15 密約の存在
王宮から帰ってくると、執事がオリヴェル様に耳打ちした。
「ハーポヤ嬢がお見えですので応接室に通しています」
うわ、ヒルダ様だ。オリヴェル様になんの用があるのかしら。学生の時からオリヴェル様にべったりだったから、こうやって会いに来ることもあるとは思っていたけど。
「そのまま丁重に帰してくれ。彼女と話す気はない」
帰らせちゃうの?
オリヴェル様はヒルダ様と仲が良かったのに、会わずに帰すだなんて意外と冷たいわね。喧嘩したのかもしれない。
「これまで国王陛下から頼まれてハーポヤ嬢の様子を見ていたが、そのせいであらぬ誤解や噂が生まれることになってしまった。婚約の条件だからのまざるを得なかったが、もっとましな条件にしてくれたらよかったものを」
待って待って、どうして国王陛下が一介の男爵令嬢の世話をオリヴェル様に頼んだの?
話が全く見えてこないわ。どうしてそれが私との婚約の条件になるのかもわからないし。
「ダメだ、ハーポヤ嬢と話しているところをイェレナに見られてしまった時のことを思い出してしまった。あの時のイェレナの目を思い出すと絶望で気が狂いそうだ」
オリヴェル様はクローゼットを開けて例のドレスを掴むと、顔を押しつけて深く息を吸う。
「陛下を恨んではいけない。これでも寛大な措置だ。第三王女殿下との婚約を断ったのに何の咎めもなかったんだから」
初耳なんですけど。オリヴェル様が第三王女殿下と婚約する予定だったなんて、聞いたこともなかった。国王陛下からの命令を断っていたのに噂が立っていないということは、話が持ち上がってすぐに断っていたってことなのかしら。
「ああ、ダメだ。イェレナが足りない。窒息しそうだ」
オリヴェル様はおぼつかない足取りで部屋を横切ると、例の絵画の部屋の中に入ってしまった。しんと静まり返った部屋の中で今まで見聞きしたことを整理していると、扉の向こう側から音が漏れてくる。
チュッ、チュッ、ムチュッ、と聞こえてくる恥ずかしくなる音が。
聞こえないように意識すればするほど、猫の耳は音を拾ってしまう。絵肌にキスする音が絶え間なく聞こえてくるのだ。最初は息をつく間もなく聞こえてきたその音はやがてゆったりとした速さになり、合間に溜息や囁きが交わり始めた。すべて自分の姿絵に向けられているものだと思うと、耳を塞ぎたくなる。
だけど耳を後ろに倒しても前足で塞いでみても、猫の耳は微かな音さえ聞かせてくる。
そうしている内にオリヴェル様は落ち着いたようで、音が止んだ。
「イェレナ、驚かせてすまなかった。いろいろあって取り乱してしまっていたんだ」
代わりに話し声が聞こえてくる。本当に、あの絵に話しかけているんだ。話しかけているオリヴェル様の姿を想像してしまって、冷や汗が出そうになる。
何歳の私に話しかけているの?
恐ろしい好奇心が目覚めてしまい、扉に耳をつける。
「励ましてくれるのかい? ふふ、イェレナは本当にいい子だね。ああ、今日の授業の話を聞かせてくれ。礼儀作法の先生が来たのか。イェレナは完璧だからもう先生なんていらないだろう? 六歳なのに優秀だな」
オリヴェル様は六歳の私と架空の一日の話を始めてしまった。
「そうか、男爵夫人に刺繍を教えてもらったんだね。上手くできたから乗馬の先生に贈る? イェレナは先生のことが好きなんだね。ダメだよイェレナ、君には俺がいるから、」
六歳の頃はまだ出会ってないんだけど、それでも彼が話している内容はでたらめではない。私はあの頃、馬術を教えてくれた知り合いの男爵家の令息に熱を上げていた。
ぞくりぞくりと、全身の毛が逆立ち始める。
「よそ見なんて許さない」
オリヴェル様、いくらなんでもそれは子どもに言うべき台詞ではないです。
落ち込んでいるから六歳のイェレナに話しかけたオリヴェル様でした。