8 知らないままでいたかった
その後エリアスは、ルッカリネン家の領地に私を探しに行った時の報告やお父様たちが集めた情報をオリヴェル様に伝えると帰っていった。
ヒルダ様が用意した手紙では、私は婚約から逃げるために王都から出て行ったことになっているらしい。逃げたいのは事実なんだけど、悲しいことに逃げきれていないのが現実だ。逃げきるどころか、嫌いな人に閉じ込められているんですもの。
ああ、疲れた。昼間はあんなにもゴロゴロしていたのに、色々あって一気に体力を削られた気がする。ふわ~っと欠伸をしていると、オリヴェル様がクスクスと笑い声をあげた。
「先に寝ていておくれ。俺はもう少しやることが残っているんだ」
夫ヅラするんじゃないわよ。誰が三日連続で一緒に寝てやるもんですか。今日は長椅子で伸びのびと寝かせてもらいますからね。
私の気持ちを勝手に解釈してしまったオリヴェル様は、長椅子に飛び乗った私を見て「そうか、待っていてくれるのか」と声を弾ませる。勘違いもいい加減にして欲しい。
そっぽを向いて丸くなっていると、オリヴェル様が羽ペンを走らせる音だけが聞こえてくる。そっと様子を窺ってみれば、カンテラに灯された魔法光がオリヴェル様の横顔を明々と照らしている。
オリヴェル様は日記を書いているみたいだ。真剣な眼差しで書いているこの人が、ドレスに抱きついていたり絵に吸いついていた人と同一人物だとは信じ難いけれど、事実なのよね。
じっと見ていると、遠慮がちに扉を叩く音がした。
「坊ちゃん、就寝前に失礼いたします。領地で起こった魔物被害のことでご相談をしたいのですが」
「わかった。資料もいるだろうし、執務室で聞こう」
オリヴェル様が出て行って、パタン、と扉が閉じる。オリヴェル様は魔法光を消さずに出ていったから机の上は明るいままで、日記帳が照らされている。その明りに誘われてしまい、気づけば机の上に乗っていた。
他人の日記を読むのは悪いことだとわかっているんだけど、この三日間ずっとオリヴェル様の知らない一面を見てきたから、まだまだ知らない彼がいるなら知っておきたくて、日記を覗き込んでみる。
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冬月の第三十二週(風の日)
今日はエリアスが来てルッカリネン家での捜索状況を教えてくれた。
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ああ、普通の日記だ。ホッとしつつ他のページを捲ってみて、心臓が大きく跳ねた。
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冬月の第四週(月の日)
イェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナイェレナ(以下略)
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無数の私の名前がページを埋め尽くしていて真っ黒になっている。怖い。ただただ怖い。自分の名前がこんなにも並んでいるとさすがに怖い。どういう心境で書いたのか教えて欲しい。やっぱいいや、教えてくれるな。
この日記が書かれた時期は確か、オリヴェル様は王太子殿下と隣国の視察に行っていたはず。一体なにがあった?
もう読みたくないのに、前足は誘われるようにページを捲ってしまう。
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秋月の第五十四週(空の日)
今朝のイェレナはいつもより十五分遅く起床した。昨日の夜に小説『マンドラゴラ畑でつかまえて』を読んでしまい、あまり眠れなかったようだ。お寝坊さんなイェレナも可愛らしくて抱きしめたくなる。朝食はイェレナが好きなパンケーキが出ていたから一口ひとくち噛みしめて食べていたそうだ。幸せそうなイェレナを見たら食べてしまいそうになっていただろう。午前中は父君の手伝いで第二営業所で書類を片付けていたそうだ。そこにまたもやメレラ家のバカ息子がちょっかいをかけに来たらしい。もう手は打ってある。イェレナに近づけるのは今日が最後だ。再三にわたる警告を無視した己の愚かさを呪え。夜はエリアスの代わりにウルスラの手入れをしてあげていたらしい。頬擦りしようとしたら逃げられて、拗ねてしまったそうだ。いじらしい。そんなイェレナに頬擦りしたくなる。女神様、今日もイェレナがいるこの世界に感謝します。
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どこからどうツッコんだらいいのかわからない。細部まで私の生活を把握していて鳥肌が立つし、物騒な言葉が散りばめられていて震えてしまう。
他のページを見てみても同様で、日記の大半は私の生活の詳細を記している。これってオリヴェル様の日記というより、私の観察日記みたいなんだけど……。まず、どこからこの情報を仕入れてきているの?
「に、にゃっ」
悪寒が走って身を震わせてしまう。
「おや、寒くなったのかい?」
すると執務室に居るはずのオリヴェル様の声が、すぐ近くで聞こえる。全く気配を感じ取れていなかった。オリヴェル様の顔がいつのまにか真横にあって、頬にキスしてくる。
「イェレナ、他人の日記を読むなんて悪い子だね」
笑い声を含みながら囁かれると、メデューサと目が合ったかのように動けなくなる。自然界に放り出されれば捕食されそうな状態の私は、そのままオリヴェル様に抱き上げられてしまった。
視察中にイェレナが足りなくて禁断症状が出ていたようです。
普段はどうやってイェレナを補充しているんでしょうね?