6 猫のままでもいいかも
オリヴェル様に名前を呼ばれながら見つめられて小一時間、本物の猫だったらとっくに一撃をお見舞いしている状況の中、扉を叩く音がした。オリヴェル様が返事をすると、昨晩もここに来た執事が現れる。
「坊ちゃん、夕食を召し上がってください」
「食事はいらない。なにも喉を通らないんだ」
「せめてスープだけでも飲んでくださいませ」
「……すまない、本当に食欲がないんだ」
オリヴェル様は弱り切った表情で訴えているけど、それでも執事は諦めなかった。
「今日のスープはイェレナお嬢様と初めてデートしたお店で召し上がったメニューと同じものを作りましたよ」
「わかった、それだけ運んでくれ」
「かしこまりました」
満足そうに頷くと部屋を出て行ってしまう。パタンと扉が閉まると、オリヴェル様は立ち上がって、入り口とは別にある扉の前に立った。
別の部屋に繋がっているようだから気になっていたけど、鍵がかかっていたから入れなかったのよね。メイドたちはあの部屋は掃除するどころか近づきもしなかったし、なにか大切な物を保管しているから近づかないように言っている、ような気がする。
そっと近づいてみると、オリヴェル様は柔らかく微笑んで頭を撫でてくれる。
「イェレナも見たいか?」
「にゃあ」
そういえば、小さい頃に遊びに来た時は絶対に近づかないようにと言われた気がする。好奇心にかられて覗こうとしたら追い出されてしまって、それ以来は部屋に入れてくれなくなった。
「俺の宝物をしまっているんだ」
扉が開くと、壁一面に私の姿絵が並んでいる部屋が姿を現わして、息が止まりそうになった。部屋の中央には長椅子が一つ置かれているだけで、どこからどう見ても異様だ。
しかも壁に飾られている私の姿絵は最近描いたものから生まれた時の物まで、全て揃っている。さらに部屋の中にはまた扉があって、どうやら絵の保管室らしく、所狭しと絵が並んでいる。
「保存用と観賞用と実用の、三枚ずつあるんだ」
考えたくもないんだけど、この保管室にある絵は全て私の姿絵のようだ。
実用って、どういうことでしょうか。考えるだけでぞっとするんですけど。腹が立つ時はこの絵を殴ってるってことなのかもしれない。冗談じゃないぞこの陰湿ロン毛。
「よくここの長椅子に座って話しかけているんだ。落ち込んでいる時は六歳のイェレナに、悩んでいる時は十歳のイェレナで、いいことがあると最新のイェレナに話しているんだよ」
ご丁寧にも聞きたくない説明をしてくれた。話によると、生まれた時からの私の絵を実家から借りて画家に模写をさせたらしい。
お父様、欲望に眩んで娘を売ったわね。人間の姿に戻った暁には覚悟してなさい。
オリヴェル様は保管室から絵を一枚取ると、顔を近づけて、目の前で、絵肌に口づけを落した。
「はぁ、イェレナ……」
ため息をこぼしてまた絵肌に吸いつく(まだ)婚約者の異様な行動に狂気を感じる。
怖い、ただただ怖い。メイドが決してこの扉に近寄ろうとしなかった理由がわかった。
いたたまれなくなって離れようとすると、抜き足差し足で音を立てていないのにもかかわらず、オリヴェル様が私の名前を呼んで振り返る。
「このことは内緒だぞ?」
人差し指を立ててそう言ってくるオリヴェル様の目が虚ろで、恐ろしさのあまり全身の毛が逆立ってしまった。
この光景を見たことは誰にも言えない。墓場まで持っていこうと誓った。
「はやくイェレナを見つけなきゃ。見つけて閉じ込めておかないと」
人間に戻れても平穏な生活が送れないかもしれない。
もしかしたら、猫のままでいた方がいいかも。
猫の前では自重しないオリヴェル様ですが、使用人たちの前では控えているようです。
※ただし部屋の存在は知られている