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私の物語

作者: ロッドユール

 いつも、あの子はあの場所に立っていた。新宿駅の西口通路。大勢の人が行きかうカオスの中に一人立ちどまり、通路中央に立つ大きな柱を背に彼女はいつもそこに一人立っていた。

 彼女の手には「私の物語・一冊300円」という手作りの札が、遠慮がちに掲げられている。 

「私の物語・・」

 私は気になっていた。その通路を通る度に、彼女と、その小冊子の中身が気になっていた。

 確か、彼女を初めて見たのは高校生の時だった。その時は、ただ変な人が立っているなということくらいしか思わなかった。しかし、何年も何年も同じ場所で立つ彼女を見続けていると、次第に何か気になり始めてくる。毎日立っているわけではないのだが、見かけるタイミングで、確実に一定の日にち立ち続けているのは分かった。

 彼女はいつも白を基調としたロング丈のワンピース様の服に身を包み、何を見ているのか、ほとんど顔も表情も動くことなく独特の穏やかな雰囲気で立ち続けている。

 肌は病的に白く、小柄で、しかし、それでいてどこか神秘的な雰囲気を滲ませていた。顔は悪くないと思った。少し俯き加減んで、髪も長く近くでしっかりと見ているわけではないが、それでもかわいい顔をしているのは分かった。そこにもどこか私は惹かれるものがあった。

 年齢は、若くも見えるし、大人にも見えた。十代に見ることもできるし、二十代にも、三十代にすら見ることができた。ただ不思議なのは私が初めて見た時と、ほとんど見た目が変わっていないことだった。初めて彼女を見てから十五年以上が経っているはずだった。別人ということは、あり得ないと思う。確かに同じ人物だった。

 私は、そんな彼女に、だんだん興味を持つようになっていった。いったい彼女は何者なのだろうか。一旦気になりだすと、より気になるようになっていく。いつも、その通路を通る度に彼女を見た。

 相変わらず冊子は売れている様子はまったくなかった。もう数えきれないほど何度も彼女を見ているが、売れているところを一度として見たことがなかった。立ちどまる人間すらいなかった。一度、紳士然とした老人に話しかけられているのを見たが、それくらいだった。

「私の物語・・」

 その冊子の中身も気になった。いったい、どんな物語なのか。あんなところに一人日々立ってまで売りたい物語とはいったいどんなものなのだろう。私は気になった。

 しかし、興味はあってもなかなか、声をかける勇気までは持てなかった。何年も彼女を素通りするという習慣がそうさせているのか、生来の気の小ささのためか、それ以外の何かなのかは分からなかったが、なぜか、気楽に彼女の前に立つという、そのなんてことないことができなかった。

 彼女のことが気になりながら、日々だけが、流れていった。私はどうしても彼女に声をかけることができなかった。

 だが、ある忘年会のあった会社帰りの夜だった。大分夜遅くなってしまったが、いつものように西口の通路を歩いていると、こんな寒い日にも関わらず、彼女はいつものようにそこに立っていた。

 私はその時、なぜかふいに決意した。それがいったいなぜだったのかは自分でも分からなかった。酒の力もあったのかもしれない。ただ、何か私を突き動かす強い衝動がその時突如として湧き上がった。私はいつも歩いている道筋から歩く方向を変えた。

「あ、あの」

 わたしは、少し緊張しながら彼女の前に立った。彼女が静かな表情で顔を上げ私を見る。やっぱり、彼女はかわいい顔をしていた。近くで見ると、遠くで見ていた以上にそれがはっきりとした。そのことに私は少したじろぐ。私が勝手に想像していた彼女とは、どこか大きく違っていた。

「一冊・・」

 私は緊張気味に人差し指を立てた右手を上げた。

「はい、300円です」 

 彼女は動ずる事もなく、まったく自然な感じでそう言った。儚く薄く、小さなそれでいて、とても美しい声だった。

「あ、はい」

 私はお金を渡した。ちょうど小銭で300円あった。

「ありがとうございます」

 お金を受け取り、私に冊子を渡すと、彼女はやはり小さくそう言った。そして、薄っすらと微笑んだ。それは、本当に消えゆく陽炎のようなかすかな微笑みだった。しかし、そこにはどこか深いやさしさが滲んでいた。

「・・・」

 緊張していた私は、それ以上、彼女に声をかけることはできなかった。私は、冊子を受け取ると、頭を下げ、すぐに彼女の前を去った。

 本当は、彼女と話をしたかった。そして、色々と彼女のことを聞きたかった。私は少し後悔しながら、自己嫌悪に陥りながら、しかし、同時に諦めもしながら彼女の立つ新宿駅を後にした。

 その帰り道、ついに買ったという小さな興奮と共に、最後に見た彼女のやさしい微笑みが、妙に私の頭にこびりついていた。その彼女の微笑みを思い出す度に、何とも温かい高揚感が、私の胸いっぱいに溢れるように広がった。

 私は早速家に帰り、風呂に入ると、居間の座椅子に座り、その小冊子を開いた。初めて彼女を見てから十五年。ついにその本を読む時が来たのだ。感動に近い不思議な感慨が私を包む。

 全部で100ページもない小さな手作りの薄い冊子だった。表紙には小さなかわいい四葉のクローバーがクレヨンでデザインされていた。

「・・・」

 私は帰りがけに買って来た缶ビールを片手に読み始めた。

 文字をさらっと撫でるだけで、スラスラと頭に入ってくるやさしく語りかけるような文章だった。とても読みやすかった。私の手の中で、淀みなく、滑らかに薄い冊子の、ページが繰られていく。私はゆったりとその世界に、入り込んでいった・・。

「・・・」

 気づけばあっという間に、私はその冊子を読み終えていた。時計を見ると、深夜一時を少し回っていた。十二時ちょっと過ぎ辺りから読み始めたから、一時間も経っていないほどの時間が過ぎただけだった。

 しかし、その時間の濃密さは、何か、別の時間を長い間旅してきたような、重厚な時間の経過を感じさせた。

「・・・」

 読後、私はしばらく、座椅子に座ったまま、動けず、その場に固まっていた。

 不思議な読後感だった。決して感動しているわけでも、興奮しているわけでもなかった。そんな、現代の過剰な刺激に増幅されたエンターテインメントにすぐれたおもしろい物語ではなかった。

 そこには彼女の小さな幸せが書かれていた。彼女のなんてことない、本当になんてことない日常の小さな幸せが書かれていた。彼女独自の視点。ほのぼのとしていて温かな、普通の人間なら見逃してしまうような、ほんの些細な出来事。

「・・・」

 しかし、私は幸せを感じていた。薄っすらとではあるが、ほんのりと確かに幸せを感じていた。心がほの温かい湯たんぽに温められているような、ほどよい心地よい温かさに包まれていた。深夜の冷たい静けさの中で、私はじんわりとその温かさを心に染み入るように味わっていた。

「彼女の物語・・」

 私は一人呟く。

 彼女がこれをなぜあそこに立って売っているのかは分からなかった。私が想像もできない何か理由があるのかもしれない。しかし、これは彼女の心なのだと思った。彼女のやさしさなのだと思った。

 この殺伐とした無機質な都会の喧噪の中で、儚く消し飛んでしまいそうなこの小さなやさしさを、彼女は配っているのだ。

 この荒涼とした広大な世界で、たった一人、たった一人で、砂漠に水を与えるように、禿げ山に種をまくように、無駄とも思えるその自分のやさしさを配るという、そのこの世界の大きさに比してあまりに小さなその行為を続けていたのだ。

 私は泣いていた。気づくと私は涙を流していた。彼女のそのあまりの小ささに、私は泣いていた。

 なんてことだろう。彼女はこの小さな幸せを、何年も何年もあの場所に立ち続け、一人配っていたのだ。

「こんな人間がいるのか・・」

 私の中にあの彼女のあの儚い微笑みが浮かんだ。私はどうしようもない切なさに打ちひしがれ、そして、同時に、彼女の与えてくれたこの小さな幸せを、噛みしめるように強く胸に抱きしめた。

「こんな人間がいるのか・・」

 そして、私は一人、もう一度呟いた。

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