4日目前編:トロール
ついに異世界の魔物と出会ってしまったが、たいしたことはなさそうだ。今日こそ遠出をして人里を探さなくては
4日目の朝。もうこの生活にも慣れ始めたのか、全員まだ半分まどろみつつも、空が白み始める前には起きていた。昨晩は警戒して、隣にスコップを置きすぐに起きられるように入口近くで寝ていたが、それも杞憂だったようで、何事もなく、外では鳥のさえずりが聞こえる平和な朝がやってきたようである。人間良くできたもので、一晩寝たら不安な気持ちはほとんど吹き飛んでいた。
「さて、準備をして、明るくなったらすぐに出れる準備をしますか」
小谷君がそういって入口の扉を開けると、空が白み始めていた。まだ暗いものの、ようやく周りの人の顔が判別できるくらいにはなった。荷物や朝ごはんの準備程度ならなんとかできそうである。
「ちょっと裏で一服してきます」
そう言うと、喫煙者の木下君が並べた机を乗り越えて外に出て行った。喫煙者にとっては残りのタバコの本数も気になるところなのだろう。節約して吸っているようで、それもストレスになっているようだ。ただ、こう言っては悪いが、そんな嗜好品のことよりも食糧の方が問題である。賞味期限の関係もあるが、いわゆる「ご飯」と呼べる食料もいよいよ底が見えてきた。それが尽きれば、菓子類やカップ麺や運動系サークルの人たちの荷物にあったプロテインやサプリメント系統などしかない。それももって1週間か2週間というところであろう。
全員で朝食を食べる前に、各々朝の準備を始める。並んでいる朝食の中には賞味期限をすぎたパン類も並んでいるが、まぁ大丈夫だろう。それよりも温かいものが食べたい。今日の昼か夜は重量の関係から遠出用の荷物に入れられたカップ麺が食えるはずだ。カップ麺がこんなに待ち遠しいなんておかしな話にも思えるが、想像しただけで涎が出てきそうである。
「木下さん、遅いですね」
「ええ。まぁ根元までゆっくり吸っているんでしょう」
山田さんの心配に喫煙者の後藤さんが答える。まぁ薄暗いうちに出発してもいいことはないだろうから急ぐ必要もないし、何よりまだ寝ぼけているため特段気にせず、そんなものかと思いくつろいでいた。
「うわあああああ」
突然外で悲鳴とも怒声ともつかぬ声がした。最初は何が起こったのかわからず数瞬固まってしまったが、昨晩のゴブリンのことが思い出され、押取り刀ならぬ、押取りスコップで、外に向かった。後ろから小谷君が同じように続き、さらには、他の足音も追ってくる。トイレに行っている人などもいるため、全員はついてきていないようだが、十分だ。石で殴られてもちょっと痣ができた程度だ。今度こそは落ち着いて追い払ってやる。いや、倒してやる、と心に決めて小走りに裏の喫煙所を目指す。
その決意は、最後の角を回って図書館の裏側に出た時に一瞬で霧散してしまった。そこにいたのはゴブリンでなく、木下君をまるで銭湯のタオルを持つかのように片手にぶら下げた怪物であった。ほとんど同時に到着した小谷君がまるで子供のように思える背丈である。
どうする、逃げられるのか、巨体だからといってノロマとは限らない、そもそも、木下君は生きているのか、生きているとすれば逃げるわけにはいかないのか、など頭の中でいろいろな考えが渦巻き、体を硬直させる。
「ゴフッ」
怪物は息を吐き出すように軽く唸ったが、それはそんな自分を見てその怪物は笑ったように思えた。唸った後にこちらを少し見たあと、また中空に視線を泳がすその姿からは寝ぼけているがのごとく緩慢な印象を受けるが、明らかに敵意を持っているのを感じる。木下君を襲ったであろう事実からもだが、こいつは敵であると自分の全身が告げている。
そう思いスコップを握り締めた瞬間だった。その怪物は突然動き出したかと思うと、片手に持っていた木下くんをまるでボロ切れのように振り回し、投げつけてきた。彼の躰は横向きのまま隣にいた小谷君にあたり大きくよろめかせた。小谷君と木下君、いや、その投げられた姿から察するに、正確には木下君だった物体に、一瞬意識が行ったその刹那、その巨体が目の前に迫ってきていた。
「っ……」
慌ててスコップをその目の前の巨体に横ざまに叩きつける。かなりの手応えを感じたその瞬間に目の前に丸太のような灰色の腕が迫っていた。衝撃とともに吹き飛ばされ、したたかに地面に背中を打ち付けた。持っていたスコップも手からこぼれおちてしまった。あまりの衝撃に一瞬意識が飛びそうになるが、さらに追い打ちをかけようとしている巨体が揺らめきながら近づいてきた。
まずいと思い、手に持っていたはずのスコップを拾おうとするが、どう考えても間に合わない。仕方なく怪物のくる方向から遠ざかるように体を転がす。踏みつけようとした足をなんとか躱せたが、避けられたのはゴブリンの時に引き続き幸運に思えた。ただ、今はそんなことを考えている余裕はない。両手を高く掲げて振りかぶった怪物を見上げながら、今度こそは避けられないかもと悪いイメージが頭の中をよぎった。
「この野郎!」
自分が狙われている合間をぬって、体勢を立て直した小谷君が後ろからスコップで一撃を加えてくれた。小谷君のその一撃ですら、当の怪物は少し唸り声をあげただけで、特段効いているように思えない。だた、とにかくその場は助かった。後ろから駆けつけてきた瀧本さんがスコップを拾い身構え、さらには高部君が石を拾い投げつける。さらに遅れて駆け付けた後藤さんは棒に何かの服を巻き付けたものに火をつけ松明のように掲げている。囲まれたことで怪物は誰を攻撃すべきか混乱しているように思える。ただ、動きが止まっただけで、こちらに効果的な攻撃方法がなさそうという状況が厳然として転がっている。動きの止まっている今なら逃げられるようにも思えるが、囲みを解いた瞬間に誰か一人が犠牲になってしまいそうだ。
小谷君がわずかに距離を詰めた瞬間に、その怪物は思い出したように動き出した。またも腕を振り回して襲い掛かる。小谷君は1発目を躱し再びスコップを叩きこむも、2発目をくらい吹き飛ばされた。さらにもう一本のスコップを持った瀧本さんの方向へと振り向く。隣にいる後藤さんが火のついた棒を掲げている。火を恐れているのか、それとも何も考えていないのかわからないが、一瞬動きが止まった。ただ、自分どころか日本人離れした体格の小谷君ですら全く歯が立たない怪物に何ができるのだろうか。
「なっ!……」
わずかに遅れてきた辻野さんが驚きの声を上げた。当然の反応であるが、その声を発したまま固まってしまっている。小谷君も再度起き上がり、スコップを構えなおすが、こちらも動けずに固まっている。自分も体を起こすが手詰まりだ。
しばし固まっていた怪物はいきなり動き出し、腕を振り回しながら小谷君に突進した。間一髪躱したようだが、怪物はそのまま振り返り今度は瀧本さんの方に向きを変え突進していく。その時、偶然にも自分が体を起こす時に手をかけたものがスタンド式の灰皿であることに気が付いた。四角いスチール製で強度も重量もそれなりにありそうである。とっさにそれを持ち上げ怪物の横っ腹に叩きつける。
「あ……」
両手で抱えて叩きつけようとしたにも関わらず、すっぽ抜けてしまった。果たして、大した速度もでないまま怪物の肩口付近に当たっただけであった。しまった、と思ったが、時は巻き戻せない。慌てて距離を取り他に何か武器になるものがないかと見渡そうとした瞬間に、その怪物は奇声を上げのたうち回り始めた。何が起こったのか理解する間もなく、その怪物は奥の森の方へ走り去っていった。
何が起こったのか全員わからぬまま立ち尽くしている。どうやら自分たちは窮地を脱したようであること、そして、最も考えたくない事だが、ここに来た一人の仲間が死んでしまったという事実が徐々に実感できてきた。転がっている木下君に近づいた後藤さんが口元に、次いで、首筋に手をあてる。その後静かに首を横に振った。手を当てるまでもなく首が向いてはいけない方向に向いてしまっている。建物から遅れて出てきた山田さんと松田君が合流して、何があったのかを言葉少なに説明する。
「……」
説明された側も説明した側も、その後に続ける言葉が見つからず、押し黙るしかなかった。
「と、とりあえず、中に入りますか」
小谷君が絞りに絞り出した声は、その大柄な体から出たとは思えない小さな声であった。
「あ、ああ……」
「ちょっと待ってください」
小谷君よりもさらに力ない声で同意しようとした自分の声を瀧本さんが遮った。
「木下さんを、このままってわけには……」
確かに「死んだらはいそれまで」とここに放置するのは薄情なんてもんじゃないのだろう。いくら衝撃的な出来事の直後とはいえ、木下君をそのままにして戻ろうなんて考えてしまったのは、あまりに情けない気がしてきた。
「ごめん……そのまま放置して戻るなんて、ちょっとひどいっすね……」
その気持ちを小谷君が代弁してくれた。
「いえ、そういった意味でもあるんですが、普通にここに血の匂いがすると、また何かが寄ってくるかもしれないっていうのもあって……小谷さんを責めようなんてことは……」
太陽も地平線から覗きつつあり、あたりも大分明るくなっていた。あの怪物は火を見て多少躊躇したのではという後藤さんの言葉から、大急ぎで焚火を数個おこして防壁代わりにしつつ、穴を掘って埋葬することにした。小谷君と自分は、怪我はなくとも体は傷んでいるかもしれないから、と高部君や松田君が率先して穴を掘ってくれた。焚火を起こす手間もそうだが、穴を掘るのは思ったよりも大変そうで、たっぷり1時間はかかってしまった。
「っ……」
埋葬の段階になってようやく実感が湧いてきた。何人かの目から涙がこぼれていた。自分もそれにつられて、目が潤んでくる。ただ、潤んでくるのは本当に木下君を想ってというよりも、ゴブリンなんてたいしたことがない、という空気を作ってしまった自分への後悔の念が強いように感じられた……。
完全初投稿なので、意見が1つでもいただけたらうれしいです。
基本週1くらいで投稿していきます。