9 過去のすり合わせ
頭が真っ白になっている間にオリヴェル様に運ばれてしまい、気づけばベッドの上にいた。オリヴェル様はカンテラをそばに置くと、私を膝に乗せて本を読み始める。本と言っても、日記だ。オリヴェル様の日記である。
「夏月の十七週目にデートに行った時のことだ、イェレナは俺の前で鼻歌を歌っていたんだ。本当は聞かれたくなかったみたいでね、気づいたら咳払いして誤魔化していたよ。はぁ、悶えるほどかわいかった」
オリヴェル様はうっとりとしながら思い出を語り始めた。私が覚えていないことから忘れたいことまで、読み聞かせのように話してくれる。
開かれたページには全て私の行動記録が記されているものだから怖くて、見ないことにした。視線をオリヴェル様の手に集中させる。
「ふた月前に長い遠征から帰ってきた時は……ここだ、秋月の三週目の水の日だね。イェレナがデートに誘ってくれてね、はしゃいでいたイェレナが、転びそうになってぎゅっと手を握ってくれたんだ。イェレナの手は、いつの間にか大人の女性の手になっていてどきどきしてしまったな」
変態の感想は聞いていない。あの時はオリヴェル様がいたからはしゃいだんじゃないんだからね。お祭りが楽しかっただけ。勘違いはしないでよ。
オリヴェル様は手をじっと見ている私が撫でて欲しそうにしていると思ったようで、クスリと笑って喉元を撫でてくる。悔しいけど気持ちがいい。
「イェレナはいつも見守ってくれていた」
ええ、そうですよ。昔の私は健気にも、あなたと円満な夫婦関係を築きたかったのよ。いまはもうそんなバカげたこと考えていませんけど。
「護衛騎士の認定試練に応援しに来てくれたことがあってね」
そうね。声援を送ったら、「大勢の前で騒がないでくれ」なんて言ってきたわよね。あの後、周りの令嬢たちに笑い者にされたんですからね。あなたはそんなこと全く知らないでしょうけど。
「俺は誰にもイェレナの応援を聞かせたくない一心で、騒ぐなと言ってしまったんだ。イェレナの声を聞いたらきっと、みんなの力がみなぎってしまうだろうし」
本当にバカね。そんな魔法みたいなこと、あるわけないでしょ。
なによいまさら、言い訳ばかり並べちゃって。私がどんな思いで過ごしてきたか知らないくせに。
聞いてられないからオリヴェル様の膝から降りると、すぐに抱き上げられてしまい、また膝の上に戻された。さらに腹が立つことに、「ふふ、イェレナに妬いているのかい?」なんて言ってくる。寝言は寝て言え。
「イェレナは風邪をひけばいつも一番に見舞いに来てくれた。扉越しに話しかけてくる声が愛おしくてしかたがなかったよ」
うそおっしゃい。「早く帰ってくれ」だの「もう来るな」だの言ってきたじゃない。
「イェレナが苦しむところを見たくなかったから来るなと言ってしまったけど、それでもいつも来てくれるのが嬉しかった。彼女にとって俺が特別な存在なんだと教えてくれているようだったからな」
……あの時は、そうだったわ。あなたは私の、たった一人の婚約者ですもの。生涯を共にする特別な存在だと、思ってた。でも、いまはもう知らないわよ。風邪ひいて一人でうなされていようが知らないわ。
「イェレナは太陽のように明るくて、眩しい人なんだ」
本当にそんなこと、思っているのかしら。彼の声でそんな言葉を聞かされると、胸の奥が締めつけられるようで。そっと振り返ると空色の瞳と視線が絡んだ。オリヴェル様は切なそうに顔を歪めた。
「お前と同じ金色の瞳で、ずっと見ていてくれたんだ。それなのに俺は、情けないほどになにも返せなかった」
いい加減にしてよ。そんな顔をしたって、婚約破棄したいって意思は変わらないわ。言い訳なんて聞くつもりないんだから。いままでどれだけ傷つけられてきたと思ってるのよ。
「イェレナ……」
オリヴェル様はゆっくりと口元に唇を押し当ててきた。頭の後ろと背中を手で押さえられていて、なす術もなく受け止めるしかなかった。ひどく長くて執拗で、息苦しい。本物の猫にしていたならきっと噛みつかれているに違いないのに、人間の心が邪魔をしてしまう私にはできなくて。
「お前が、猫の姿になってしまったイェレナだったらいいのに」
あたりよ。絶対に教えてやらないけど。
そう思っているのに、いまにも泣きだしそうな顔をするオリヴェル様を見ると落ち着かない。きっと昔から彼を見ていたせいだ。彼を笑わせることばかり考えていた小さい頃の記憶が今も残っているせいで、悔しいけど、泣かないでと言いたくなってしまう。
動けなくなっている私にオリヴェル様の顔がまた近づいてきた。縋るような目で見つめられるとまた胸の奥が騒めくけど……何度も同じ手に乗るもんか。オリヴェル様のせいで散々な目に遭ってきたのに許してなんかやらないんだから。調子に乗って何度も吸いついてくるんじゃないわよ。
「っイェレナ」
前足を伸ばしてオリヴェル様の唇を防ぐと動きが止まった。上手くいった。しょんぼりとするオリヴェル様を見て「してやったり」と得意になったんだけど、それも束の間だった。気づけば視界の天地がひっくりかえって、天蓋が見えている。
「お前まで俺を突き放すのか?」
そう訴えかけてくるオリヴェル様の声はお腹の方から聞こえてきた。見ればまた顔を埋めている。おい変態、強硬手段をとるな。どこに顔を擦りつけていやがる。
「うう……イェレナ……」
情けなく泣きだしたオリヴェル様の涙のせいでお腹の毛が濡れる。最悪だ。風邪ひいて死んだら三代先まで呪ってやるんだから。一族そろって猫アレルギーになるといいわ。猫に触れられない苦しみに悩まされてしまえ。
「イェレナ、俺の前から消えるなんて許さない。外国でも地の果てでも冥界でも追いかけて見つけ出して、二度と俺から離れられないように閉じ込めて縛りつけるから、待ってて」
ヒヤリと、冷たいもので心臓を撫でられたような心地がした。呪詛だ。オリヴェル様が呪詛を吐いたせいだ。オリヴェル様の狂気じみた呪縛に比べたら私の呪いなんて可愛いもんだろう。そう思い至ると、呪う気も失せた。
もはや閉じ込めておくのは確定事項のオリヴェル様。
そんな彼のつぶやきを聞いて、猫のままでいたいと思うようになってきたイェレナです。