。
白い服、優しい笑顔、そして——少年と、よく似た瞳。
それは、記憶の中のお母さんだった。
「……おかあ、さん……?」
少年が呟く。
光の中の姿は、ふわりと微笑むと、小さく頷いた。
言葉はなかった。
けれど、少年の目には、すべてが伝わっていた。
“ありがとう”
“がんばってるね”
“もう大丈夫”——
そんな、あたたかい想いが、胸にまっすぐ届いた。
時間にして、ほんの数十秒。
けれど、少年の心に刻まれたその奇跡は、きっと、一生色褪せない。
光がすっと消える。
気がつけば、モナカとミタマが微笑んでいた。
「どうだった?」
「……わかんない。でも、すごく、あたたかかった」
少年は涙をぬぐいながら、小さく笑った。
「笑えた」
モナカがぱあっと顔を輝かせる。
「えらいっ!」
「うん、君は……すごく、つよい子だね」
ミタマがそっと言った。
少年は小さく頭を下げると、再び絵馬掛けへと歩いていった。
そして、ひとつ、願い札を取り出して、こう書いた。
「ありがとう。また来ます」
境内に、夕日が差し込む。
あたたかな光のなかで、モナカとミタマはそっと手を取り合い、ふたりだけの小さな笑顔を交わした。
「……最初の願い、叶ったね」
「うん。きっと、これからも——」
静かな神社に、風鈴がひとつ鳴った。
モナカとミタマの、小さな奇跡が、今日もひとつ、積み重なった。