28 雪降る夜の再会
しんしんと雪が降る真夜中、ふと、目が覚めてしまった。
もう一度布団の中に潜ってみるけど眠れない。ゴロゴロと転がってみても変わらず、ただ遠くの物音に耳を澄まして退屈しのぎをするしかなかった。
塔の中はだれの足音もせず、ただ暖炉の中で薪が燃える音が聞こえてくるのみで、寂しいと、思ってしまった。オリヴェル様のお屋敷にいたときは、ずっと一緒に寝ていたものだから、あの時は不本意だったけど、ひとりぼっちで寂しいと感じる今となっては、少し、恋しく思ってしまう。
でも、もうあの場所に帰ることはない。きっと今頃、リンネア様を迎える準備をしているに違いないだろう。私が猫になってしまったと判明したのだから。
ぱりん、と体の中で凍る音がして、違和感がした。痛いとか苦しいとかではない。温度が、感じられなかった。先ほどまでは氷の洞窟にいるようなほど寒かったのに、今では何も感じられない。
どうしたのかしら?
視線を落として自分の体を見てみると、体には何の変化もないのに、ぱりぱりと凍りつく音とともに全身に広がってゆく。
自分の体によからぬ変化が起きているのを悟って、怖くなった。手では届かないところ、体の内側から聞こえてくる音は止まらなくて。
自分ではどうしようもできないと絶望する。
そうしている間にも手の先がみるみるうちに凍りついて、白く固い、雪の塊のような姿になっていく。ぱりん、と音がするたびにその雪の塊は崩れて、布団の上に白い雪が散る。
怖くて、悲しくて、声を出そうとしても、出てくるのは猫の鳴き声。もうどうしようもできなかった。今日が最期の日だと、そうわかるとなぜか、頭の中に浮かんでくるのはオリヴェル様の顔で。
こんな時に未練がましくも彼を思い出してしまう自分を、恨めしく思う。
もう眠っていよう。目が冴えてしまっているけど、起きたまま雪になるのはやはり、耐えられない。
寝台の上で丸くなって目を閉じていると、窓ガラスを叩く音が聞こえてきた。こんな背の高い塔の窓には鳥ぐらいしか訪れないはずだけど、窓の外に広がる暗闇に目を凝らしてみても、形さえも拝めない。
すると、ガシャンと大きな音を立てて、部屋の中に黒く大きな影が入り込んでいる。鳥なんて大きさじゃなくて、人間か大型魔獣くらいある背丈だ。こんな時に侵入者に出くわすなんて、つくづくついていない。全身の毛を逆立てて警戒していると、黒い影は近づいてきて、月明かりに照らされてその人物の顔が見えた。
オリヴェル様だ。
青白く血の気のない顔の、ひどく憔悴しきったオリヴェル様が、目の前に現れた。
じっと見ていると、オリヴェル様は懐から赤い魔法石がついた魔法具を取り出した。それは強く輝いていて眩しい。
「やはりこの石が反応しているのか。殿下の仰る通り、君がイェレナなんだな?」
そっと触れてきた手は温かい。安心してしまった。オリヴェル様の前では雪になりたくなかったのに、いざ雪になってしまう時が訪れると、オリヴェル様に縋りたくなってしまう。
「どうしてこんな姿に……手が、消えてしまっているではないか」
「んにゃあ」
帰って、と言いたい。こんな真夜中に、それも窓から侵入してまで来てくれると、私のことを愛してくれていると、勘違いしてしまいそうで苦しいから。それにオリヴェル様が心配してくれていると、未練が断ち切れなくなる。
だけど悔しいことに、オリヴェル様の空色の瞳を見ると何もできなくなってしまう。手を振り払うことも逃げることもできなくて、ただ彼の瞳に魅せられた。
すると、外から足音が聞こえて来て、扉が開いた。透明で氷のような剣を持った殿下が入ってきて、剣先をオリヴェル様に向ける。
「オリヴェル、それ以上触れるな。お前の体温ではイェレナ嬢が溶けてしまう」
いつもの殿下ではなかった。冷たく、震えあがるほど低い声でオリヴェル様の動きを制した。柔和な笑みを湛えているはずの顔は、今や見る者を圧倒するほどの気迫を纏っている。
「無断で侵入した挙句に私のものに触れるとはいい度胸だな」
鋭く怜悧な視線を投げかけられてもオリヴェル様は動揺することなく殿下を見つめ返す。
「お言葉ですが、イェレナは俺の婚約者です。どんな姿であろうと変わらない事なのです」
「戯言を。次の婚約者を迎えるくせによく言えたものだ」
「ロイヴァス家に伝わる秘宝を持ち出すには、見つからなかった場合はアイロラ嬢と婚約するという条件をのむしかありませんでした。アイロラ嬢には申し訳ありませんが、秘宝がイェレナを探し当ててくれると信じて賭けたのです」
オリヴェル様の言葉一つ一つに、胸の奥が痛くなるほど軋む。彼の口から聞きたかった幻聴なのかもしれないと、自分の耳を疑いそうになる。
すると殿下は大きな声を上げて笑った。
「その賭けのせいでお前はイェレナ嬢を傷つけて雪にしてしまったんだ。私がイェレナ嬢にかけた試練の魔法は、お前たちの気持ちがすれ違っていると判断した。そうなったからには、イェレナ嬢はもう人間に戻ることはないだろう。このまま雪にして、永遠に私の元に置いておく。だからお前は諦めて大人しく屋敷に帰れ。そうすればこの侵入のことは目をつむってやろう」
「できません」
オリヴェル様は間髪入れずに答えた。あっという間に、殿下が持っている剣の刃を握り、自分の喉元に当てる。
「それなら今ここで斬ってください。イェレナが雪になるのなら、俺も死んで別の姿になります。イェレナ以外の者と将来を共にするつもりはありません」
殿下ははっとして、よろめいた。その一瞬を突いてオリヴェル様は剣をさらに喉に強く押し当てて、血が滲む。体が勝手に動いて、気づけばオリヴェル様の手にしがみついていた。血の匂いを吸い込むとひとりでに涙がこぼれる。オリヴェル様を失うのが、怖くてしかたがなかった。
「やめろ」
息苦しそうな声でそう言って、殿下は剣を手放した。まるで首を絞められているかのように顔を歪ませ、荒い呼吸を繰り返す。
「なぜだ? どうして未来を変えてもお前はイェレナ嬢を追いかける? それほどまでに運命に踊らされているのか?」
オリヴェル様は柔らかに微笑むと、剣を握る手を離した。カシャンと音を立てて、剣は床の上に落ちる。そのまま胸に手を当てて跪き、静かに答えた。
「いいえ、違います。定められた運命以上に、イェレナを愛しているんです」
とくんと、心臓が脈打った。オリヴェル様を見上げれば、空色の瞳を甘くして、私の姿を映してくれている。
「殿下、私はこのまま、イェレナが雪になるのを見届けてから後を追います。王になるあなたにお仕えできず、申し訳ございませんでした」
オリヴェル様はシャツの裾をちぎって手の傷口を隠すように巻きつけると、私を抱き上げる。
そっと頭にキスしてくれた優しい感覚に目を閉じると、涙が一滴、零れて彼の手に落ちた。
イェレナのためならどんな場所にも現れるオリヴェル様です。




