第7章
葬式後、俺は毎日のように墓地へと足を運んだ。そしてその途中で野に咲く花を摘んでは妻の墓前に供えた。
そしてそれが五日ほど続いたある日、俺は妻の墓前の前で跪き、手を組み、祈りを捧げている若者の姿を目にした。
後ろ姿でもそれが誰なのかはすぐにわかった。カールスに雰囲気がよく似ていたからだ。
「戻ったんだね、ジュリアン……」
声をかけると息子は振り返った。弟に、いや父親である私にそっくりな息子は、私と同じアイスブルーの瞳から涙を溢れさせていた。
「ずいぶんと早く戻ってこれたんだね。帝国の首都からだと一週間以上はかかると思っていたんだが」
「母上の具合いが悪そうだとカールスから連絡が来て、すぐに帰路についたんだ。だけど間に合わなかった」
ジュリアンは唇を震わせながらそう言った。俺には連絡無しだったのに兄には連絡したのか。相変わらず兄弟仲はいいんだな。俺は苦笑いを浮かべた。
「アリスは帝都でのお前の個展の成功を何よりも願っていたんだ。きっと喜んでいるよ」
俺の言葉にジュリアンはさらに涙を溢れさせて、必死に袖で拭った。
かつて俺はジュリアンが画家になりたいと言い出した時に反対をした。そして後押しをしようとしたアリスと対立した。
しかしそれはアリスが自分が産んだカールスに跡を継がせたいからだと邪推したからではない。
アリスはジュリアンを弟達同様に愛し慈しんで育ててくれた。そしてジュリアンを後継者にするために、きちんと教育もしてくれていた。そんなことは俺が誰よりもよく知っていた。
しかし世間のやつらはなんでも 面白おかしく取り上げる。だからアリスが継子いじめをしているかのように世間に思われては可哀想だと思った。いや、そう思われるのを俺が嫌がったのだ。
しかしアリスは、毅然とこう言い放った。
「言いたいやつらには好きに言わせておけばいいのです。どうせ私は平民の方々から未だに悪役令嬢、いえ悪役夫人と呼ばれているそうですからね。今更だわ。
私の望みは愛する子供達の幸せだけです。ジュリアンには絵の才能があります。そしてジュリアン自身が絵を描きたいと望むのならば、その希望が叶うように後押しをしてやるだけです」
彼女は正しかった。
ジュリアンは世界的巨匠と呼ばれている画伯の目にとまり、まだ少年と呼べる頃にはもう、画壇からの高い評価を得ていた。
しかも我が息子ながら見目麗しかったために女性からの人気が沸騰し、天才美少年画家として、ジュリアン=ローハンの名はあっと言う間に他国にまでは広がった。
そしてジュリアンは、二十二歳という若さでこの度大陸で一番の大国である帝国での、初めての個展を成功させたところだったのだ。
ジュリアンの成功でアリスを悪く言う者はいなくなっていた。
息子の個展には必ず家族の肖像画が飾られてあったのだが、その絵の中心には優しく慈愛溢れる笑みを浮かべる、そんな母親の姿が描かれていたからだ。
ちなみに俺もお情けで一緒に描かれてはいるが、他の家族と少しだけ間隔が空いていると思ってしまうのは、俺の気の所為なんだろうか?
屋敷に戻る道すがら、突然ジュリアンがこう呟いた。
「僕ね、生まれ変わっても母上の息子になりたいな。そしてできるなら母上の産んだ実の息子に」
しかしそれを聞いた俺は、息子には申し訳ないと思いながらもこう言った。
「それは難しいと思う。生まれ変わったら、今度こそアリスは俺なんかとは結婚しないと思うから」
するとジュリアンはプッと吹き出しながら、珍しく意味ありげに笑いながらこう言ったのだった。
「僕は母上の息子として生まれ変わりたいだけで、父親は別に父上でなくても構わないんだけど……」
それを聞いた俺は絶句したのだった。
ジュリアンが帰省したその夜、俺はようやく覚悟を決めて夫婦の寝室に足を踏み入れた。
アリスが娘のクリスティーナを身籠ったとわかった時以来だから十六、七年ぶりだった。
部屋の中の家具やベッドは変わらなかったが、やたら色々な物が所狭しに置かれてあった。それらはみなこの部屋には不似合いの調和の取れていない品々ばかりで、一瞬俺はあ然とした。
しかし何故か見覚えがあるような気がして近付いてみると、それらは俺が仕事で出張した時にアリスに送った土産物だった。
捨てていたんじゃなかったのか。
屋敷内でそれらを見かけたことがなかったので、てっきりすぐに捨てられているのだと思っていたのだが。
胸に熱いものがこみ上げてきて、俺は泣くのを必死に堪えた。泣くのはまだ早い。
そして再び部屋の中を見渡すと、壁には大小様々な額縁がバランスよく掛けられてあった。
それは子供の描いた拙い絵から、名のある画伯が描いたと思われるような見事な絵画まで、なんの脈略もなく飾られてあった。
その中で俺の目を一番引いたのは、数点の家族の絵だった。それらの絵の中心には必ず微笑むアリスがいた。
俺がその中に描かれてある絵は、たった二枚だけだった。
おそらくこれらの家族の絵はジュリアンが描いたのだろう。とても優しい色彩で愛情に溢れた絵だ。
俺はライティングデスクの前の椅子に腰を下ろし、カールスから手渡された数冊の日記帳をそこへ置いた。かつて妻がそれらを綴っていたであろう場所に。
そして覚悟を決めて読み始めた。
卒業式の半年くらい前までの日記には、手紙に書かれていたことと同じような心情が綴られていて胸が苦しくなった。
その後数か月ほど日付けが飛んでいたのは、俺がしていた悪行を知って、ショックで何も書けなかったのだろう。
そして卒業式後の日記には心情を綴る内容は一切なくなり、ただ単に日々の日常の様子だけが、まるで何かの業務日誌のように書き記されていた。
わずかに喜びの感情が著されていたのは、子供に関することくらいだった。
俺は妻の姿を少しでも知りたいと読み続けた。俺に関する記述は本当にわずかだった。恨みつらみや文句、悪態さえほとんど記されてはいなかった。
妻アリスにとって俺の存在は、それらを記す価値もなかったのだろう。
そう思いながらページをめくると、そこは妻が最後に記したページで、亡くなる三日前のものだった。
そこには弱々しい文字でこう書かれてあった。
『アンソニーから手紙が届いた。とうとう借金を完済したそうだ。
《これで子供達に負の遺産を残さなくて済む。ようやく親として、貴族としての義務を果たすことができた。これからは夫婦として一緒に過ごそう。
君に見せたい場所がたくさんあるから、一緒に旅をしてくれないか》
そう綴られてあった。
それもいいかもしれない。子育てもそろそろ終わりに近付いてきたし、貴族としての義務ももう十分果たしたといえるわよね。
ローハン家には三人の立派な子供達がいるのだから、今後は彼らが力を合わせてここを守っていってくれることでしょう。もう心配はいらないわ。
これからは、二人でゆっくり旅をするのもいいかもしれない……
以前の手紙に書かれてあった薔薇の原種が残っているという、北の国のローズガーデンに行ってみたいわね……』
妻は、アリスは俺の手紙を読んでくれていた。そして、俺と一緒に旅に出かけようとしてくれていたのだ。
俺は嗚咽を抑えきれず、とうとう声を出して泣いたのだった。
ジュリアンの名が世界的に知られるようになってから、とある国で開かれた彼の個展会場にみすぼらしい格好の中年女性が現れて、ジュリアンの母親だから会わせろと騒いだことがあった。
警備の者達に何度追い出されてもしつこくやって来たが、その度に追い払われて、女性はとうとう彼には会えなかった。
「もしかしたら僕の身内だと名乗ってやって来る者がいるかもしれません。
しかし私の家族は私の絵の中に描いた者だけです。ですからそれ以外の人間はたかりの偽者ですから、すぐに追い払って下さい」
と、警備員達は前もってジュリアンからそう言われていたのだ。
だからピンク色の綿菓子のようなフワフワした髪に榛色の瞳をした女性が、どんなに騒いでも中には入れなかった。
その女性は確かに昔は相当な美人だったのかもしれないが、今はただみすぼらしくて品のない人だった。
それに警備の者達にはひと目でその女性がかたりの偽者だとわかったのだ。
画伯の描く家族の絵の中には、そんなピンク頭の女性はいなかったのだから。