第一話〈奇妙な出逢い〉
だるく重たい身体。
まるで巨大な岩か何かでも乗っているかのようだ。
全身は勿論だが、右の脇腹が異様に痛みを発している。
頭はガンガンと金槌で打たれているかのように痛む。
いやしかし、痛みを感じる、ということは…
「俺、生きてるのか…?」
自分の生存確認と共に意識がはっきりと戻った和親は、どうにかうつ伏せ状態にあった体を起こし、その場に片膝を立てて座る形になった。瞬間身体全体に雷が落ちたかのように激痛が迸る。
五体満足なのは確認できるが、身体を今の体勢に維持するだけで精一杯だ。しかし、身体は悲鳴を上げているものの、実際何処か大怪我をしているかと言えば否だ。動ける範囲で恐る恐る身体に触れてみるが、血が出ている様子もなく、痛みだけが残留している感じだ。
これは一体どういうことだ、と考え出したその時、更に大切なことを思い出す。
「蓮は?!」
一番先に心配すべき友人の名を咄嗟に口にする和親。自分のことばかりでそれどころではなかった。やはりこれは人間自身の生命に対する本能なのか。
こうしてはいられない、と痛む身体を半ば無理矢理動かし、どうにか地に足を付いて立ち上がる。するとどうだろう、先程まで激痛を伴っていた身体がふと軽くなり、極度に痛んでいた右脇腹もまるで嘘のように痛みが引いていくではないか。頭はまだ少し痛むが、それでも意識が戻った当初に比べれば天地の差である。
身体の急激な変化に驚きを隠せず、両手で自分の身体の弄る。そして、何かに弾かれたように自分の置かれている状況を把握しようと視界を自分の意識の中へを入れたのだ。
蓮の姿は何処にも見当たらなかった。和親は唖然とその場に立ち尽くした。
「―――――…何だ、此処は」
和親の目に映ったのは、一面白いレンガで造られた異国の町並みだった。
少なくとも日本ではこんな造形の建物は存在しないであろう、不可思議な形の建物が幾つも立ち並んでいるが人の姿は見当たらない。ただただ果てし無く長い街道にその建物達が沿い建っているだけだ。
空は青く澄んで雲一つ無く、太陽が煌々と輝く。何故かとても洗練された空間のように思えた。
和親はそんなこの世のものとは思えない場所に一人、立ち尽くしていたのだ。
「如月和親君ですね?」
突如和親の後ろから人の声が聞こえた。
少なくともつい先程まで人の気配もなく誰もいなかったはずだ。和親が驚いて振り返ってみると若い男が一人、静かに佇んでいた。白レンガの町並みに酷く同調する、一見すれば純白の奇妙な中国の民族衣装のようなものを纏い、黒の長い羽織を上から羽織っている。
歳は二十代後半だろうか。背はとても高く、漆黒の髪は腰をゆうに超え長く艶やかで、澄んだ真紅の瞳がとても印象的だ。優しい声音は何故だか、どこか懐かしさを感じさせる。
目が合うと、その男は和親に優しく、そしてとても穏やかに笑って見せた。しかし和親は、何故この男が自分の名を知っているのか、ここは何処なのか、自分は何故ここにいるのか、迫り来る疑問の嵐をどうにか抑えるのに必死で余裕がまるで無い。
「…そうですが、どなたですか?」
どうしようかと戸惑いながらも一応礼儀も考えつつ、当たり障りのない、だが至極当然な返答を口にする。男の静かに微笑む様子とは裏腹、警戒と疑問の念を乗せて。
「あぁ、これは失礼しました。まずはこちらがご挨拶するのが礼儀ですよね。私は葛城静佳と申します」
和親の問いにすんなりと答えて見せた葛城静佳と名乗る男は、胸に手を当てて丁寧に一礼をした。
「君の心情はその様子よりお察しします。色々聞きたいことはお有りでしょうが、些かこちらも緊急事態のため、お答えできかねることもあります。些か時間もありません。信用してくれとは言いませんが、何も聞かず、今は私についてきていただけませんか?」
赤の他人の筈なのに、非常に丁寧に対応されていることに少し違和感を感じる。しかしそれよりも、この状況が一体どうなっているのか、自分よりも詳しそうな人物はこの男しかいないわけであるし、同伴することに不思議と不安感はなかった。これもこの男が纏う優しい空気のせいだろうか、それとも、それほど自分がこの男に会ったことで安心しているのだろうか。
「どうやら貴方はこの奇妙な状況を説明できるようですね。とてもお詳しそうだ。見ての通り、俺は状況が把握できていません。この状況を打破できるなら、同伴でも何でもしましょう。でも一つだけ、お聞きしたい。…俺は今、生きてますか?」
和親の簡潔且つ率直な質問に、葛城は少しの驚きと戸惑いを交えた表情を顔に出す。その後、少し悲しげに眉を寄せながら微笑み、君はとても賢い人だ、と称賛を呟いた。
「…その答えに関して言うなら、君の少しの期待を砕いてしまうようで申し訳ないのですが、否ですね。君も薄々気付いているのではないですか? ここがもう君のいた世ではないということを」
葛城はほんの少しの間思案したようだった。そして、和親の言葉から感じられる生への僅かな望みをも断ち切るように、静かに答える。その何処か力のある、覆らない真実を前に和親はただ静かに、そうですか、と一言だけ言った。
「君は午後二時三十四分、友人と共に大型トラックとの接触事故により死去、と此方にはデータが送られてきております」
葛城は懐から何やら書類の束を取り出しパラパラとめくってあるページで止め、淡々とした口調であたかも当然であるかのように説明を付け加えた。
「友人と共に、ってそれじゃあ……」
和親は目を見開いた。先程起こったであろう自分の死に関する情報がこれだけ正確なのに驚きを隠せなかった。
しかし和親は何よりも気になる言葉を恐る恐る復唱して葛城を見た。
「はい。君のご友人もきっと此方にいらっしゃってますし、状況はどうかはわかりませんが君と似たような状態にあるでしょう」
葛城は書類の束を綺麗にまとめ直して懐に戻すと、やわらかく和親に微笑んでそう言った。
「そうか……良かった」
何が良かったのか、何故そう思ったのか和親自身も分からないが、葛城の言葉を聞き終えて和親はとてつもない安心感に全身を包まれるような気がした。
和親は自分に言われたように蓮が「死んだ」と言われるのが恐かった。事実そうなのは変わらないのであろうが、その辺りは葛城なりの配慮があるように思えた。
「貴方、俺が死んでるって言いましたよね? じゃあ、此処は……」
死んでいるのに自分が存在しているというこの感覚、一体どう解釈すればいいのか。もう空想も妄想も、はたまた漫画の世界も交えた考えしか、和親の頭には浮かばなかった。
「中々君も察しが良い。――――……此処は死後の世界。名を閻魔匣といいます。死後、生物全ての魂が行き着く最終地点であり、魂の分別及び判定を行います。通常なら、流れてきた魂は必ず裁判の門を通り、裁かれてからこの閻魔匣へと通される筈なのですが、君だけ何故か直接閻魔匣へと流れてきたようなのです。異例の事態のため各階層には特別警戒令が発令され、君のおかげで司令部ではドタバタ騒ぎですよ。そして、私が直々に君の回収にと向かわされた。というところでしょうか」
葛城はできるだけゆっくり丁寧に又簡潔に、この世界と今に至るまでの自らの動きを和親に説明した。
「閻魔匣? 裁判の門? 司令部に……特別警戒令? ちょっと待て、何がどういうことなんだよ・・・」
耳に覚えの無い新出単語が次々と葛城の口から出てくる中、小さく復唱しながら戸惑いを隠せない和親にとって、少し整理する時間が必要なのは至極当然のことだが、やはりうまく頭がついていかない。しかし、酷く大層な事態になっているということだけが、葛城の説明によってはっきりと分かった。
「特例の事態、とでも思っておいてください。……さて、そんなに時間も無い。悪いですが行きますよ」
簡潔に只今の現状を「特例の事態」とだけまとめると、即行話を切り替えて、葛城はついて来なさいとばかりに和親に背を向けて、何処へ続くかも分からない白レンガの道をゆっくりと歩き出した。
「ちょっと待って下さい! 行くって何処へ…」
和親が軽く駆け出した瞬間、ふと葛城の背中が蓮と重なり立ち止まる。葛城の気遣いのおかげで少しだけ安心出来ていたのに、急にまた蓮のことが心配になって思考を巡らせる。しかし今は、この男についていかなければ何の手掛かりもつかめないだろう。
そうやって考えている内にも、ゆっくり歩き出したと思った葛城の背中は案外早く自分から遠のいていく。和親は見失わないように急いで葛城の背中を追った。
「和親君、君は裁かれなければならない。先程言ったでしょう? 流れてきた魂は必ず裁判の門を通る、と。今からそこに向かいます。はぐれないように気をつけてくださいね」
葛城は少しの息を切らしながら追いついてきた和親を横目で見ながらまた優しく微笑んで、行き先だけを告げた。和親はその微笑みをただ見つめながら早足でついていく。
「すまない、葛城……さん」
和親は突然謝った。何故かこの見ず知らずの男に謝らなければならないと思った。そして何故かこの男には敬称をつけなければならないと思ったのだ。
「葛城でいいですよ。和親君」
葛城はあえて和親の謝罪に大しては何も触れず、目は合わさずともただまた優しく微笑んで、その後の言葉に少しだけ訂正を加えただけだった。
この白いレンガの道は一体何処まで伸びているのだろう、と永遠に続いているように見える道の先を見て和親はただ思った。
しかし和親は、葛城の背中を見ているとこの男についていけばどうにかなるかもしれないと、何の根拠もない安堵に身を預けた。