東京25時
熱に浮かされた頭で、私は東京の鉛色の空をぼんやりと見上げていた。
それは、まるで私を閉じ込める巨大なガラスの天井のようだった。
アパートの小さな窓から見えるのは、灰色にくすんだビル群と、遠くに霞む東京タワーの輪郭だけ。
窓枠には埃が薄く積もり、換気のために開けた隙間から忍び込む冷たい風が、カーテンを微かに揺らしている。
部屋の中は静かすぎて、時折聞こえる自分の咳だけが現実を突きつけてくる。
地方から上京して二年目の春、私はコロナウイルスに感染し、自宅療養という名の孤独に閉じ込められていた。
もしコロナがなければ、私は今頃、いつものように満員電車に揺られ、出版社のオフィスで原稿を読み、帰りにコンビニで夕飯を買っていただろう。
◇
孤独という名のウイルスは、私の心を蝕み、思考さえも奪っていくようだった。
ベッドに横たわり、薄暗い天井を見つめる。
そこには何の救いもない。ただ、時間が重くのしかかるだけだ。
藤沢葵、25歳。
地元の短大を卒業後、念願かなって東京の小さな出版社に就職した。
子供の頃から本が好きで、いつか自分が編集者として本を作りたいと夢見てきた。
でも、現実は夢とはほど遠かった。
コロナ禍でリモートワークが続き、同僚との交流はZoomの画面越しだけ。
入社当初はランチに誘ってくれた先輩たちとも、今では挨拶程度のやり取りしかない。
地元に残る彼氏とは遠距離恋愛を続けているが、最近は連絡も減り、倦怠の空気が漂っている。
付き合って五年になるのに、LINEの既読スルーが増え、彼からの「大丈夫?」という一言にすら返信する気力が湧かない。
発熱と診断されたのは五日前だ。
熱は39度を超え、咳が止まらず、食欲もない。
味覚も嗅覚も失い、ただただ体が重い。
誰とも会えず、ベッドに横たわる日々。
家族に電話をかけたら心配するだろうし、彼氏に頼っても「仕事が忙しい」と返されるのが目に見えている。
「こんな時にそばにいてくれる人がいたら…」
弱音が頭をよぎるたび、情けなさに打ちひしがれる。
唇を噛み締め、涙を堪えた。
一人で耐えるしかない。
そう頭ではわかっていても、心の隙間を埋めることはできなかった。
感染から五日目。
熱は少し下がったものの、倦怠感は消えない。
昼過ぎ、インターホンが鳴った。
アパートの古い壁に取り付けられたモニターが、カタカタと小さな音を立てて起動する。
驚いて画面を見ると、スーツ姿の女性が立っていた。職場の先輩、佐藤さんだ。
彼女の背後には、外階段から漏れる薄暗い光が淡い影を落とし、コンクリートのひび割れが目に入る。
佐藤さんはマスク越しに微笑んでいるようだった。
「葵ちゃん、大丈夫? 食料と飲み物置いておくね。無理しないでね」
その声にほっとしながら、私はかすれた声で答えた。
「ありがとうございます…助かります」
静まり返ったアパートの一室。
モニターに映るぼやけた人影は、まるでモノクロ映画のワンシーンのように現実感を欠いていた。
すると、その端に、もう一つの影が重なった。
男性だ。
佐藤さんが振り返り、促す。
「あ、高橋君も何か言ってあげて」
「えっと…藤沢さん、ですよね。お大事にしてください。早く元気になってくださいね。何かできることがあれば、遠慮なく言ってください」
低く落ち着いた声が、私の耳に届いた。
その声は、まるで心の奥底に響くような優しさを湛えていた。
かすかに震えるトーンと、丁寧に紡がれる言葉。
それは、孤独に凍りついていた私の心に一筋の光を灯すようだった。
モニター越しで彼の顔はよく見えない。
ただ、黒いスーツの袖口と、繊細な動きを見せる細い指だけが辛うじて映った。
その指は、無駄がなく、流れるように動いていて、どこか知的な印象を与えた。
「ありがとうございます…あの、どちら様ですか?」
「あ、高橋律です。佐藤さんと一緒に仕事をしてるものです。実は、来週の合コンで藤沢さんに会う予定だったんですけど…こんな状況で、本当に心配です」
合コン。
その言葉が遠い記憶の扉を叩き開ける。
そういえば、コロナになる前に佐藤さんが
「リモートばかりでつまらないから、合コンでもしようよ」
と企画していたのを思い出した。
でも、今の私はとてもそんな場にふさわしい状態じゃない。
熱でぼんやりした頭が、さらに混乱する。
「そうですか…すみません、こんな状況で」
「いえいえ、気にしないでください。まずは体を治してくださいね。佐藤さんから聞いて、心配になって一緒に来ちゃいました」
律の声は穏やかで、確かな温かさを秘めていた。
弱っているからだろうか。
私は暗闇の中で一筋の光を見つけたような安堵感を覚えた。
インターホンを切った後、玄関に置かれた袋にはパンや果物、スポーツドリンクが詰め込まれていた。
りんごの赤が妙に鮮やかに見え、袋の底には小さなメモが。
「お大事に。高橋律」
と丁寧に綴られた綺麗な文字。
私はそれを手に持ったまま、じんわりと染み込む温かい感情に涙が溢れそうになった。
こんな小さな優しさが、今の私にはあまりにも大きく感じられた。
二週間後、体力が回復し、久しぶりの外出に胸が締め付けられるような高揚感を覚えた。
外の空気は冷たく、頬に触れる風が新鮮だった。
佐藤さんが仕切り直した合コンは、渋谷の喧騒から少し離れた小さなレストランで開催された。
店内に足を踏み入れると、温かいオレンジ色の照明と心地よいジャズの調べが緊張を解きほぐしてくれた。
木製のテーブルには小さな花瓶が置かれ、白い花が静かに揺れている。
席に着くと、向かいに座った男性が顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべた。
「藤沢さん、お元気になられたんですね」
聞き覚えのある、インターホン越しの優しい声。
高橋律だ。
細身のスーツが彼のスタイルを際立たせ、銀縁の眼鏡越しの瞳は知性を湛えている。
30歳くらいだろうか。短く整えられた黒髪と、落ち着いた物腰が彼を大人びて見せていた。
その視線に、心の奥を見透かされているような、でも温かい毛布に包まれるような不思議な感覚を覚えた。胸がドキドキと高鳴り、私は思わず目を逸らした。
「はい、おかげさまで…あの、メモ、ありがとうございました」
「よかったです。ちょっと気恥ずかしかったけど、渡せてよかった」
彼の控えめな笑顔に、さらに心が温かくなった。
合コンが始まると、律の落ち着いた物腰と時折見せるユーモアに私は惹きつけられた。
他の参加者が仕事の愚痴や最近のドラマの話をしている中、彼は静かに本の話題を振った。
「藤沢さん、本好きですよね? 最近読んだ中で、おすすめありますか?」
「えっと…『海と毒薬』を読んだんですけど、重いけど考えさせられる話で…」
「遠藤周作ですね。あれは確かに深い。俺は最近、『カラマーゾフの兄弟』にハマってて…藤沢さんも好きそうな雰囲気ありますよ」
「え、本当ですか? 長いから躊躇してたんですけど、読んでみようかな」
「ぜひ。読んだら感想聞かせてください。僕が知っている面白い話、たくさん紹介させてくださいね」
その知的な会話に、私の好奇心はくすぐられっぱなしだった。
「高橋さんって、本当にいろんなことをご存じなんですね」
と言うと、彼は少し照れたように笑った。
「いや、ただの雑学好きですよ。でも、藤沢さんが興味を持ってくれるなら、もっと話したいな。例えば、この近くの美術館、知ってます? 普段は静かだけど、企画展が面白いんです」
「企画展ですか? 行ってみたいです」
「じゃあ、今度一緒に行きましょうか?」
誘われて頬が熱くなった。
心臓がドキドキと高鳴り、彼の瞳から目が離せない。
でも、心のどこかで罪悪感がチクチクと痛んだ。地元に残してきた彼氏のこと。
まだ別れたわけじゃないのに、私は今、目の前の男性に心を奪われかけている。
「…はい、ぜひ」
と答えたものの、喜びと罪悪感の間で心が激しく揺れていた。
合コン後、私は結局、連絡先を交換し、LINEでやり取りを始めた。
初めてのデートは律が教えてくれた小さな美術館だった。
静かな空間に絵画が並び、足音が木の床に小さく響く。彼が口を開いた。
「この絵、感情がダイレクトに伝わってくるよね」
「良いですね。私はこっちの夕焼けの風景画が好きです」
「じゃあ、今度夕焼けを見に行きましょうか」
彼が提案し、二度目のデートは隅田川のほとりで夕日を眺めた。
川面に映るオレンジが息をのむほど美しく、風が髪を揺らす中、律が言った。
「東京にも、こんな綺麗な場所があるんですよ」
古い喫茶店で文豪の話をしたり、小さな映画館でモノクロの名画を観たり、屋上庭園で夜景を見ながら将来を語り合ったりした。
喫茶店でも律はその穏やかな声で歌うように話してくれた。
「太宰治の『人間失格』って、読むたびに新しい発見があるよね」と楽しそうに語り、映画館では「オードリー・ヘプバーンの笑顔って、時代を超えるよね」と目を輝かせた。
屋上庭園では、「将来、何か自分で作りたいものってありますか?」と聞いてきた。
「誰かの心に残るものを作りたい」
と律は私に新しい世界を決断させてくれた。
地元にいる彼氏とは全く違う、知的好奇心をくすぐられるような、温かい世界。
◇
私は次第に彼に心を奪われ、数ヶ月後、私たちは付き合う一歩手前の関係になっていた。
ある週末、律が「富士山を見に行こう」と提案してきた。
車を借りて山中湖のほとりに着き、トランクを開けて並んで夕日を見る。
空はオレンジと紫に染まり、富士山のシルエットが静かに浮かぶ。
水面には小さな波が立ち、遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
彼の整った横顔を見ながら、剃り残した髭さえ愛しく感じ、胸の奥で抑えていた感情が溢れそうになった。
律の肩が近く、吐息が聞こえる距離。
風が彼の髪を軽く揺らし、私はこの瞬間が永遠に続けばいいと思った。
律の手が私の手に触れそうになった瞬間。
あと少しで触れる。そう思った時、彼がぽつりと言った。
「藤沢さん、彼氏いるよね?」
私は言葉に詰まった。彼氏がいることを律に話したことはなかった。
でも、SNSで私の地元での写真を見て察していたのだろう。空気が重くなり、私は慌てて弁解した。
「うん、いるけど…最近うまくいってなくて、もうほとんど終わってるようなものなんです」
「そっか。でも、俺は本気になっちゃう前に、距離を置いた方がいいかもしれない。藤沢さんの気持ちがはっきりするまでは」
律の声は優しかったが、その言葉は冷たく突き刺さった。
私の心を切り裂くような鋭さはないのに、なぜか有無を言わさぬ重さがあった。
私は何も言えず、ただ夕日が沈むのを見つめた。
湖面に映るオレンジがだんだん暗くなり、冷たい風が頬を刺す。
その夜、車の中で交わした言葉は少なく、彼が私をアパートまで送ってくれた時、「おやすみ」と小さく言って去った背中がやけに遠く感じられた。
その日以来、彼からの連絡は減り、私たちの関係は自然と途切れてしまった。
私は何度もLINEを開き、「ごめんね」と打ちかけては削除した。
律を失った喪失感は、コロナの孤独よりも重く、私を押し潰しそうだった。
律との別れは、私に大きな穴を残した。
東京の夜は以前より寂しく、目が覚めては彼のことを思い出す。
アパートの窓から見える夜景は、ただ冷たく光るだけ。
仕事が終わっても、誰かと話したい気持ちが湧かず、ベッドに横たわって天井を見つめる時間が長くなった。
でも、その痛みは私を変えた。
いつまでも落ち込んでいても仕方ない。
私は自分を奮い立たせ、仕事に打ち込むことにした。
出版社での仕事は忙しく、締め切りに追われる日々。
でも、原稿を読み込むたび、作家の思いに触れ、自分の役割に誇りを感じるようになった。
新しい企画を提案し、先輩に褒められた時は、久しぶりに笑顔が戻った。
新入社員の女の子とランチに行き、彼女の恋愛相談に乗っているうちに、自然と友達が増えた。
彼氏とも話し合い、コロナの前から終わっていた関係に終止符を打った。
「別れよう」と切り出した時、彼は「うん、わかってた」と静かに頷いた。
私たちはお互いを縛る鎖を解き放ち、初めて自由になった気がした。
私は少しずつ、自分の足で立っている実感を得ていった。
律との出会いがなければ、私はこんな風に変われなかったかもしれない。
彼が私に教えてくれた新しい世界が、私を強くしたのだ。
それから三年後の春。
渋谷の交差点で、私は偶然律と再会した。
雑踏の中、スクランブル交差点を渡る人波の中で、彼の姿が目に入る。
少し髪が伸び、落ち着いた雰囲気を纏う彼に、私は運命の糸に導かれるように声をかけた。
「高橋さん、お久しぶりです。お元気そうでよかった」
彼は一瞬驚いた顔をした後、穏やかに微笑んだ。
「藤沢さん、久しぶり。元気そうで何よりです」
お互いに笑顔で挨拶を交わした。
でも、彼の瞳に映る私は、もうあの頃の私ではなかった。
別れ際に、彼が小さく手を振って去っていくのを見ながら、私は思う。
あの出会いと別れがあったからこそ、今の私がいるのだと。
律と過ごした時間は、私に本当の愛と成長を教えてくれた。
別れは辛かったけれど、それが私を新しい未来へと導いてくれたのだ。
律と出会ったあの日から、私の時間は止まっていた。
たった今、やっと動き出した。
富士山の夕日も、インターホン越しの声も温かい「おもいで」になった。
でも、それが私に教えてくれた。
本当の愛は時に別れを通してしか見えず、成長とは失ったものを抱きしめながら前に進むことなのだと。
私はもう、ガラスの天井の下に閉じ込められていない。
新しい晴天の空の下で、自分の道を歩き始めていた。