第3章
半年前というと、俺がバネッサと初めて関係を持った頃だ。もしかしたらアリスはあの頃には既に俺とバネッサの関係に気付いていて、俺との関係改善を諦めたということか?
そう俺が思い至った時、アリスはこう言った。
「私はこの六年の間、貴方と少しでも良い関係になれるように、自分なりに努力をしてきたつもりです。しかし、それは無駄であったと半年前にようやく悟りました。
私達は政略結婚なのですから、愛情など必要ないとようやく踏ん切りがついたのです。
ですから私がバネッサ様に嫉妬して虐めるなんてことは絶対にありません」
何が政略結婚だ。お前が俺に一目惚れして婚約を申し込んできたんじゃないか!
俺がカッとして一歩アリスに近寄ろうとしたら、俺の代わりにアリスをエスコートしてきたと思われる男に間に入られてムッとした。
しかし、その男を間近で見た俺は絶句した。何故ならその銀髪碧眼のど迫力のある美形男子は、王弟であるマードック公爵の嫡男のコーデル卿だったからだ。
何故公爵家の者が新興伯爵家の令嬢のエスコートなんかしているんだ? 俺が疑問に思った瞬間にその答えが返ってきた。
「どういうつもりで君は、こんな公衆の面前で我が従妹を貶める真似をするのだ?」
従妹!!
俺は驚愕の事実にただただコーデル卿の顔を見つめた。確かに色合いは王家のものだったが、顔のその上品なつくりはどことなくアリスに似ていた。
しかし俺はアリスに王族の親類がいることなんか知らなかった。
同じ伯爵家でも建国以来の名家である我がローハン家とは違って、アリスの家の歴史は百年も経っていない、新興の部類だったからだ。
確か貿易で大成功を収めた何代か前の当主が莫大な税を納めて、子爵から陞爵して伯爵になったと聞いたことがある。
しかし俺はアリスが嫌いだったから、アリスのこともミラー伯爵家のことも詳しく知ろうとはしなかった。
他家というか縁を結ぶ予定の相手や家の情報を得る努力を怠った。俺は伯爵家の後継者として、致命的な失態を犯したのだ。
さらにこの後で俺は、コーデル卿から驚愕の事実を告げられた。
「君はさっき、君の隣にいる女性がこの二月ほどずっと、アリスティアに虐められていたと言ったね。
でもそれはおかしいよ。アリスティアはこの二月、学園には通っていなかったのだからね」
「通っていなかった?」
「おやおや、婚約者が二月も学園にいなかったことにも気付いていなかったのかい?
周りを見てご覧よ。友人達はみんなそのことを知っているよ。
アリスティアは昨日まで王城で女官の研修を受けていたんだ。それなのにどうやって学園でそのご令嬢を虐めることができたんだい?
ああ、君は愛人に夢中でアリスティアどころじゃなかったか」
「愛人?」
俺達は驚いて声を上げた。
何故なら俺はバネッサを愛人にするつもりなんかなかったからだ。
しかし、この期に及んで俺はようやく、バネッサとどうなりたいのかを深く考えていなかったことに気が付いた。
生まれてくる子供を跡取りにしたいとは思ったが、彼女を正妻にしようだなんて思ってもみなかった。貧乏男爵家の娘を娶ってもローハン伯爵家には何のメリットもないからだ。
それに子供を産んだらバネッサは学園を中退することになる。卒業できなかった令嬢などは半端者、疵者と同等だ。そんな令嬢との結婚を両親が認めるわけがない。特に母親が。
そもそもバネッサの産んだ赤ん坊は、一旦他所へ養子に出した後で、アリス以外の女性と結婚でもしたら引き取ろうと思っていた。
バネッサからあの虐めの話を聞くまでは、俺はアリスとは穏便に別れようと思っていたのだ。それ故に真剣に婚約破棄をしようだなんて考えていなかった。しかも人前でなんか……
興奮して頭に上っていた血が、サーッと急激に引いた。どうしよう。焦っていると、隣にいたバネッサが叫んだ。
「私はアンソニーの愛人なんかじゃないわ。だって私は……」
今この場で子供のことを話されたら一巻の終わりだ。
俺は慌ててバネッサの口を塞ぐと、彼女の耳元でこう囁いた。
「お前は俺に嘘を吐いていたんだな。それならおとなしくしていないと、大変なことになるぞ。目の前にいらっしゃる方は、国王陛下の甥のマードック公爵家の嫡男なんだからな」
バネッサは真っ青な顔で俺を見上げた。多分俺の顔も真っ青だったに違いない。
✽✽✽
その後、結局俺は何故かアリスに婚約破棄をすることはできなかった。というより、信じられないことに婚約関係はそのまま続行されることになった。
本当なら俺はミラー伯爵家から膨大な慰謝料を請求されて婚約破棄をされるところだったのに。
その上俺は家から廃嫡されて平民に落とされ、あの嘘吐きバネッサと所帯を持たされていたに違いない。
元々俺とアリスの結婚は、ミラー伯爵家からの申込みなどではなかったのだから。
我がローハン家は名門伯爵家とはいえ、先代が浪費と事業の失敗で莫大な借財を作ったせいで首が回らなくなっていた。
それで現当主である父親が幼なじみである王太子(現国王陛下)に泣きついたのだ。
すると王太子殿下は父である(前)国王の許可を得て、姻戚関係にあるミラー伯爵家に頭を下げて融資を頼んでくれたのだ。これまで我が国のために尽くしてくれた名門のローハン家を潰さないでくれと。
何故そこまで王家がしてくれたのかというと、俺の両親の結婚そもそもが王家のお膳立てによるものだったからだ。建国以来の名家であるローハン家を立て直そうと。
ところが一見すると余裕のありそうだった母の実家の侯爵家は、見掛け倒しの貧乏貴族だった。それ故に蓋を開けてみると、とてもじゃないがローハン伯爵家の援助などできなかったのだ。
それどころか侯爵家の令嬢としてプライドだけ高かった妻が浪費を繰り返し、余計にローハン家の財政を圧迫したのだ。王家はそれを申し訳なく思っていたようだ。
しかしいくら王家の頼みでも無闇に金を融通するわけにはいかなかったので、両家の間で婚姻関係を結ぶことにしたのだ。ローハン家の財政立て直しにミラー家が指導や監視ができるようにと。
つまりミラー伯爵家にとって、娘のアリスと俺の婚約はメリットなど何一つなく、ただ一方的な奉仕活動のようなものだったのだ。
確かに父親からは常日頃からミラー家には感謝しろ、アリスティア嬢を大切にしろといつも言われていたのだ。
しかし母はこの婚約の意味を俺に隠し、あまつさえ嘘を吐いていた。その上いつもミラー家を見下す発言ばかりしていたのだ。成り上がりの卑しい商売人だと。
母は俺がアリスに手紙や返事を出さないこと、婚約者としての贈り物をしていなかったことについても知っていながら何の注意もしなかった。
母がそんな風だったから、俺も平気でアリスを下に見て蔑ろにしていたんだ。
今になって考えれば、俺の婚約者に対する態度はあまりにも非常識だった。普通ならとっくに破談になっていてもおかしくない状態だった。
しかしそうならなかったのは、借金返済のために奔走してほとんど家を留守にしていた父の代わりに、家令や侍女長が必死にフォローしてくれていたからに違いない。
使用人達はまともな人間だったらしく、母や俺の代わりに贈り物やカードなどをアリスに贈ってくれていたらしいから。俺はそんな彼の声にも耳を貸さなかったのだ。
(使用人達はアリスが訪れた時、俺と母の代わりに誠意を込めて対応してくれていたようで、彼らとアリスの関係は彼女が亡くなる最後の時まで良好だった)
侯爵家出身の母親は気位が高く、成り上がりのミラー家から援助を受けることが面白くなかったのだろう。
実家の侯爵家も斜陽だったために自分だって格下の伯爵家に嫁がざるを得なかったというのに、その無駄なプライドをどうしても捨てられなかったのだ。
しかし俺が起こした婚約破棄騒動で、王命による縁談を母がずっと蔑ろにしたことが発覚して、彼女は王家の怒りを買った。
それはそうだろう。この縁談を王家に懇願したのはそもそもローハン家の方なのだから。
それなのに姻戚関係にあるミラー伯爵家がずっと侮辱されていたとなれば、弟であるマードック公爵の面子を潰したことになるのだから当然だ。
その公爵のご夫人がミラー伯爵当主の妹だったのだから。
その後間もなく母は離縁されて実家に返されたが、実家の侯爵家が王家に睨まれた彼女を受け入れるはずがなかった。
母は屋敷に足を踏み入ることもなく、そのまますぐさま修道院へと送られたのだった。
ー補足ー
ミラー伯爵の妹は国で一番と称される才色兼備の令嬢で、王弟であるマードック公爵に見初められて嫁いでいた。
それ故に、そこの嫡男であるコーデル卿とアリスは従兄妹の関係だった。