26 さようならと、私の選択
オリヴェル様の空色の瞳は大きく見開かれている。殿下に向けられていた視線は、そのままゆっくりと、私に移った。期待がこもっていて、それと同時に絶望もはらんでいるような、複雑な感情が渦巻く顔で、私を見つめる。
「聞いての通りだ。イェレナ嬢はこの猫に姿を変えて、ずっとお前のそばにいた」
殿下は遂にオリヴェル様に説明してくれる気になったらしい。私の喉元を撫でながら、淡々と答える。その口調が、いつになく重みのあるおかげなのか、オリヴェル様は疑いを口にすることなく、耳を傾けている。
「それなのにお前は次の婚約者を迎え入れようとしている。イェレナ嬢が受けた心の傷はさぞや大きいだろうな?」
「……っ」
オリヴェル様は言葉を詰まらせて、視線を泳がせた。リンネア様のことはメイドたちの話を聞いて知っていたけど、本人のこんな表情を見ると、改めて、オリヴェル様の心はもう私には無いんだと思い知らされたようで、つきんと胸が痛んだ。
すると、ぱりん、とまた体の内側が凍りつくような音が聞こえてくる。
ああ、オリヴェル様は何も否定しないんだ。
私が猫になってしまったとわかった以上、オリヴェル様はもうリンネア様と婚約するんじゃないかしら。数日前にはオリヴェル様との婚約を破棄してもらおうと思っていたくせに、どうしてかこの状況を素直に喜べない。
きっと、心のどこかでまだ、オリヴェル様が私に好意を持ってくれていたらと、情けない期待を抱いていたんだと思う。
その希望は、あっさりと打ち砕かれてしまったわね。
喉元を撫でてくれていた殿下の手が止まった。殿下は窓辺に移動して、ちらと外を見る。私も一緒になって覗き込むと、数人の騎士を引き連れた男が待機しているのが見えた。
「アイロラ侯爵が援軍に来てくれたようだな。どうやら娘の未来の夫の身を案じているのだろう」
リンネア様の家名を聞いて、胸の痛みが止まない。身体の内側からは絶え間なく、身を凍らせる音が聞こえてくる。
じわりと、涙の膜が視界を覆う。目の前の景色が滲む中、オリヴェル様の顔は輪郭を失っていく。彼が今どんな顔をしているのか、見たいけど、知りたくない気持ちもまた、心の中にある。
「このままイェレナ嬢が猫の姿のままであれば、ロイヴァス侯爵はきっとお前とリンネア嬢の結婚を進めるだろうな。そうなる以上、イェレナ嬢をお前の家に置いておくのはお互いに酷だろう」
殿下の声は優しく、だけど知りたくない現実を突きつけてくる。
確かに私は、このままオリヴェル様のそばには居られない。それに、居たくないと思ってもいる。だって、オリヴェル様の心の中に私の居場所は、無いんだもの。それを見せつけられ続けるのなんてごめんだ。
雪になって消えるその時まで、悲しい気持ちのままでいたくないから。
「イェレナ嬢、私のもとにおいで。私がそなたを匿おう。事情を知っている私が近くにいる方が、そなたも過ごしやすいだろうからな」
はっきり言って、殿下の真意はまだわからない。
それでも、もうこれ以上、苦しい思いを抱えたくなくて、彼の厚意に縋りたくなった。ただそれだけのことで。
「んにゃあ」
同意するべく返事をすると、殿下は私を連れて部屋を出た。殿下が踵を返した一瞬だけ、オリヴェル様と視線が合う。オリヴェル様は震える声で、私の名前を呼んだ。
「イェレナ、本当に、イェレナなのか?」
「にゃあ」
きっとこれが、オリヴェル様が私の名前を呼んでくれた、最後の思い出になるのだろう。
十年もの間、婚約者だった彼に、別れを告げる。
さようなら。
どうか幸せになってください、と気持ちを込めて。




